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コンピュータの質感


道具は能力の延長であり制限であり、その両方の側面が結果を形作る。

印象派のような絵画が油絵具というメディアなしに誕生しただろうかと思う。写実的な細部を離れて全体的な光の効果を考えた(かどうかは知らないけど)結果モネの絵画に絵画に代表されるような質感や表現に落ち着いたのは、物理的な絵具の特性、筆の太さ、キャンバスの質感、屋外での制作による移り変わる光と限られた時間など物理的な制限によって形作られた部分がとても大きいだろう。もし油絵が存在しなかったらあんな絵は書かれなかった。AIを使って絵画を生成する、みたいな研究を見るたびに思うのは模倣すべき対象がなかったらコンピュータは質感をもつのだろうかということだ。

ひと昔前はコンピュータの質感といえば荒い、目に見えるドットで構成された画面だった。8ビットアートとも呼ばれる初代ファミコンのような絵は今でもコンピュータを表すときの記号になっている。DTMの黎明期には解像度の制限や、数値による操作、ランダムなパターンなどコンピュータならではの特徴をもった書体やタイポグラフィが多くのデザイナーによって新しい時代の表現として生み出された。インタラクティブな情報空間の中をただよったり「先進的」なデザインがもてはやされたのも束の間、いつの間にか携帯やノートブックの画面は印刷物よりも高解像度になり、このノートのように文章を読む普通にきれいな書体を大きめのサイズで流せばいいよね、というところに落ち着いた。

メディアに独特な質感というのは不完全なテクノロジーによってしか生まれないのだろうか。未来のグラフィックは3DCGのような現実のシミュレーションに向かっていき、イラストや絵画のようなスタイルは過去の延長のような形でしか発展しないのだろうか。もっと「見たことがないもの」は生まれないのだろうか。

「初期の自動車は馬車の形をしていた」とか「指で押せることを示すために現実のボタンを模した」的な表現ではなく、すべての可能なビットの組み合わせから偶然生まれてきてしまった、でも全然ノイズやランダムには見えない表現。まるで宇宙人が何かの意図をもって作ったような質感みたいなのはできないだろうか。その形容に一番近いのはdeep dreamか、と思ったけど宇宙人だとしたらたぶんギーガーが描きそうなキモイやつなので違う感じがいい。


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