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無垢の辜/上

今から十数年前、戸津ケイヤはこの小さなベッドタウンにやってきた。

 劣化で濁った、外壁と蔦が印象的な古びたビル。その一室が、彼にとっての初めての城だ。上京して間もない頃、新宿のゴミ捨て場で昼間から酒を飲んでいた、暇そうな中年男性から格安で借りたテナントだった。あの時の自分は、身一つで都会に乗り込んできた無一文。これからの人生設計などほんの少しも立てていない考えなしの若造が己の衝動のままに開いたのが、この戸津探偵事務所なのだ。

 事務所を構えて直ぐ、思い知らされたことがある。探偵とは名前の割にロマンの無い職業である。舞い込む依頼は迷子の猫探し、浮気調査などぱっとしないものばかり。ある日突然警察と協力することになり、殺人事件や何かの陰謀に巻き込まれる……など夢のまた夢。あんなの、ご都合主義のドラマやエンタメ小説限定の作り話だ。
当時の自分は手に入りたての小さく新しい世界に我を忘れ、願望のまま看板を立てた。

 設立したばかりの頃は、余所者の小僧が営む探偵事務所の門を叩くような、お人好しなど居るわけもなく常に飢えていた。

 だが、夏のある日の出来事、まだ十歳そこらの幼い少女が僅かな小遣いを握りしめやってきたのだ。飼い猫が家出したと泣きじゃくる彼女をなだめながら、町中を駆け巡った夕暮れのことを今でも時折思い出す。砂埃にまみれた子猫を差し出した時の少女の笑みは、ささくれだった自分自身の心を柔らかくしていった。以降、少しづつであるが依頼は増え始め、いつしか一日三食を満足に摂れる生活を送れるようになった。

 ああ、懐かしいな。

 ポケットから煙草を取り出し、安物のライターで火を灯す。脳を駆け巡るニコチンに酔いながら、視線を部屋の中に向けた。

 ついこの前まで雑然としていた、数年の歴史を感じさせるはずの事務所。今は殆どの荷物がゴミ袋に包まれている。先日、この町から離れることを決意した。住み慣れたこの地域を後にするのは不本意であったが、やむを得ぬ事情がそうさせた。本当は、今すぐにでも出て行ってもいいのだが、何年も住まわせてもらった手前、無言で消えるのは良くないとオーナーに相談し、先月払った家賃分だけもう少し居座ることにした。

 急にどうしたと心配されたが、親が他界したと適当に伝えたら残念そうに「達者でな」と言ってくれた。何も恩返しらしいことができ無かったのが心残りだったが、円満
に契約解消ができただけでも満足だった。

 大方の荷物が片付いた広い部屋の中に置かれたソファとローテーブルが、なんとも言えぬ哀愁を醸し出している。再来週、この二つの家具を送り出したその時、町を離れると決めた。

 ほんの少し開いた窓から聞こえる、みしみしとやかましい蝉の声。それをかき消すように、スマートフォンで適当なロックを流す。乾燥しきった煙草から浮かぶ小さな
のろしは、換気扇の奥に消えていった。

 凝り固まった肩をほぐすように、腕を回す。ぽきぽきという音とともに、筋肉痛が腕全体にじんわりと広がった。連日慣れない力仕事をしてきたせいか、年を取り始めた体は悲鳴をあげている。

 思わず、ため息が零れた。

 衝動的に家具を処分し始めたものの、手元にある金はさほど多くない。これから町を出るまでの生活費、町を出てからの生活費について全く考えていなかった。こんな時に都合よく依頼が入ってくれはしないかと願ってみたが、やはり神様は日頃の行いを見ているのだろう。

 ふと、部屋の時計に目をやると、新規メールの確認時間になっていた。煙草を放るように灰皿に乗せて、思い息と共にパソコンを開く。

 見ると受信ボックスにぽつん、と一件のメールが届いている。顧客リストにも登録されていない、新しいアドレスからだった。件名に『ご依頼について』と書かれている。待ちに待った、新規依頼だ。体を駆け巡る高揚を抑え、アイコンをクリックしメールを開封した。

『件名:ご依頼について
 戸津探偵事務所様
 初めてご連絡させていただきます。私、株式会社青山クリーンシステムズの三明と申します。
 このたび、調査の依頼をさせていただきたくメールをお送りした次第です。
 詳細については、また後日直接お会いしてお話したく存じます。一度お話の機会を設けさせていただいてもよろしいでしょうか。
 どうか前向きなご検討、お願いいたします』

