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「みんなのテレビの記憶」コミュニティ始まりました!

この9月に日本テレビを退職して独立したばかりの土屋です。
この『みんなのテレビの記憶』は、みんなが昔のテレビの記憶を書き込んで僕も書き込んで、それは自分も視聴者として「そうそう」ってのもあるだろうし、人の記憶の書き込みからパアッと思い出す何かの情景もあるだろうし、誰かが書いた自分の番組に記憶について「それはこういう裏があるんです」なんて書き込んだり!そんなことがいろんな番組で起きて・・・それが楽しみだ。
そうしているうちに70年の記憶から作られたテレビ史になって後世の人が「昔こんなテレ番組があったらしい」っていうとこのサイトで検索してみんなが書き込んだ記憶を読んで『なるほど!こういう番組だったのか』なんて思ったりしたら素敵だなあなんてことを思っているプロジェクト【みんなのテレビの記憶】が始まりました!
https://kioku.tv/

とにかくみんなが書き込んでもらわないと始まらないプロジェクトなのですが、もう一つの楽しみはWOWOWの「電波少年W」でもやっていたテレビ創世記のテレビマンに”テレビ史の内側”を語ってもらうことなのですがこれも今日から公開なんですけど面白かったなあ。日本テレビって1958年8月に開局なんですけど齋藤さんは1953年入社。開局5年目ですよ!今で考えるとYouTubeが生まれて5年目って2010年。あのHIKAKINもまだスーパーの店員やってた頃です。
そんな開局5年目に入社した齋藤青年はこの頃の芸能界入りにありがちな音楽青年で音楽じゃ飯食えないだろう!と親に言われ仕方なく音楽もやれる会社員ということで日本テレビを選んで入社した。配属されたのは編成局音楽課!音楽”課”ですよ!
総務課とか営業第1課みたいな音楽課。そこで音楽番組の制作に携わるんだけど・・・
という話がこちらのビデオに入っています!私やたらに「へえ〜〜〜」とか「ほ〜〜〜〜」とか言っていますが44年テレビ局にいても初めて知った話ばかりで確かにこういうまさに”テレビ史の内側”って先輩に話してもらうしか知りようがなくて在籍中は怖くて近寄り難いし、先輩は忙しいからそんな席も設けてもらえないから聞く機会がないんだよね。つかみという訳ではないですが最初は欽ちゃんの仮装大賞で「欽ちゃん降りる!」の裏話から

僕が一番「へえええええ」と思ったのは音楽課が最初はクラシック班とジャズ班に分かれていてジャズ班が後のバラエティ班になりクラシック班が後の音楽番組班になるという話。テレビのディレクターはディレクターなんだから誰をキャスティングして何を歌わすか?それをどのサイズにするか?を決めるのが当たり前。レコード会社の言う通りに持ち歌を歌うだけならそりゃ野球中継とおんなじだ!と思っていたという部分。それでそのまま持ち歌をやる音楽番組は仕事がなくなっていたクラシック班がやるっていうことになるんだ。つまり『作り手の意地』みたいなものがテレビの勃興期からあったんだし、それこそがテレビのアイデンティティなんだと感じたところ。俺たちはこの「テレビ」を通じて何を送り出すか?ってことが最初にありきだったっていうのはテレビ屋としてジーンときたのでした。
日本最初のバラエティ番組と言われる「光子の窓」も原型はアメリカにあってそれを当時の日本テレビの井原忠高がアメリカに行ってそのままやったみたいなのがテレビ史では残っているんだけどそうじゃなかった!最初はとにかくやったれ!で始まって1年くらいして井原さんがアメリカに行って「おいホリ前じゃなくてセンターで歌ってた」とか「セットは下に車輪つけて動かすんだ」とか変えていったんだとかその頃のテレビマンたちのビビッドな動きや変化が感じられて嬉しかった!
その頃はきっと毎日がドキドキして楽しかっただろうなあ!
そして「シャボン玉ホリデー」これもテレビ史的にはエポックメイキングな番組だけど知らなかったなあ。クレイジーキャッツやザ・ピーナッツはそんなに売れてなくてど新人だったなんて!制作費がないからギャラが払えず新人を使うしかなかった。そして渡辺プロの渡辺晋さんが「これからはテレビからスターが生まれる!」と確信してほぼタダで出演させた!そして思惑通りにクレイジーやザ・ピーナッツはスターになっていったんだ!
面白いとしか言いようがないでしょ!

次回以降も木曜日に更新していきます。来週は「ゲバゲバ90分」かな。コント55号の「何でそうなるの?」や「カリキュらマシーン」も控えています!

あ、それはそうと1日目から会員権のNFTが売れているそうでこれは事業の存続がかかっているので大変嬉しい。こちらで手に入れてね!

                  「みんなのテレビの記憶」主宰 土屋敏男

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