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林芙美子の「浮雲」

林芙美子というと、成瀬巳喜男監督の名作「浮雲」の原作者、というくらいの知識しかなかったのだが、なぜか最近その名前を目にすることが多く、「読め」と言われているような気がしたので「浮雲」の文庫本を買って読んでみた。
映画を観ていたのでだいたいどんな話なのか知っていて入りやすかったのもあるが、面白かった。
戦時中の仏印、ある意味「楽園」のような、日常からちょっと浮いたような場所で恋仲になった男と女(男は既婚)が戦後、日本に引き揚げて来て、戦後の日本の世相の中でグズグズとくっついたり離れたりする・・・大雑把に言うとそんな話だ。

映画については自分なりの見方みたいなものがある程度出来ていて、(他人がどう思うかは別として)自分なりの感想/評価みたいなものがひねり出せるのだが、小説に関してはそこまではっきりした軸みたいなものが自分の中には無くて、うーん、なんとなく面白かったです。みたいな感想しか書くことができない。

とりあえず印象に残ったところを抜き出してみる。

南方からの引揚げらしい、冬支度でないゆき子を見て、四周(あたり)の人達がじろじろゆき子を盗見している。如何にも敗戦の形相だと、ゆき子もまた立って揉まれながら、四囲を眺めていた。夜のせいか、どの顔にも気力がなく、どの顔にも血色がない。抵抗のない顔が狭い列車の中に、重なりあっている。奴隷列車のような気もした。ゆき子はまた、少しずつこの顔から不安な反射を受けた。日本はどんな風になってしまったのだろう・・・・・・。旗の波に送られた、かっての兵士の顔も、いまは何処にもない。暗い車窓も山河にも、疲労の跡のすさまじい形相だけが、るいるいと連なっていた。

敗戦後の様子として興味深い、と思ったが、考えてみれば「どの顔にも気力が無く、どの顔にも血色がない。抵抗のない顔が狭い列車の中に、重なりあっている。」という描写は現代の小説の電車内の描写でもフツーに当てはまる気もする。

「ダラットに戻って、あっちで暮らすンだったね?」
富岡が思いついたように云った。
「そうね、でも、こうして、戻って来たのもいいじゃないの?私やっぱり、戻って来てよかったと思ってるわ。あのままダラットに住んでたって、二人とも幸福じゃないわ。昔のように、いい生活は出来っこはないし、負けた国の人間として、無一文で暮らすには、とても、二人とも我慢ならないじゃないの。やっぱり、こうして、みんなとみじめになっていくのが本当だわ・・・・・・」

みんなとみじめになっていく・・・。
これもまあ今の日本の話でも・・・・・・。
「新しい戦前」なんて言葉が少し前に話題になったけど、今の日本はもう「新しい敗戦後」なのでは?
というのは「浮雲」とは関係のない独り言だ。

富岡は煙草に火をつけながら、心を掠めるようなものを感じた。自分が、この女を連れて死んだところで、世の中は、昨日も明日も変わりはないのだ。世の中に絶望したとか、何か云ってはいるが、そんなところに、説明をこじつけてみても、世の中は、自分一人の死なんか、何とも考えているものでもない。ただ、それだけのものだと云うだけだ。だが、その、何とも感じてくれない世の中に揉まれて、生き辛さの為に、自分の死場所を求めて歩いている人間と云うものも、全く妙な存在だと、富岡は、寝床に腹這い、闇の中に光る、煙草の火を、呆んやりみつめていた。

読む前はなんとなく主人公の女性(ゆき子)の一人称、あるいは三人称でも視点人物は女性だろうと思っていたので、視点人物がゆき子だったり富岡になったりそれ以外の人物になったりするのがちょっと意外な感じがした。

「人間には仙人になる方法もないンだ。矛盾だらけのゴミを吸いこんで、何とか生きの愉しみを自分でつくっているまでの事だよ。その矛盾のゴミのなかには、事業もあろう、女もあろうし、政治も法律もスポーツもあるンだ。━━矛盾のゴミの吸いかげんで、運のいい奴と、運の悪い奴が出来て来る。━━海防(ハイフォン)だって、あの船出についちゃア、随分厭な根性の奴がいたじゃないか。早く帰りたいから、仲間を押しのけても、船に乗りたがる。自分以外はみんな戦犯だったような事を云い出す奴もいるしね・・・・・・・。人間はそんなもンだよ。正義を口にする奴ほど油断がならんと思わないかね?」

富岡は、結婚しているのに仏印で現地の娘と関係を持ち、ゆき子とも関係を持ち、日本に帰って来て妻の許に戻ってからもゆき子と温泉に行ったり、その温泉で別の女とくっついたりという困った男だが、この男にまとわりついた虚無感みたいなものは確かにちょっと魅力があった。

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