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暗中日記・「ああ、駄目だ」

5月8日(土)
朝、少しだけ会社。
昼前には帰宅。
午後は部屋の掃除。
年末にして以来、半年近く掃除をする気力が出なかった。
ゴミは捨てているし、物はもともと少ないので、ほこりがふわふわしているのを見て見ぬふりをしてなんとかやり過ごしていたが、昨日小さなゴキブリが出たので、気力を振り絞って掃除することにした。

押し入れの中もついでに整理。
古い音楽雑誌や映画のパンフレットが出て来てパラパラ見ていたら、「メアリー&マックス」のパンフレットから便せんが何枚か出てきた。
几帳面な小さな字が書いてある。
一目見てNの字だとわかった。
Nのものはもう何も残っていないと思っていた。

Nは自分の気に入った便せんに、自分の好きな小説の一節や詩をよく書き写していた。
自分でも何か書けばいいのに、と言うと、「私は才能無いから」と言った。

もう十年になる
高田馬場の風俗店で知り合って、いつの間にかこの部屋に転がり込んできて、半年ほどこの部屋で暮らして、そして出ていった。
今考えると、この6畳1Kの部屋で、よく半年も二人で暮らせたものだと思う。

便せんの一枚に、
「自分の感受性ぐらい/自分で守れ/ばかものよ」
という一節で終わる詩があった。
有名な詩だそうだが、当時のぼくは知らなかった。
その時初めて読んで、気に入らないな、と思った。
たぶんこの作者は、感受性がじわじわと削られていくような状況に置かれた経験が無いんじゃないかな、とぼくは言った。
それは違う、とNは言い、作者が戦中戦後の苦しい時代をくぐり抜けた経験から生み出した自戒を込めた言葉なのだ、というような意味のことを、もう少し柔らかい調子で説明してくれた。
ぼくもその時はそれ以上何も言わなかった。

でも本当の事を言うと今でも、この作者は、強い力で押さえつけられたことはあっても、真綿で首を絞められるようにゆっくりと感受性が削り取られていくような状況におちいった経験が無い人なのだろう、と思っている。

Nは映画館があまり好きではなかった。
二人で見に行った唯一の映画が「メアリー&マックス」だった。
Nが泣いたのを見たのはその時だけだったと思う。

5月9日(日)
久しぶりに何か本でも読んでみようかと思い、紀伊国屋へ行く。
西武線で西武新宿へ。
新宿サブナードは森閑としていた。
緊急事態宣言で全店休業中なのだから人が少ないのは当たり前なのだが、それにしても少なすぎる。
ずっと向こうに数人の人影が見えたが、その人影が見えなくなると本当に誰もいなくなった。
サブナードは新宿の地下道に通じていて、JRの新宿駅や、伊勢丹や紀伊国屋につながっている。店がやっていなくても通路として使う人は大勢いるはずで、しかも日曜なのだからこんなに人が少ないのはおかしかった。
何かが間違っている、という感じがした。
不安な気持ちで歩いていると、少し先、シャッターの降りた店先に若い女が一人しゃがみこんでいた。
女性の服のことはまったくわからないが、なんかパジャマみたいな服を着てるな、と思った。
白いパジャマみたいな服を着てしゃがんでいて、うつむいているので気分でも悪いのかと思ったが、そばを通り過ぎるときに携帯で誰かと話していることに気が付いた。
「わかりました」と女が言った。
思ったよりずっと生真面目な、どこか緊張した声だった。

そのまま通り過ぎる。
すると後ろで女が立ち上がった気配がした。
後ろを振り向いたわけではないのではっきりとはわからないが、どうもすぐ後ろをついてきているようだった。
周りに人が大勢いるならともかく、こんな妙に誰もいない地下街で、なんでこんなに近寄って歩くのかわからない。
気になってしょうがなかったが、気にしていないふりをして歩きつづけた。

新宿の地下道へと続く昇りのエスカレーターに乗る。
女はすぐ後ろに乗ってきたようだった。
エスカレーターから降りたらすぐに横にどいて、スマホでも見るふりをしてやり過ごそう、と思った。
もうすぐエスカレーターから降りる、というその時、すぐ後ろで、

「ああ、駄目だ」

という女の声がした。
切羽詰まったような声だった。
驚いたが、振り向いて顔を合わせるのも嫌だったので、そのままエスカレーターから降りてちょっと横にどいた。が、後ろから女が上がってこない。
あれ、と思いエスカレーターを上からのぞきこんだが、誰もいなかった。
すぐ後ろから声が聞こえたのは確かだった。
「ああ、駄目だ」
という声が。

当惑したまま紀伊国屋へ。
紀伊国屋は久しぶりだった。
2階へ上がって中に入った途端に、まぶしさにくらくらした。
本屋ってこんなに明るかっただろうか、と思った。
あまりの明るさに戸惑いながら少し店内を歩いたが、頭が痛くなってきた。
とても本など選べない。
店内にいる客も店員も、何でもない顔をしているのが信じられなかった。

それでも2、3分は店内をうろうろしていたが、頭痛に加えて吐き気までしてきたので逃げるように外へ出た。
紀伊国屋を出ると頭痛と吐き気はおさまった。

結局そのまま帰宅。
帰りもサブナードを通ったが、人通りは普通に多かった。

夕食は近所の洋食屋の焼肉弁当
朝も昼も食べていないのに、胃の調子が悪くて半分くらいしか食べられなかった。

いまこれを書いていても、あの「ああ、駄目だ」という切羽詰まったような声の調子が耳から離れない。
Nの声に似ているような気もしたが、それは多分、昨日Nのことを考えたからそんな風に思えてしまうのだと思う。

どうしても頭から離れないので、自分でも口の中で「ああ、駄目だ」とつぶやいてみる。
「ああ、駄目だ」
「ああ、駄目だ」

何度か声に出しているうちに、あれは自分の声だったような気がしてきた。

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