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暗中日記・水沼君

5月26日(火)
水沼君から連絡があった。
SMSっていうのかな、携帯の番号でやり取りできるラインみたいなやつでメッセージが届いた。
びっくりした。
〈お久しぶりです。水沼です。ぼくのこと憶えていますか?〉
もちろん憶えている。
〈最近やっと、のびのびとやっていけるようになりました。それで、一度内田さんと久しぶりに会って、ご飯でも食べたいと思うのですが、いかがでしょう〉
元気でやっているのなら本当に良かった。
ずっと気になっていたから。
それは本当に良かったと思うが、なんとなく会うのは気が重かった。
それで、元気そうで本当にうれしいが、ちょっと最近忙しくて、とメッセージを返したが、水沼君は意外に押しが強くて、内田さんに空いている時間があれば自分はいつでも行きます、自分はもう2週間くらい他人には会っていないので、コロナは大丈夫です、というようなことを言ってきたので、そこまで言われては仕方がない。結局今度の土曜日に会うことになった。

水沼君がうちの会社に入ってきたのはもう5年前のことになる。
真面目そうなやつだな、というのが第一印象だった。
体育会系の、はきはきした真面目な青年。
「うちの社長はかなりガンガン言ってくる方だから、あんまり気にしないようにね」と言うと。
「あ、ぼくは前に自衛隊にいたので、そういうのは大丈夫です」と言って笑った。

しかし大丈夫ではなかった。
社長の山村の、相手の人格を否定するような執拗な𠮟責は、自衛隊でも経験したことが無かったのだろう。
一度標的に決めると、毎日のように頭ごなしに叱責するのが山村のやり口だった。
ぼくみたいに「なにかあったらこっちも言い返しますよ」という雰囲気を出せる人間にはそこまで言ってこない(まあそれでも何かミスでもすれば鬼の首を取ったようにやられるわけだが)。
水沼君は僕よりもずっと若く、ずっと素直だったので、標的には最適だったのだろう。
ほぼ毎日、山村のデスクの横に立たされて、嫌みな説教を聞かされるうちに、だんだん水沼君の笑顔は減っていった。

結局三か月ほどで水沼君は退職した。

水沼君には割と好意を持っていたので、なにか力になれれば、と思っていたが、結局自分には何もできなかった。
だからずっと気になっていた。
元気そうでよかった。

5月29日(土)
会社の近く、「田村」と言う居酒屋。
料理が旨い居酒屋で、まだ水沼君が会社にいたころに、一度ここで二人で飲んだことがあった。
今は酒類の提供はしていないということだが、料理が旨いので、ノンアルコール飲料を提供してなんとか営業していた。
20時までの営業なので、17時に待ち合わせした。
「田村」は悲しいくらい空いていた。
料理をいくつか頼んで、ノンアルコールビールを飲んだ。
水沼君は思いのほか明るい表情だった。

「元気そうで安心した」とぼくが言うと。
「けっこう最近まであんまり元気じゃなかったんですけどね」と言って水沼君が笑う。
うちの会社に入ったばかりの頃のような、いや、それよりもっとリラックスして明るい笑顔だった。
「今何してるの?」
「いやあ、今はちょっとひと休み、って感じです」
「そうか」
人と会って話をするのは大丈夫でも、仕事となると別なのかもしれないな、と思い、
「でも元気そうで良かった」と繰り返した。

水沼君は良く食べ、良く飲んだ(といってもノンアルコールだけど)。

話題はうちの会社の事だった。
まあ他に話題もなかった。
「今更ですけど」と水沼君が言った。
「急に辞めてしまってすいませんでした」
「まあ、仕方ないよ」
それは本当に仕方がないと思っていた。
「ぼくの後ってすぐ誰か入ったんですか」
「うん、入ったけどなかなか続かなくてね。入っては辞めてって感じで、水沼君の後もう三人辞めた。いま四人目、高塚君っていう男の子がいるんだけど、続くかどうか」
「ははは、内田さんも大変ですね」
水沼君はそう言って笑った。
本当に見違えるように明るかった。

「金森さんはまだいるんですか?」
「いや、辞めた、今は深田さんっていう女性がいる」
「社長は女性にはあんまり強く当たらないじゃないですか、でも辞めちゃうんですね」
「うん、ま、強く当たらないとは言っても嫌な言い方はするしね」
「ほんとにきつかったですからねえ・・・ぼくはもう食欲なくなっちゃって」

