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日曜日のクルーメイト #0068 Hero in truth!!

月曜日のハロー、クルーメイトとなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
冲方は、今夏のスケジュールが一部パズルゲームと化し、調整の影響で〆切がずれ込んだ次第。

それにしても。
週末に何をすれば、週明けに何を始められ、一ヶ月後に何が終わり、年末に何が間に合い、そして翌年何に取りかかれるか、といったことを考え続ける日々にすっかり慣れてしまいました。
おかげで、いまだにマネージャーも雇えない体たらく。

どんな作品に取りかかるべきか、「報酬・挑戦・貢献・交流・育成」の五点のバランスを考慮して決めるのですが、これを誰かに説明することを、途方もなく億劫に感じてしまうという悪癖ゆえに他なりません。

加えて、いちいち指示をしたりされたりしていると仕事にならない、と考えるような、組織化という点で怠惰きわまりない自分を、たまに反省します。

こんなローンドッグ野郎でも何とかなる業界の懐の深さに感謝しつつ、今週もつつしんで参りましょう。

6月の連載

『マイ・リトル・ジェダイ』最新話が掲載!

こちらも終盤に差しかかっており、月末までには何とか一挙脱稿を目論んでいる次第。

無料試し読みは、こちらから。
挫折ばかりだった主人公の奔走をお楽しみに。

『骨灰』は、今月にて最終話。
数話分を一挙掲載。さすが電子です。何枚オーバーして書いても、ちっとも怒られません。ハレルヤ。
(単行本化の際に、少しは削れと言われますが)

試し読みはこちらから。
ヒリヒリ乾燥ホラー、ぜひお楽しみあれ。


今週のお知らせ

今月末よりこちらのイベントへ。
以前、『マルドゥック・スクランブル』劇場版のプレミア上映のために伺ったことがあり、アニメ関連で渡米するのは10年ぶり。

現地では、第四話を先行上映する他、プレミア上映を行う作品が多々あるとのこと。
昨今とこれからの日米エンタメ・アニメ事情について知見を積めるに違いない、と期待し、行って参ります。

こちらは後日、ここぞとばかりに享受してやろうと思っているロサンゼルス観光とともに、現地の様子をお伝えしたいと思います。

今週の思うこと 「人格的一体化の変容」

さて。
創作塾用の個人noteで書くべきことと思いつつ、こちらのnoteで備忘録的につらつら書かせて頂き、そのうちしっかりとした試論にしたいことがちらほら。

先週辺り話題になった……と切り出したいところですが、万民が異なるソースにアクセスするどころか、AIキュレーションによる自動選択ソースと化したおかげで、同じものを食べているはずなのに、あっちはケチャップ、そっちは豆板醤といったソース違いで話が通じない、という喩えを交えたくなる昨今ゆえ、実際のニュースを添付しつつ書いて参ります。

題の「一体化」ですが、ヒーローが何かと合体するわけではなく、個人と何かの人格的な合体を巡る物語やできごとが、ずいぶん変容したものだということを複数のニュースを見て思ったわけです。

まずはこちら。
のっけから「要約」とタイトルにあり、ソースのソースはどこだと言いたくなる方もおられるかもですが、「いいね」と「リツイート」がいかに民主主義を強化するのではなく破壊したか、という話。

その前提としてあるのは、アメリカ国民ですら、ネットが世界を席巻するまでは、戦争にでもならない限り、他人種と空間を共にすることなど滅多にない人のほうが多かった、という事実。

それが突如として黒人が大統領となり、ネット空間には違う肌の人間が無数に同居し、やたらとグローバルを称える文言が飛び交いました。
それまであった、「アメリカ」という漠然とした一体感、どんな人種も大きな器の中にいて住み分けがなされている、という緩やかな連帯の受け入れ先が根底から崩れ、かつ誰もが新たな一体感を得られないまま、今日に至っているさまがよくわかります。

お次はこちら。和菓子を海外に広める工夫を積み重ねたら、日本国内の和菓子職人から詰られたというお話。

こちらは日本の伝統というガラパゴス的思考と一体化した人々が、それでは将来逼迫するという現実を受け入れず、いかにも変化を嫌う日本人らしい反応をするものだと思わされた次第。
輸出された何かが、まったく品質に変化を生じず届くと思っていることこそ、狭い国土の中で暮らしている証拠と言えるでしょう。
かつて、シャンパンも紅茶も、輸出の過程で偶発的に生まれた、まったく新しい商品でした。とりわけ文化は、違う領域に入れば、すでにある文化と混じり合うもの。
日本の伝統文化という孤絶した考え方に人格を一体化したがる人々が、文化輸出の足を引っ張れば引っ張るほど、かえってその文化の継承と発展を担う存在が減り、必衰のものとなるのがいかにも皮肉です。

