武蔵国 荏原郡 馬込領 雪ヶ谷村

出典

新編武蔵国風土記稿(45巻)(以下「風土記稿」)
池上町史(以下「町史」)
各寺社社伝


村名由来

土地の構成は、村の中ほどを東西に流れる呑川に向かって「谷」になっている。嘗てこの谷に、雪を固めて氷室を作ったことから「雪ヶ谷」と呼ばれるようになったという説がある。

村の概要

雪ヶ谷村は、道々橋村の北にあり、この村も(道々橋村と同じく)古は千束郷に属していたと言われる。
村の北西から南東にかけて川(呑川)が流れており、谷を形成している。
川は大正期に実施した区画整理により直線化されているが、川の周辺の平地は当時川筋が曲がって水田地帯を形成していた名残を見ることができる。

東を池上村に、西は嶺、鵜ノ木の2村に、北は石川村に、南は殆ど道々橋村と少し久が原に接していた。
また北辺に中原街道が通過している。

村内は高低差があり、土は黒土・赤土。谷が多かったので水田は少なく、専ら陸田であった。水利に乏しく、ややもすると作物に水不足があったと伝わる。

北条分限帳(小田原衆所領役帳)によれば
・二貫八百五十文 六郷内雪ケ谷 太田新六郎知行
・五貫文 江戸雪ケ谷 新藤下総守
とあるので、検地が開始された永正年間(1507年~)~分限帳が取りまとめられた永禄2年(1559年)の時点では既に開けていたと思われる。

※圓長寺裏から現在の南雪谷四丁目にかけては「雪ヶ谷貝塚(都遺跡No.57)」が存在しており、縄文土器、縄文石器等も出土されていることから古代からこの周辺に人が住み着いていたことがわかる 

小字

市ヶ谷方

村の南方で、後述の圓長寺が所在する。
読み方は「いちげた」。
区立の児童公園「市ヶ谷方児童公園」にその名を遺すのみ。

髭山

村の西南方で、呑川から見て現在の「雪が谷大塚駅」方面の山になっている部分。別称「日下山」、読み方は「ひげやま」。
東急バス「蒲12系統」のバス停「日下山」、
区立の児童公園「日下山児童公園」にその名を遺す。

並木

村の東南方で、町史によれば別称を「居村」とした。
呑川架橋「居村橋」にその名を遺す。

花ノ木、下

村の東南方で、「下」には後述の長慶寺が所在する。
町史によれば「花ノ木」は「大下」と名称が変わったようであるから、おそらく「下」も同じく「大下」に含まれるものと思われる。

石川

村の西北方、石川村に接する。
一応「石川村」とは直接関係がないとされるが、そもそも「石川」自体が「呑川」の別称であるという説がある。

三谷

村の北方で、別称「山谷」とも。
町史には、その所在が「大塚宮脇」と記載されているが、この大塚宮は後述の雪谷八幡宮と思われる。

その他

町史には「笹丸(洗足池方面)」「長家(日下山近辺)」「西(居村近辺)」「宮下」「」「狢窪」「柳町新田」などの字があったと言うが、風土記稿作成時と、町史作成時では区画整理による呑川の整備によって川筋が大分異なるためか、比較に難がある。

村内施設

八幡社

村の中央の少し高いところにある。
前述の代官・太田新六郎が管内巡視の際に、当所に於いて法華経曼荼羅の古碑を発掘し、それにあやかり八幡大菩薩を祀ったのが創始と言う。
村内の圓長、長慶二寺を別当寺とする。
現在の「雪ヶ谷八幡神社

圓長寺

市ヶ谷方に所在する法華宗身延久遠寺の末寺で、照光山と称する。
開山は常照院日豊上人で、元和2年(1616年)2月にこの寺を創建し、寛永7年(1630年)6月6日に示寂した。
鐘楼)銘文の末に「正徳2年(1712年)」とある
古碑)元亨の文字以外は読めない。元亨は1321年~1324年の元号である。
現在の「日蓮宗照光山圓長寺

長慶寺

下に所在する法華宗池上本門寺の末寺で、雪谷山と称する。
開山は十法院日親上人で、慶長3年(1598年)9月10日に示寂した。
この寺は碑文谷村にあったが、檀家の国分方、直江(直井)、宮田、飯田などの家とともに移ってきた。
何時移ってきたか、詳しいことは残っていない。
現在の「日蓮宗雪谷山長慶寺

呑川沿いの桜並木「長栄桜」

大正15年に西部耕地整理組合が設立され、区画整理の結果呑川を直線化改修された際、仲池上の日蓮宗長松山林昌寺住職加藤文淵師を発起人に、加藤復雄氏が私費を投じ、また池上電鉄その他有志の援助もあって、二千本もの桜を、現在の石川台駅付近から池上本門寺に掛けて植えられたものである。

当時「関東随一の美観」と称されたと記録されている。


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