ある朝早くに、水沼君のお母さんから会社に電話がかかってきて、まだぼくしか出社していなかったので、ぼくがその電話を受けた。
水沼君が今日休むこと、そして最近水沼君の様子がおかしいのだ、と言うことを聞いた。
全く食欲が無くてほとんどベッドから出てこないのだと。

その時ぼくは「そうなんですか」くらいしか言えなかった。

「そうなんですか、で済まされた、っておふくろが怒ってましたよ」と水沼君が笑う。
「いや、それはほんとに・・・悪かった・・・」
「いいんですよ」
水沼君はおいしそうに卵焼きを食べ、ノンアルコールビールを飲む。
「内田さんがほとんど一人でがんばっていて、会社の鍵も持たされていて、毎朝早く会社に出て仕事してるって、だからぼくにかまっている暇はないんだ、って説明しておきましたから」
「いや、かまっている暇がない、ってわけじゃ・・・」
山村からガンガン言われている時に、助け舟を出すようなことができたんじゃないか、というのは当時から思っていた。忙しさを言い訳に、自分が巻き込まれるのが嫌で何もしなかったのだと。

「いやいや」水沼君は言う、(それにしてもほんとうにおいしそうに食べておいしそうに飲むなあ、と思った)
「内田さんに恨みごとを言う気なんかまったくないですよ。あの社長に逆らうのは怖いですもんね、誰だって」

そのお母さんからの電話の後、結局水沼君は一度も会社に出てこなかった。
郵便で退職届と、それから水沼君の現在の状態を説明し、残りの給料は振り込んでくれないか、とお願いする手紙が来たらしい。

「あの手紙に社長が返事をくれたんですけど、あれ、内田さんも読んだんでしょう?」
読んだ。
でもなんで水沼君がそれを知っているんだろう、と不思議に思った。
山村が水沼君に出した手紙そのものを読んだわけではない。
会社のパソコンに、発送案内文とかをまとめたワード文書の共用フォルダがあって、その中に水沼君あての手紙の文面が残っていたのをたまたま見てしまったのだ。
「給与の支払いは法律上、直接手渡しで行うことになっています」とその手紙には書いてあった。うちの会社は現金払いで、振り込みを希望する社員にはこういう能書きを垂れるのが常だった。実際、法律上それが間違いではない(もちろん両者合意の上で振り込みにすることは可能だが)、というのはぼくもこの会社に入って初めて知った。
「直接会社まで取りに来るのであれば当然お支払いいたします。受取りに押印をしていただきますので、印鑑をご持参ください」
「あなたが引継ぎもなく自分の仕事を放り出してしまい、会社の業務に支障が出ております。正直申し上げて、あなたの社会人としての常識を疑わざるを得ません」
そんな文章を読んで、こいつ人間じゃねえな、と思った。

「人間じゃねえな、って思って、それでどうしたんですか?」
水沼君がニコニコしながら聞いてきた。
なんでそう思ったことを知っているんだ。
「そのことで社長になにか言いました?」

いや、何も言わなかった・・・

「ははは、嫌だなあ変な顔して。ぼくは内田さんには感謝しかない、っておふくろにも言ったんですよ」
水沼君は本当に元気そうに笑った。

19時過ぎに店を出た。
ぼくは大久保から総武線、水沼君は新大久保から山手線だということだったので、店を出て大久保まで一緒に歩いた。
なんとなく二人とも黙りがちだったか、もう大久保駅が近くなってきたあたりで、そういえば水沼君が辞めてからのことを何も聞いてなかったな、と思い、歩きながら少しその話をした。
「いやあ、けっこう大変だったんですよ、入院したりして」と水沼君は明るく言った。
「大変だったけど、もう大丈夫なんです。サイキンジサツシチャッタンデ」
なにか聞き違えたのだと思い、聞き直そうとしたが、
「じゃあ、ぼくは新大久保なんで」
と言って水沼君が頭を下げたので、ぼくの言葉は途中で途切れてしまった

「今日は楽しかったです」と水沼君が言い、
「いや、ぼくも楽しかった」とぼくが答えた。

自分の部屋に帰ってから、どうしても気になって水沼君に連絡を取ろうとしたが、メッセージをやり取りした履歴が残っていなかった。
携帯番号が登録してあるはずだ、と思ったが、水沼君の番号は見つからなかった。

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