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19 耳かきと梵天

[編集部からの連載ご案内]
白と黒、家族と仕事、貧と富、心と体……。そんな対立と選択にまみれた世にあって、「何か“と”何か」を並べてみることで開けてくる別の境地がある……かもしれない。九螺ささらさんによる、新たな散文の世界です。(月2回更新予定)


昔の耳かきの先には、梵天というものが付いていた。
子どもの頃は漢字変換できず、「ぼんてん」と音認識のみだった。
見ていると、父も母も、耳かきの際にそのぼんてんを使わない。
だからわたしは、それをタンポポの綿毛を模した飾りなのだと思い込んでいた。

中学生になって「ぼんくら」という言葉を知ると、音の似た「ぼんてん」はぼんくらの仲間、お気楽な怠け者というイメージになった。
そしてわたしは、耳かきの先に付いている「彼」を、ナマケモノの化身のように軽視した。
見ても見ないふりをし、無視した。
そのうちに、うちには梵天の付いていない耳かきが置かれるようになり、梵天付きのものは、家族が使う引き出しの奥の奥へと自然に追いやられた。
と記憶しているが、あれはわたしの仕業だったのかもしれない。

大学生になったある日。
わたしは仏像のことを調べているうちに「梵天」という言葉を見つけ、その読みがぼんてんと知ると、懐かしい、と思った。
なんでだろう、と考え、ああ、あの耳かきの先の……と思い至るには、少し時間を要した。
意味を調べると、なんと梵天とは、仏教の世界観における最高位のひとつである、梵天界の主とのこと。
驚いた。
そして、少し寂しかった。
ものごころついた頃からの幼馴染みが、突如まさに手の届かない、人でもない存在になってしまった気がして。

だから傷つかないように、わたしは自分用の、梵天のない耳かきを買った。
そしてそれを、机の、椅子に座ったときに体の前に位置する、平たい引き出しの奥にしまった。
感傷という言葉を体得して使うようになったのは、それよりだいぶ後だったが、それはたしかに感傷以外の何物でもなかった。

忘れ去る、という選択肢もあったのに、わたしは記念というより祈念として、梵天のない耳かきを買って秘蔵することにより、彼の不在を弔ったのだ。

祈りとはそのように、実在の先に不在として存在するのだ。
だから、子どものころ家にあった、耳かきの先の決して使わない梵天は、きっと我が家の神様だったのだろう。


絵:九螺ささら

九螺ささら(くら・ささら)
神奈川県生まれ。独学で作り始めた短歌を新聞歌壇へ投稿し、2018年、短歌と散文で構成された初の著書『神様の住所』(朝日出版社)でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。著作は他に『きえもの』(新潮社)、歌集に『ゆめのほとり鳥』(書肆侃侃房)、絵本に『ひみつのえんそく きんいろのさばく』『ひゃくえんだまどこへゆく?』『ジッタとゼンスケふたりたび』『クックククックレストラン』(いずれも福音館書店「こどものとも」)。九螺ささらのブログはこちら

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