かと思えば、育つところでは育つのがカルチャー。
文化は、その土地で採れるものもタブーも習慣も異なるゆえ、こうして新たなものが生まれるのが面白い。
そもそも日本自体、ありとあらゆる他国の文化を食い散らかしては、自分たち独自のものに加工していったことで栄えた国です。
そんな日本人が、他国の伝統文化を尊ぶあまり、日本人による勝手な加工を一切禁じた、などということは、一度としてなかったと言っていいでしょう。

さらにこちら。

フィリピン国民にとっては、「独裁者の息子」ではなく、「前大統領の路線を受け継いでくれる誰か」を求めて投票した、というお話。

人格の一体化において、多くの問題となるのが、親子関係。
親と子を人格として同一とみなすのは、日本の場合、「お家」「組織」「土地」の継承を背景とした風習の名残であり、地域に根ざす誰もが良くも悪くも運命共同体だった頃の、古式ゆかしいあり方と言えるでしょう。

他方、「治安の確保」という大きな課題を受け継ぐことを重視し、その人物の親が誰であったか、という事実を切り離す態度は、国民が強力に変化を求めた結果と言えます。
それがある種の世代交代と変化を促したというのも興味深いところ。

さて。
他方で、この記事のように、これぞ日本的な親子の一体化の哀れな末路といったエピソードも尽きません。
もうとっくに何のメリットもなくなってしまった、家や組織や土地の継承を背景として成立した、日本的な家族の運命共同体的な観念のみを引き継いでしまった結果、メリットを享受することなく、デメリットだけが積み重なっていく。
当人たちは、何が起こっているのかも理解できないまま、暴発へ向かう。
人が自分の人格を何と一体化するかによっては、悲劇が免れなくなるということが、いよいよあらわになってきたと思わされた次第。

そしてこちら。
日本企業のアキレス腱となってしまった後継者問題。
過去の経営者が、あたかも自分の分身を求めるがあまり、後継の道自体が絶たれていく。
大企業でも中小企業でも、いかに次世代にとってのメリットが用意されていなかったかが、如実となっています。

かと思えば、一体化を復活させたがる人も。

強力なリーダーシップを発揮する人物は、当然ながら強力な一体化を求めます。そのほうが特定の目的を達成する上で有効であるからで、手段を問いません。
おのれが発する一体化の圧力のもと、多数の人々が疲弊して倒れていくのも意に介さないブラックホールみたいな人物ほど、莫大な経済力をなすという点では、アメリカもロシアも中国も大して変わらない、というのも事実なのです。

そしてこちら。
この言い回しが新しいのは、日本語が省きがちな「一人称の主語」がはっきりしているということ。
「私」を曖昧にしない場合、日本において、立場が上の者であることを示します。
学校でも企業でも、「私」は上位者であり、「私たち」は従う存在であり、従わない者が「あなた」となる。これが日本的な、人称の消失による一体化のあり方です。地位が低い者が、「私はこう思う」と独自の見解を述べることを嫌う態度です。
地位が低くなるにつれて一人称は消え、従わない者への警告が「あなた」となり、さらに逆らうと放逐されて「あの人」になり、永遠に一人称を失います。
「私の好きな」「私の嫌いな」という、変則的な一人称による主張が流行するということは、そうした人称の消失による一体化を拒む態度といえます。
それが流行している、というのがどの程度かはわかりませんが、これまでと異なる変化の一つとして受け取っていいものであろうと感じます。

さて。
こうしたことがらを俯瞰し、大なり小なり日本のエンタメにどのような影響を及ぼすか予想すると、今なおドラマ作りにおいては鉄板といっていい「親子の葛藤」や「家族間の軋轢」「家系や組織や伝統への忠誠心」といったドラマが、これまで以上に強くフォーカスされるとともに、やがて「解体」へ向かうかもしれません。

