将棋になれるとルールに無い手は見えなくなる


最近音楽理論を勉強していて思ったこと。

将棋やチェスなどのボードゲームを覚える時、まず最初は何をして良いかわからない状態から始まる。フラットな盤面に置かれたそれぞれの駒を眺めてはどう動くのかをひとつひとつ思い出す。ああそうか、銀は横に進めないんだっけ。

少しゲームに慣れてくるとルール上挿せない手が全く発想に上がってこなくなる、見えなくなる。あり得ない手が見えない分効率的な思考ができるようなり、飛車の上下左右に線が感じられたり、盤面に意味と構造が見えてくる。

さらに慣れてくるとさらに無意味な手が見えなくなる。この辺に集中すれば良いという勘が働くようになり、それ以外の手が頭に登ってこなくなる。狭く深く、限られた時間で良い手を探せるようになる。思考がパターン化することによる効率化。これは諸刃の剣で、常に自分のパターンの外にあるより良い手を見逃している可能性がつきまとう。そのため試合以外の時間に研究をするにはより時間をかけたり他の人の記譜を見たりして固まったパターンの外にある思考法を試す必要がある。

音楽も然り。自分の手癖、発想の癖から早く脱却するには他人の思考法を学ぶのが手っ取り早い。耳の良い人は理論なしで何でも聴いてコピーできるのかもしれないけど、そうでない自分には考え方のパターンを身につけることでより音楽が細かく聞き取れるように感じる。慣れない動きをすることで自分に緊張感が生まれ見てる景色の解像度が上がったように感じる。同じ盤面、譜面でも複数の視点を身につけることで立体的に見ることができるようになり、既存のパターンをちょっと斜めに押してみると新しいものができたりする。

何かに慣れてきた時には少し強制的に快適なゾーンから自分を押し出すと良い。ちょっと難解な理論や、練習しないとできない動きは疲れるけど気持ちが良い。一方で本当に演奏ができるようになるにはパターンを無意識化して出すべき音以外が見えない状態に到達する必要がある。反復による自動化とストレスによる拡張の往復。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?