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悶々の森からぬける方法

わたしはしばしば、自分の欲望と、自分の中のいい子ちゃんが大バトルします。今日という今日は、とことん大バトルへ付き合う羽目になりました。


本日仕事があっさり終わり、予想外の早め帰宅が出来そうでした。ヤッターと浮かれ、帰ったら何しようかとルンルン気分。

でも隣の部署はどうかしら? 大変だったら手伝いに行かなきゃいけない、暗黙のルールがある。
どうか大丈夫だと言って。ハッキリ見ないように、薄目で確認。よし。大丈夫。わたしはいそいそ帰ります。

でも帰宅途中から、はぁーと重苦しい気持ち。薄目の目視確認じゃなく、「大丈夫? 手伝えることある?」と声かけときゃ良かった。なんでしなかったかなー。しなかったことへ心が疼きました。

帰宅後も悶々考える。今さら考えたとて詮無いと分かってても、考える。あーでもない。こーでもない。

頭の中は、「『だって帰りたかったんだ』の自分の欲望」軍と、「いい子ちゃん」軍の応戦が火ぶたを切った感じ。互いに自分の利点を主張をし、相手をけなし合う。

どっちかに軍配あげなきゃならんと思って、わたしはひたすら悶々。悶々が深まるほど、自己嫌悪の扉も開いてくる。

悶々の気持ちが嫌で、「美味しいもんでも食べて忘れよう」と帰宅途中から試みるも、今日はことごとく売ってない、もしくは売り切れ。焼き芋もカボチャプリンも、アイスクリームも。ホントついてない。

はああー、もう。「悶々の森へようこそ」やん。暗闇がのしかかるよう。
他愛ないテーマだったはずなのに、けっこうな時間を悶々してました。

結果論ですが、悶々し過ぎたのが良かったようです。わたしは嫌気がさしました。そして軍配をあげるのを放棄し、別の方法を探しました。どうしたかというと。

「自分の欲望」軍も、「いい子ちゃん」軍のどちらへも、「確かにそうだ、一理ある」とひたすら聞くことにしたんです。
わたしの中に出てきた、対照的な思いの両方ともを認める。どちらかに絞らない。どっちもそりゃそうだと、大賛成の姿勢に変えました。すると悶々してた気持ちは解消して、お気楽です。

お目当ての食べ物はダメだったけど。そういえば貰い物のバスソルトがあったはず。
心に余裕が出て、自分へのリラックス方法を思いつきました。うん。いいお湯を味わえた。

でもそれじゃ何も解決してないよ。
あなたは思ったかもしれません。そう。解決はしてない。でも、これでいいと思ってます。

たぶん、今日の状況。どっちの答えでも良かったんじゃないかしら。今にしてみりゃ思います。

わたしの思いや状況だけでなく、他者の思いや職場の状況、いろんなことが複合的に合わさって、そのときのカタチは現れている。「答えはコレしかない!」の固まった頭じゃ、自分を窮屈にしてしまう。

だから、「それも一理ある」「こっちもそうだね」の気持ちを持つのも、いいんじゃないかなー。

「きょうの自分、良くやった」へ持ってくための、こじつけの結論になった気もするけど。でも、かなり良い所ついてそう。

何よりこの結論へ辿り着いたとき、「悶々の森」で味わってた闇気分からは、完全に抜けてました。自己嫌悪もさよなら〜だったしね。

自分の中から湧く、すべての気持ちを聞く。これからもやってこーっと。

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