 簡素ながも丁寧なメールだった。企業からのメールであるから、当たり前と言えば当たり前だろう。

 青山クリーンシステムズ。

 耳慣れない名だ。どこかで聞いたことがあるような、ないような。

 検索エンジンを開き、コピーしたメールアドレスを元に検索すると、一件の企業サイトが引っかかった。どうやら、この場所から近い場所に会社を構える、小さな特殊清掃の会社らしい。

 特殊清掃、所謂孤独死した死体の処理や部屋の掃除をする職業だ。

 ぞくり、と妙な悪寒が背中を走る。まさか、特殊清掃の業者から依頼が来るだなんて。時期とタイミング的に、このような依頼が来る可能性はゼロでは無いだろう。だが、本当に来るとは。

 人間の死と隣り合う仕事に対しての偏見は無い……と言いたいところだが、どうにも薄気味悪さを感じているところはある。この現実とは少し離れた、自分とは交わらぬところにある存在だと思い込んでいた。

 一息ついて、返信のメールを送る。承諾の旨を綴ったものだ。

「……」

 ソファに深く腰掛ける。灰皿の上で消えかけていた煙草を咥え、思い切り吸った。煙とともに不安が消え去れば、どれほど気が楽になるだろうか。

 この胸騒ぎが、杞憂だと言うことを願うしか無い。

・・・

 例のメールが届いてから数日が経過した。

 カチカチという時計の針の音と、余計に効かせた空調の音が部屋に響く。

 青山クリーンシステムズの職員がするまで、十分近く時間がある。むしゃくしゃする心を鎮めようと、紙箱を手にベランダに出た。

 日差しが刺さるように痛い。ライターを弾こうとする指にすら、熱射に当てられる。

 だがこれで不安が紛れるのならどうでも良かった。小さく燃える筒を咥え、コンクリートを見下ろした。

 このビルが建つのは、町のメイン通りからいくらか離れた場所だ。古く短いビルが密集し、お世辞にも明るいとは言えない。そんな通りだからか、この街の住人達は皆明るい商店街の道を通る。人通りがほとんどそちらに持って行かれるせいで、周辺は物寂しい雰囲気を纏っている。

 だが、静かでどこか哀愁漂うこの場所が、それなりに気に入っている。まだ上着が必要な時期は、毎晩このベランダから街を見渡して酒を飲むのが日課だった。

 最近は照りつける太陽のせいで、それどころでは無くなっている。久しぶりに見る平凡な町の景色を楽しんでいると、探偵事務所の看板の下、一人佇む女性がいことに気がついた。色鮮やかなリュックサックに、無地のポロシャツというシンプルな出で立ちだ。時折、スマートフォンを眺めながらじっと立っている。

 誰かを待っているのだろうか。

 こんな寂れた場所で待ち合わせをしているというのはさておき、八月の太陽の下、まともに日よけの無い場所で立っているのは辛かろう。いくら若くても限界があるはずだ。

 そうぼんやりと考えていると、視線に気づいたのか女性が顔を上げる。

 「あ、」

 さっと血の気が引いた。

 上階から若い女性を見下ろす中年男性。明らかに不審者じゃないか。少なくとも自分だったら即通報案件だ。何か、気の利いた言葉をかけねば。

 ありったけの脳をフル回転させ、必死に言葉を選ぶ。地上の女性は顔を上げたまま、眩しそうに目を細めている。

 まるで子猫のような小さく跳ねた目元に太陽に反射する肌。歳は二十代前半、下手したらもっと若い可能性だってある。

「あ、暑く、何ですか?」

 恐る恐る声をかけた。

 彼女からの返事は無く、こてんと首を傾げこちらを見るばかりだ。

 「あ、だから、その、日差しが、」

 女性はあぁ、と一瞬の間を置いて、小さな唇を動かす。

「大丈夫です。慣れてますので、ご心配なく」

「それは、よかった」

 鈴の音のような声と、はまさにこれのことか。二階のこちらまで聞こえるよう少し張り上げてもなお透明で、心のささくれ立った部分を優しくいたわるような声。水面に落ちた水滴が広がるような安らぎが、全身を包んだ。

 じわりと広がる声の余韻もほどほどに、なるべく怪しまれないように彼女の視界から外れる。そっと身を引いて、ベランダから室内へ足を踏み入れた。

「あの、」

 再び、彼女の声が聞こえた。反射的にびくりと肩が跳ねる。再び同じ場所から地上に目を向けると、くるりとした瞳と目が合った。先ほどとは変わった、何かの意思を持った視線に捉えられ、体が固まる。


