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いろんな人の見えてるものは、みんな違う

 私は理系のことを勉強したので、世の中の似非科学には、ん?と思うことが多いです。最近は、お湯(~90℃)と白湯(沸騰状態を何分か維持したもの)の違いで、沸騰させ続けることで不純物が取り除かれる云々のお話が気になりました。この不純物次第では、ただ不純物濃度を上げる行為でしかないし、沸点に達しなくても蒸気圧の高い不純物であればお湯でも多少は不純物は除かれます。そもそも、昔の人が湯冷ましを飲んでいたのは、水の中に入っている病原菌や微生物で腹を下さないようにするため、だったはずです。少なくとも、現代の日本で供給される水には塩素は多く含まれているかもしれませんが、病原菌や微生物は含まれていないはずです。そうであれば大問題になります。もし、消毒のための薬品を体に取り入れたくないのであれば、水をぐつぐつ煮るより、きれいな水を購入するほうが、方法としては正しいと考えられます。

 不純物濃度とか蒸気圧とか、いろいろ書きましたが、いいたかったことは、こんなこと、わかる人にしかわからんよねっていう話です。

 私は化学専攻で、物理や生物もかじっているので、科学のさわりは何となくはわかります。でも、勉強してない人はちんぷんかんぷんだと思います。私が分かるだろうと思って話すことの8割は、一般の人に理解してもらえません。

 これって、別に科学に関することのみに適用されるわけじゃないと思うんです。世の中のすべての専門分野に適応されるはずです。医学も、音楽も、政治も、なんでも。みんなわかる分野とわからない分野があって、その中間あたりの分野もある。わかるわからないの濃淡が人それぞれなんですね。それをいっしょくたにみんなわかるでしょ?ってやると無理が生じる。今の世の中って、そんな風になってませんか。みんなわかることとわからないことをシェアすれば、自分の世界の見え方を伝えられれば、もっと居心地よくなるんじゃないかなと思うんです。

 でも、それって、たくさんお話しして、お互いの理解度をすり合わせなきゃいけいないから、とっても大変で、なかなかできることじゃあないことですよね。それに、わからないっていことを自覚して、それをさらけ出さないといけない。人によっては、それを恥だと思う人もいる。

 だから、せめて、あの人と私の見えるものは違うっていう認識を持つことが必要なのではないでしょうか。同じ考えの群れなんかじゃなくて、みんな違う考えを持つ個体だってことをあらかじめ、ちゃあんとわかっていれば、もう少し、優しい世の中になるのでは、とどうしても考えてしまうんです。

今の日本は、みんな一緒であることに固執して、自分たちの国をどんどん住みにくくさせている気がする。年金問題、高齢化社会、赤字国債、国際問題、問題を挙げればきりがないけれど、せめて身の回りの人間関係くらい、もっと穏やかなものになればいいなという期待を込めて。

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