見出し画像

映画『私のはなし 部落のはなし』を見てきた


知ったきっかけはMonoの音楽。観た場所は横浜にある「ジャック&ベティ」で。

〈良かったところ&個人的な感想〉
この映画では被差別部落と繋がりのある多様な世代や立場の人たちが登場し、彼らの不安や希望、そして思想や信念が率直な言葉で語られていた。それらは決して一様ではなく、当然だけれど一人一人が歩んできた人生に裏打ちされたものだった。

昭和と平成が過去のものとなり、私たちは確かに制度を整え、教育を充実させ、社会に情報を共有してきた。それでも過去に差別を受けた記憶が消えることはない。そして現在も差別的な現象は形を変えながら残存し、未来にもその一部は残り続けるだろう。被差別部落にルーツを持つ人たちはそうした共通認識を持っている。

80代の部落出身者は、戦後の貧しい生活を耐え抜き、社会に対して不平等を訴えてきた。日々の生活において差別が当たり前だったことを彼らは今でも鮮明に思い出すことができる。そしてそれに比べて現在の状況は見違えるほどだという実感もまた持っている。

現代の生活では影を潜めるようになった差別が、突如現実のものとして現れるのが結婚という機会である。当人同士に問題がなかったとしても、親類による部落への忌避感が関係を終わらせる契機になってしまう。これに関しては今も昔も変わらない。30代の部落出身者がこれまでに体験してきた恋愛や結婚を振り返ると、自身のルーツがこれまでの人生に落としてきた暗い影について語らざるを得ない。

そうした話を聞いている20代の部落出身者は、いやでも来る未来を想像する。事前のカミングアウトや破局への覚悟を先んじて考えてしまう。ふと投げかけられた一言が、差別心から発されているのか、優しさから発せられているのかに思い悩んでしまう。目に見える、あからさまな差別は確実に減っている。けれども、日常にふと現れるその痕跡が彼ら人生を揺さぶり続けている。

ここからは個人的な意見だが、この映画を見ていて、「差別はいけない」や「人間は平等」といったスローガンが引き起こす弊害について思いを馳せてしまった。もちろんそうしたスローガンが社会に浸透することは「良い」ことだ。重要な概念を広め啓蒙するためにはわかりやすさや単純化とは切っても切り離せないし、それに「差別はいけない」や「人間は平等」はそんなに悪くないとも思う。

ただ何年か前に友人と飲んだ時に、知的障害である自分の兄や障害者一般についての話した。そのとき友人は「障害者を大切にしなくちゃいけないのはわかるんだけど何をしたらいいかわからない」と言っていた。もし手を差し伸べたとしても、その行動が間違っていたら相手を傷つけることになるから怖い、と。同年代の友人のその気持ちは痛いほどわかる。しかし同時に、実家で障害のある兄と同居してきた個人的経験から言えば、結局は大なり小なり傷つけあってコミュニケーションすることでしか手の差し伸べ方はわからないということもまた事実である。そうした実感を得る過程では、障害の有無や一緒に過ごした時間の長短はそんなに問題にはならない。むしろちゃんと他者と時間を共に過ごしたかどうかがそうした実感を得る鍵となる。抽象的な言い方になってしまうけれども、私はそんな風に考えている。

被差別部落にルーツを持つ人たちも、状況はそんなに離れていないのではないだろうか。逆らうことは社会的な死を意味する「正しい」スローガンが共有され、そこからはみ出さないような言葉だけが日々交わされる。その形式的で表面的なメッセージは、単語の選択や送信のタイミングによっては思いもよらない意味を帯びてしまう。間違うことを恐れる手つきが、いつまでたっても確信を得ることができない表層的な領域にとどまり続ける原因となる。

一歩踏み込むこと。そのための勇気を削いでしまうという弊害が「正しい」スローガンにはあるように思う。もちろんそのおかげで守ることのできる領域は広大だ。そのおかげで社会は間違いなく改善してきた。だからこそ、これからははみ出すことの難しかった「正しさ」一辺倒ではなく、今の時代の差別状況に応じた別のやり方があるのではないか。これまでにない、これまでは不可能だった一歩を踏み出すことが必要なのではないか。部落にルーツを持つ20代の人たちの話を聞いていて、そんなことを考えてしまった。


また、この映画には部落出身者以外にも、研究者や部落解放同盟のメンバー、独自の観点から過去の書物を復刊しようとして解放同盟に敵視されている人、そして今も差別心を持ち続けている人、といった人たちの声が収められている。被差別部落の当事者や関係者だけではなく、その支援者や理解者や敵対者といった多様な人々の観点を知ることで、被差別部落についてのより具体的な理解を深めることができるだろう。単純な支持と不支持や賛成と反対には割り切れない、個々人の人生経験に根付いた言葉の数々は、これまたいろいろと考えさせられた。それゆえ途中に休憩を挟んだ3時間越えの映画だったが、特に長いとは感じられなかった。


〈いまいちだと感じたところ〉
瑣末な内容なので以下箇条書き

・映画の途中で突然、監督の以前の作品について言及がなされる。映画の流れとしておかしくはないものの、急にそのシーンになって「私が以前監督した〜の映画は」と突然一人称が出てきたため、その唐突感が気になった
・女性と男性が一人ずつナレーション的な役割として登場するのだが、一方が「ですます調」でもう一方が「である調」だったので、どちらかに統一して欲しかった。
・些細なことだけれども、画面に文章を表示するパートで、黒背景・白文字から一気に白背景・黒文字に切り替る場面が何度かあり、明暗のコントラストで目が痛かった。お客さんには高齢の方も多かったので目が辛いことになっていたのではないかと想像する。またそうして画面に表示される文字に対して、矢印や記号を加えて話の流れを整理するパートが1〜2度あったと思うが、申し訳ないけれども授業のパワーポイント感があったので、せめて手書きで徐々に文字と記号が書き加えていく等の表現方法の変化が欲しかった。

ーーーーーーーーーー

ごちゃごちゃ書いたものの総じて言えば、見ることができて良かった映画だった。自分自身不勉強なこともあり、今後は被差別部落についての歴史や現状について勉強していこうと思う。多様な人たちの具体的な人生や語り口に触れることのできるこの映画は、そうした経験が何かを学ぶきっかけとしては最高の手段であることを改めて思い出させてくれた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?