「戸津探偵事務所の方ですか」

「へっ、あ、はい。戸津ですが」

「私、本日ご相談に伺わせていただきました、青山クリーンシステムズの者です」

「あ、」

 一瞬脳の働きが停止した。はっと思考を元に戻すと、余所行きの声で呼びかける。

「今日いらっしゃる。そうですか、はい。も、もしよろしければ、差し支えなければ、お上がりください」

「お心遣い、感謝いたします」

 そう言って女性は軽く会釈をし、ベランダの下に消え見えなくなった。

 それを見届けた瞬間、踵を返しタバコの火を灰皿に押しつける。ついでに煙の染みついたTシャツも脱いだ。

 まさか、女性が来るとは。

 特殊清掃と言えば、男の仕事だろう。俺のような中年がする仕事なんじゃないか。あんな細い腕の、若くて小さな女ができるわけが無いじゃないか。

 ぶつぶつと呟きながら、適当に買った香水を首に吹きかける。新しいシャツも引っ張りだし、洗面台の鏡で髪も整えた。こんなこと、付け焼き刃にもならないなんてわかっていた。だが、やらずにはいられなかった。

 何しろ、若い女性と話すのが久しいのだ。ここに来る依頼人の多くは自分と同じくらいか少し上の年齢層の者ばかり。あの年頃と話す機会など、コンビニやスーパー程度がせいぜいだった。

 コップ片手に応接間に戻ると、冷蔵庫からジュースと茶菓子を探す。こんなことがあるのなら、もう少しマシなものを買っておけば良かった。

 そうこうしている内に、インターホンが鳴る。

「はい!」

 できるだけ、みっともない姿は見せたくない。特に理由の無い虚勢をはりつつ、事務所のドアを開いた。

「改めまして、株式会社青山クリーンシステムズの三明です」

 先ほど自分を見上げていた顔が、真っ正面からこちらを向いている。二人がけのソファの端にちょこんと腰掛ける様子は、ショーウィンドウに並ぶ人形のようだ。

 近くで見れば見るほど、華奢な女だ。目線の位置が頭一つ分顔下で、身長はおおよそ一五〇を少し過ぎた程。腕も、脚も、腰も、首も。少し力を込めれば、軽快な音とともに折れてしまいそうだ。

「どうも、戸津です。よろしくお願いします」

「お願いします。一応、こちらお渡ししておきますね」

 隣に乗せた四角いリュックサックの中をごそごそと探ると、一枚の小さな紙を手渡してきた。名刺だ。白地に水色のラインが入った、シンプルなベースに『三明海景』と印刷されていた。

