モータースポーツとシムレースの危うい関係

https://www.as-web.jp/overseas/587846

フォーミュラEが主催したバーチャルレース(シムレース)において、アウディのダニエル・アプトが替え玉を使ったことが発覚。
アプトは失格と罰金1万ユーロを課せられた。
アプトは自身の声明でアウディからの解雇を言い渡されたことを示唆する発言もしており、この替え玉事件はなかなかの大事に発展している。
アウディ側の言い分もわからなくはない。
メーカーのワークスドライバーとして最優先で求められるのは「清廉・潔白」であるということだ。
ことにディーゼルゲートで世界中から非難の的となったVW/アウディグループとしては、いま最も重要なのが「清廉・潔白」であり、それは所属するドライバーにも強く求めたいところであろう。

アプトは自身の声明で自身の判断が誤まりであったことを認めつつ、「遊びなんだから良いと思った」(※超意訳)と話しており、また同僚ドライバーの中にもそれを理由としてアウディの処分は重すぎると声明を出すものもいた。
アプトが替え玉に選んだのは、プロのシムレーサーであるロレンツ・ホーリング。ロレンツは影武者としての仕事を全うして3位入賞。
アプト自身はこのシムレースシリーズで今まで1ポイントしか獲得できていないので、この奇妙な作戦自体は成功で会ったと言える。

アプトという経験を積んだプロのレーシングドライバーが参戦しても、なかなか結果を残せないシムレース。
そして一方で、シムレースを主戦場としているロレンツがすぐに結果を残せるという事態は、ドライバーの不正行為という枠を超えて現実と仮想に深い断絶があることを示唆している。

新型ウイルスの蔓延に伴い各種興行が打てなくなっている現在、プロモーター達はシムレースに活路を見出している。
昨今のテクノロジーの進化は著しく、シミュレーション環境は非常に安価に(個人で所有できるレベルに)なってきており、通信回線をつかったシムレースはこの現状において有効な代替手段として機能しているように見えた。
ファンにとってもドライバー達がゲーム(語弊のある言い方だが、このワードは重要になってくる)の世界で戦ってくれるのは親近感を抱け応援できるツールとなっている。
プロモーター達はその人気を当て込んで、自身が行うシムレースに「格式」をつけようと必死だ。
シムレースならば、その興行の背景にあるものは問われない。
F1がモータースポーツで一番格式が高いのは、歴史とそこで使われるテクノロジーが最高だからだ。
F3は歴史もあるが、それほど世間一般で興味を惹かれないのは、レディメイドのシャシーとエンジンを使用しているジュニアカテゴリーだからだ。
その単純な図式がカテゴリの「格」を決めて、人はその「格」にひれ伏してきた。
F1はレースが面白いから人気になったのでは無い。もしレースの面白さが人気に繋がるなら、カートが一番人気のカテゴリになるに決まっている。

新型ウイルスはそのピラミッドを吹き飛ばした。
シムレースはそんな前時代のヒエラルキーは関係ない。面白い興行をうったものが一番人を集めることができる。
その点、実際の興行においてファンブースト等のある種の「見せ方」を模索していたフォーミュラE側にとっては渡りに船だったであろう。
各カテゴリがシムレースのイベントを打つ中で、フォーミュラEはこの機会を下克上の機会と捉えていたと言って良い。

不幸だったのは、そういったフォーミュラE側の思惑が参戦するドライバーにまったく伝わっていなかったことだ。
ドライバー達は長い春休み期間のお遊び、ファンイベントと考えてこのゲームに参加してしまった。
ファンイベントで替え玉を使うのはどうかという話もあるが、覆面のドライバーが登場してあとから種明かしするといった趣向だってある。
その程度の茶目っ気は許されるものという認識だったのであろう。
主催者側がこの機に乗じて既存のカテゴリのヒエラルキーをぶち壊そうとしていたその野望は、意思統一を行わなかったためにあっさりと崩壊してしまった。

個人的にはモータースポーツはモータースポーツであり、シムレースは結局のところそのエッセンスの一部に過ぎないと考えている。
モータースポーツは賛否あるにせよ、ハードウェアがその結果にしめる割合が高いスポーツであり、道具を用意するところから競技が始まっている。
それをフェアじゃないというのなら、ハードウェア介入の余地が少ない別の競技を見れば良い。
数千数万の部品をヒューマンパワーをかけて一つのマシンに仕立て上げ、スタートラインに並べるところからモータースポーツは始まる。
そのマシンは恐るべきトルクとGフォースをうけて、数百キロ先のゴールを目指す。
操るドライバーもその恐るべきトルクとGフォースをうけながら、ライバルとバトルを行い適切な戦略を遂行する。
これがモータースポーツだ。

シムレースを構成する要素は、上記の中の「ライバルとバトルを行い適切な戦略を遂行する」だけであり、ハードウェア賛歌、ヒューマンスポーツ賛歌としてのモータースポーツの要素は皆無だ。
各種パラメータをいじるだけで、画面の中のマシンはF1にもプロトタイプカーにもGTカーにもなる。
ベテランメカニックがその経験で足回りのセットアップをすることもなければ、マネージャーがスポンサーと血がでるような交渉をすることも無い。

おそらくこれは、アプトをはじめとするドライバーたちも同じ想いだったと推察する。
彼らが子供のころから文字通り命をかけてやってきた競技である「モータースポーツ」と比べて、このシムレースは欠伸がでるほど退屈で、彼らの尊厳を小馬鹿にしたものだったのだろう。
なんせ懸けているものが違い過ぎる。
チームのヒューマンパワーの結晶を一人のドライバーに託し勝利を狙う、これはカートであろうがF1であろうが変わらない。
そんな価値観を幼少時から植え付けられているドライバーに対して、興行側は何か適切なフォローができていたのだろうか。

思えばマーデンボロ―がリアルの世界でプロドライバーになって、それが革命だと無邪気に騒いでいたあの頃は良かった。
そこにはシムレースの無限の可能性が広がっていた。
いまやシムレースはメーカーや興行主達のあらたな「ピラニアクラブ」と化している。
リアルな経験を積んできたプロのドライバーを生贄にして。
そこにレーサーへの敬意は存在するのか。

アプトが巻き起こしたこの騒動は、実際のところ我々がモータースポーツをどう捉えているのか。それを問われる一件となってことは間違いないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?