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題目『はんがん』

 今宵のTwilloの冒険の題目は『はんがん』。
"判官贔屓" の "判官" ではない。。
  地名の "漢江" でもない。

 「半眼」です。

 眼を。
閉じているような。。
  開いているような。

 何も見ていないような。
すべてを見ているような。。

 そんな。

 不思議な眼の事を言います。



 むかし、むかしのことですが。
座禅を行った事がありまして。。
  その時に、お坊様から言われたのが。
 "眼は。「半眼」にしておくように。。" という事でした。。

 よくわからないまま。
それでも言われるままに、「半眼」のまま頑張ってみました。。
  やっているうちに。
 いつの間にか、眼を閉じてしまっているんだよね。。
不器用だったのかな。


 仏像なんかを見ても。
やっぱり「半眼」の仏様が多いよね。。
  一説には。
 内側と外側の両方をみる為だ、とか言います。。

 なんとなく、解るような。
解らないような。。


 でも。

多くの仏像も。
 座禅の時も。。
「半眼」である、という事は。
その事には何か意味があるんだろうな。。



 すぐに眠くなってしまう男なので。
深く考え事をしたり。。
  "瞑想" したり。
 そんな時は、いつも。。

"意識" をどこまで "こっち側" に残すのか、という微妙な一点に。
  "職人の技" 並みの技を駆使していますよ。。

 
"眠り" に限りなく近い状態にまで行くことは行きます。
  でも。。
 眠らない。
眠っては、いけない。。

 そんな風に頑張っているうちに。
自然と「半眼」になるものなのでしょうか。。
  もしかしたら。
 そうなのかも。。


 そういえば。

 聖書の一節にも。
原始仏教の経典にも。。

 "起きよ" 。

という命令形の。
 呼びかけのような言葉が出てくる。。
確か、あったハズ。


"眠り" と "覚醒" の "あっち側" と "こっち側" の僅かな狭間には。
  きっと。。
 何かあるに違いない。

 世界のそれぞれの聖典には。
その秘密の一端が記されているのです。。



『はんがん』で臨もう。

 心を。
落ち着けよう。。

 見るとも。
  見ないともなく。。

眠るとも。
 覚醒するとも違う。。

 自分を鎮めて。
自分以外のすべてを鎮めて。。


  そこでしか見えないものを信じて。
        進んでみるというやり方を。。
             してみてもいいかも知れませんぞ(ニヤリ)。。。
             




 Twilloでのワタクシのいつもの最後のセリフ。。
「ワタクシは自分では値段を決めていない。のです。。よ。。。」
適当なものを「サポート」のところに入れておいていただければ
幸いです。。。


 

いつものTwilloでの最後のセリフ。。 「ワタクシは自分では値段を設定していないのですよ。。。」 適当なものをここに置いていただければ。 幸いです。。。