 綺麗な名前だ。

「こちらこそ、お越しくださりありがとうございます。さんみょう……えっと、ミカゲさんでよろしいですか?」

 恐る恐る、三明の顔を伺う。すると彼女は小さく口を開け、ぽかんとした表情を浮かべる。

 何か、間違ったとことを言ってしまったか。すかさず謝罪の言葉を述べる。

「あ、読み方間違ってましたでしょうか?失礼いたしま……」

「いいえ、合ってます。大正解です」

 気づけば自分よりも二周りほど小さな白い手に腕を取られ、ぶんぶんと握手をさせられていた。その嬉しそうな表情に気圧され、手を引タイミングをすっかり逃してしまう。

「会うのが二回目の方でも、結構読み方迷われる方が多いんですよ」

 葡萄のような瞳がきらきらと輝く。

「あの、手、」

「あっ」

 三明は、握っていた手を机に下ろし、「すみません、つい嬉しくて」と目を細める。

「いや、偶然ですって」

「そんなことありませんよ。ふふ、嬉しい」

 ふと確かに、と考える。海をミと読むことは多けれど、景をケイではなくカゲと言うのは珍しいかもしれない。

 我ながら、冴えている。心の中でそっと胸をなで下ろした。

 三明は再びリュックに手を入れ、中から一冊のファイルを取り出す。

「私ったら、話をそらせてしまいましたね。では、早速ですが今回のご依頼について詳しくお話してもよろしいでしょうか」

「はい」

 会社ロゴの箔押しの入ったファイルには、いくつかのコピー用紙が入っている。その中の一枚が、机に並べられた。

「ご存じかもしれませんが、弊社の主な業務は特殊清掃と遺品整理です」

 簡単なパンフレットが開かれ、三明はページを指さす。

「遺品整理もされるんですか。それは初耳です」

「はい。基本は別の業者が請け負うことが大半ですが。我が社ではどちらも行っています。まとめてしまえば、ご遺族の方も少しは楽でしょう」

 たしかに。

 そう相づちを打つと、三明は微笑みながら話を続ける。

「私たちは先日、あるアパートにて孤独死されたご遺体の清掃をしておりました。八十代で認知症の気があった男性です」

 認知症の独居老人の孤独死。まあ、独居老人の増えたこの時代ではよくある話だろう。

「この方が亡くなられた後発覚したんですが、押し入れの中にそれなりの財産がありまして。大家さんにお伺いしたところ、できればご遺族の方の元にお渡ししたいとのことで」

「そこで、探偵事務所へ︙︙とのことですか」

「はい。その通りです」

 三明が頷くと、彼女の小さな爪が一枚の写真を指さした。コピー用紙に印刷されただけの、ざらざらしたそれを目にした瞬間、ぐわんと大きく視界が揺れた。

 どくり、どくり。血管を流れる脈の音が脳にこだまする。合わない焦点をなんとか正そうと大きく深呼吸してみるも、動機は収まらない。

 グラスに注いだ麦茶を一口飲み、深く息を吐く。

 まさか、よりによって今来るだなんて。

「今回、お願いしたいのはこの写真の中の方々の捜索です」

 改めて資料を覗き込むと三人家族が写っている。三十代前後と思しき夫婦と一人の息子、彼らが青々と葉が茂る山の森を背景に微笑む姿は、見る人に仲の良さを感じさせるだろう。

「6日付からしておよそ二十年前写真ですね。この男性が写真の持ち主方で、お隣が恐らく奥さん。そして少年の方が息子さんだとお思われます。この奥様と息子さん、どちらかの捜索をお願いしたく……」

「え、」

 言葉を遮られた三明は、小さく首を傾げこちらに目を向けた。

「どうかされました?」

「あ、その……お話を遮ってすみません。この人の、この方々の捜索ですか?」

「はい、おっしゃる通りですが。何かありました?」

「あの。お受けしたいのは山々ですが。この写真一枚で人を探し出すというのは、探偵の私でも少々困難でして」

 お伝え忘れて降りましたが、事務所は半月で閉める予定なんです。なので、時間のかかりそうな依頼は受けかねます。どうか、お引き取りください。

 そうだ。正直に言って帰ってもらえばいい。穏便に、穏便に。まだぼうっとする頭を動かし、脳内シュミレーションを行う。だがそんな戸津をよそに三明は、はつらつとした表情で付け加えた。

「その辺は大丈夫です。遺品や大家さんの証言から、大まかな目安はこちらの方でつけてあります」

今度は地図を取り出した。日本列島の東北地方に当たる部分に丸をつけた。

「日本海側のこの地域。おおよそこの辺りです……というのはわかっているんですけど」

 山に囲まれ、閉鎖的な地域だ。観光スポットはいくつかあるが、一日に数本の電車しか出ない限界集落とも言える場所。

「私たち素人では、とても特定までは」

「……そういうことですか」

 ならば、地域を特定して渡せば事が済むかもしれない。

「わかりました。では一週間、いえ三日ほどお時間をいただいてもよろしいでしょうか。後日、特定した地域の情報をお送りいたします。依頼料についてですが、当事務所は前払い制となってまして」

「ありがとうございます!もう一つ、お願いがあるのですが良いですか?」」

「はい。可能な範囲であれば」

 三明は姿勢を正し、ソファに座り直す。ぴんと背筋を伸ばした姿は、子猫を彷彿とさせた。

「私をそのご遺族の元に連れて行っていただきたいんです」

 僅かな静寂が辺りを包んだ。

「……へ?」

 思わず営業用の言葉も忘れ、地の言葉がこぼれ落ちる。

「もちろん、依頼料については追加でお支払いさせていただきます。もし、足りないと言う場合がございましたら、お申し付けください」

 三明がリュックサックから取り出した茶封筒は、目測だけでも一センチ以上の厚みがある。

「あの、つれて行くというのは、貴方を」

「はい」

「別の職員ではなく、貴方を……貴方だけを?」

「はい」

 一瞬にして、頭が真っ白になった。

 彼女を連れて行く?若い女性と?長い旅路を共にしろと?

