武蔵国 荏原郡 六郷領 八幡塚村

出典

新編武蔵国風土記稿(40巻)
大日本名所図会(37巻)
各寺社社伝

履歴

2024/01/04 「村の概要」を追加


村名由来

八幡(六郷神社)の境内に「八幡塚」と称される塚が存在したことが由来
昔は六郷村と称していたが、正保年間(1640年代)には六郷八幡塚町と記載があることから、この前後の時代からの名前と考えられる

村の概要

荏原郡の南端、多摩川に境を接する。
東に雑色、羽田、萩中の三村、南は川を挟み橘樹郡川崎、堀之内、大師河原、川中島の各村に接するが、このうち川崎宿に飛び地が存在する。
川の流れの変遷により、岸向こうに飛び地が存在する村は珍しくない。
この例も、その後の町村再編により神奈川県川崎市に編入されている。
西は高畑、原、古川の三村、北は新宿、町屋、道塚の三村に接していたというが、隣村に80か所あまりの飛び地が存在したという。(おそらくその最大が「出村」であろう)

村内には、水田、陸田が半々で存在する。
また、村内を南北に東海道が通り、多くの村民がその左右に軒を連ねた。
この東海道は、もともとはもっと東(概ね現在の国道15号(第1京浜国道))に存在したが、元和9年(1623年)台徳院殿(徳川秀忠公)上洛の際に今の地に移された。

林春斎(鵞峰)が六郷橋建設に当たり採録した地元古老の話として、当地は「畠山重忠」の別邸があったという。
この重忠は鎌倉創業の功臣であったが、初代執権北条時政の策謀により非業の死を遂げた人物である。

その後、北条分限帳には「行方与次郎」「蒲田助五郎」「太田新六郎」の所領として記載があることから、この時期にはそれなりに開けていたとみられる。
なお、この太田新六郎は「道灌」の曽孫である。

小字

梅泉

街道(東海道・現代の第2京浜国道)より西方
公共施設・児童公園名に名残なく、当地(仲六郷)の和菓子舗「梅泉の伊東」にその名を遺すのみ(2023年12月現在)

大沼耕地

街道より東方
雑色村の記載に北西方向「大沼用水」が見られる
雑色村内の八幡塚村飛び地「出村」に所在か?

浮面耕地

村の北、新宿村境
当村の北方は雑色村、さらにその先が新宿村であるから
これも雑色村内の八幡塚村飛び地「出村」に所在か?

小沼耕地

街道より東方

焼塚

村の(西)北方、灯火の延焼により焼けたことがあった

浮島

往還西方、多摩川の辺、洪水の時も水に漬からない
天神社が所在していたとのことで「北野天神」の所在地周辺の小字名と思われる

その他

このほかに「町家前」「子之神」「屋敷」などの字があったと言う
また六郷神社周辺を「八幡塚仲町」と称するとも

村内施設

六郷渡

荏原郡と橘樹郡(現:川崎市、横浜市の一部)との間に流れる六郷川(現:多摩川)を渡す渡し船。水路はほぼ現在の六郷橋に沿っていた。
六郷大橋(現:六郷橋)は慶長年間に架橋され、江戸三大橋に数えられたが貞享5年の洪水により90年足らずで渡し船に戻り、以降明治7年に鈴木左内が架橋するまで渡し船が続いた。

多磨川分水

多摩郡和泉村の多摩川から引いた灌漑路:六郷用水の支流
六郷用水は慶長年間に幕府の命により小泉次大夫が開削したもので、当地では「次大夫堀」の別称で親しまれている

八幡社

村の東方に所在、高畑・古川・町屋・道塚・雑色・八幡塚の6か村の総鎮守
社伝によれば、源頼義、義家の父子が前九年の役の出征を前に武運長久を祈り、戦後に石清水八幡宮の分霊を勧請したのが起こり
現在の「六郷神社

別当寶珠院

八幡社の別当寺で八幡社の街道隔てて向かいに所在
寺伝によれば、源頼義が六郷神社創建の折、阿弥陀如来を安置する堂宇を建立したのが起こり
現在の「真言宗智山派御幡山宝珠院建長寺

天神社

浮島にあり、通称「浮島天神」
八代将軍吉宗の乗馬の暴走を止めた柳生氏の邸跡から「止め天神」の異名を持つ
現在の「北野天神

畑明神社

雑色村にある(八幡塚村の)飛び地「出村」に所在
新田家臣である畑某が、敗戦自尽したのを村人が祀ったのが起こり
明神山古墳付近か?

観乗寺

街道の東方、小湊誕生寺の末寺
寺伝によれば、善惠院日経上人により寛永年間に創建 大目付・道中奉行高木伊勢守守久陣屋の跡
なお、守久の子・高木伊勢守守養は六郷神社に手水鉢を寄進したとのこと
現在の「日蓮宗日経山東光院観乗寺

東陽院

街道の西方、新義真言宗高畑村宝幢院の末寺
開基は榮尊法印 寛永年間創建か
現在の「真言宗智山派慈雲山東陽院安楽寺


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