 嬉しい、という感情以前に得体の知れない最悪感と不安が襲ってくる。

「どう、でしょうか。やはり駄目ですか」

 ゆるりとカーブを描いた細い眉が垂れ下がった。心なしか肩も力なくしぼんでいる。

 まるで、路上で一人飼い主を待つ子猫のそれだ。

 やめてくれ、そんな顔で見ないでくれ。

「あ、その、」

 断るのは、今しか無い。目の前の茶封筒に手を伸ばしたい気持ちは確かにある。だが、駄目だ。かろうじて働く脳がそう警鐘を鳴らしている。

「そ、そう。ですね」

 写真を眺めながら、平然を装うようにわざとらしく唸る。

 それはお受けしかねます。その一言だけだいいんだ。言ってしまえば、済む話だ。

 小さく息を吸う。

 喉を震わせ小さく、だが聞こえるように言った。

「……はい。わかりました。できる限りのことはしましょう」

 ああ、言ってしまった。胸の奥から、じんわりと後悔が広がっていく。沈む気分とは

 裏腹に、三明はなんとも嬉しそうに礼を言った。

「本当に、感謝いたします」

「いえ、できることなら何でもする、というのが私のモットーですから」

「よかった。戸津さんに頼んで正解でした」

 では、早速ですが日程や経費についてのお話をさせていただきますね。

 意気揚々と資料に目を落としながら話を始める三明をぼうっと眺める。妙な脱力感に身を委ねながら彼女の説明を聞くが、全くといっていいほど頭に入ってこない。ただ、その嬉しそうな表情を空虚な眼で見つめていた。

 見ればみるほど愛嬌のある、かわいらしい顔つきをしている。

 来る途中で日に焼けてしまったのか、額が僅かに赤い。日焼け止めでも塗れば良いのにと、ぼうっと思い浮かべた。元々色が白いせいか、どこか痛々しくもある。そういえば、化粧もしている様子は無い。していても、所謂ナチュラルメイクだろう。全身を防護服で身を包むことの多い特殊清掃の仕事では、メイクをする習慣がないのだろうか。

 どこかノスタルジックで、懐かしい思い出をそのまま形にしたような。少し前まで少女だったであろう女性。

「ところで、日時なんですけど」

 さらりと流れ落ちた黒髪が、さらりと耳にかけられた。当たり前だが、流れるように自然で滑らかな仕草。白い腕がしなやかに動くその瞬間、目を見開いた。

 目が、離せない。

 心の内から向きだされたその感情があまりにも恐ろしい。だが目を背けてはいけない。

 決して。と胸の奥でくすぶる本能が囁いた。

「戸津さん?」

「あ、」

こちらの視線に気がついたのだろうか。顔を上げた三明と目が合う。黒目がちな瞳。

見ればみるほど、蠱惑的な視線に引きずり込まれそうになる。

「大丈夫ですか、先ほどからぼうっとしていらっしゃいますが。熱中症とかじゃ」

「いいえ、少し考え事をしていただけです」

パンフレットを見るように見せかけ、目を伏せた。少しわざとらしかっただろうか。

「考え事?」

「できるだけ、ご依頼に答えられるように、とスケジュールを。はい」

一間置いて、三明は微笑む。まるで子犬のような人なつこい笑顔だ。

「なら、良かったです」

 そう言った後、三明は話を続けた。できるだけ、その言葉を頭に詰め込み、これからどう動けばいいのかを必死に考えた。

 話を終えることになると、窓の向こうはうっすら茜色に染まっていた。

 三明は資料をリュックの中に詰め込み、じゅっ、とリュックサックのチャックを閉める。

「では、後日。よろしくお願いします」

「は、はい。下までお送りしますね」

「いいんですか。では是非」

 三明はふわりと束ねた髪を揺らしながら、出入り口へ向かう。歩と共に髪を見ていると、先ほどのぞましい感情ががぶり返しそうになる。

 自分はこの女性ととあの遠い地まで行くのか。

 そう思うと、憂鬱と同時に妙な高揚が精神を蝕む。気分を入れかえよう。ゆっくり深呼吸をしながら、ビルの外に出た。数時間前まできつかった日差しは、穏やかな夕日となり地上に降り注いでいる。そのかわり、籠もるような蒸し暑さが全身を包み込む。撫でるように吹く風邪は気休め程度にしかならない。

「お気をつけてお帰りください」

「ありがとうございました! また今度!」

 にっと、口角を上げ彼女は笑う。

「はい、今度」

 駅の方に歩く小さな後ろ姿。その影が見えなくなるまで、じっと見つめていた。

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