解体というのは、「互いに葛藤や軋轢があるのはごく当然」となり、大したドラマの種にはならなくなるかもしれない、ということです。
「たとえ親子親族だとしても、上司部下だとしても、それぞれ別々の人格なのだから、互いに反論するのは当たり前」という態度が、もしも、かつてなく一般化するならばどうなるでしょう。

「永遠に平行線でわめき合う親子や、上司と部下や、同族たち」など、互いの意見を調和させられない怠惰な人々とみなされ、面白くもなんともない題材、ということになります。
となると、彼らの和解や、一体化の復活もまた、陳腐な物語と化し、従来の物語作りにおけるカタルシスが通用せず、何かさらに高度な領域か、あるいは意図的に的を外した結末に行き着くしかなくなるかもしれません。

思えば、セカイ系など少人数で成立するドラマは、多数の人間が背景に一体化して意識にのぼってこないというアプローチでした。
コミュニティに属する大多数が画一的で同じ考えのもと生活しているため、分厚い空気のような存在となっており、ドラマの土台ではあるが物語を生み出さないため、登場させる必要も描写をする必要もなかったのです。

こうした世界観や物語、ひいては現実生活における端的なメリットは、情報量が少ないがゆえに衝突も希で、安逸に過ごせる、ということでした。

しかし今、現実は、見たことも聞いたこともなかったどこかにいる誰かが、いつどのような影響を自分に及ぼすか皆目不明のセカイで、無数の他者に囲まれています。
そこにさらに、家族・親族・同じ組織・同じ派閥という、考えるまでもなく「自分と同じ」であったはずの存在さえ、別人格の他人とみなさねばならないなら、一体化が失われてのちの個人が把握すべき情報量は桁違いなります。

実際、そうした他者を、なんとか背景に押し込んで描写せずに済ませようとする工夫が、現実においても物語作りにおいても、顕著に成り立たなくなっているように思います。
たとえば『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』でも、主人公を動かす上位組織を動かす政府を動かす他国のあれこれを動かす漠然とした世界的民意が背景にあり、意思決定を個人がもぎ取るのが途方もなく困難となった世界を描いております。
これを日本のお役所仕事の伝統的なあり方ととらえる方もいるようですが、有事における日本の現場の意思決定は実はとても速く下されるように出来ています。
悪い言い方をすると、トカゲの尻尾切りをいくらでも出来るようにしており、いざとなったら現場の人間が自殺すればいいと考えているような、冷酷な仕組みが作られているのです。

お役所がだらだらしているように見えるのは、むしろちょっとしたことで有事化しないよう、間延びするシステムを意図的に作り上げていると言えます。そうすることで人間は冷静になるからです。
「ただでさえ外部からの影響で変化しやすい社会なのだから、ちょっとしたことで変化しないよう、やたらと頑丈にしてきた」とも言えます。鎖国という秩序維持の手法と基本的には同じです。一体化に属さない他者による変化を徹底的に防ぐ手法です。

しかし現代では、何を有事としてとらえるかも、何と一体化しているかによって異なります。
地球温暖化問題と一体化している人は地震や戦争の影響で火力発電所が停止するのは良いことだと考えるでしょうが、日本の電力問題と一体化している人はかつてない有事を迎えつつあると危機感を募らせていることでしょう。

こうして、一体化が希薄となった分だけ、情報量が格段に膨張したことから、過去の状態への回帰を求める人々は、「これさえ信じていればよい」という一体化をニーズとするわけです。それがカルトだろうがフェイクだろうが構わない、ということになります。
下手をすると、フェイクであることこそフィクションに求められる最大のニーズとなりかねず、おぞましい一体化の物語が爆発的に生まれるかもしれません。

このような状態が今後もしばらく継続することは明らかであり、果たして我々の物語はどこへ向かうべきなのか、いよいよ万人が向き合わねばならず、さりとて何の指標もないという、かつてのイタリア・ルネッサンスおよび宗教改革の頃のような「亀裂の時代」が訪れたことを覚悟すべきなのだと思わされるのでした。

コメント・トーク

おう。
さすがに長々と書きすぎました。このところ創作塾noteがちっとも更新できていない圧力が破裂した感があります。

しかしこのテーマ、一体化はこれからいっそう消失するのか、はたまた物語においてはむしろ強化されていくのかということは容易に占うこともできぬ一方、クルーメイトに直接訊きたい気持ちがわいております。

というわけで質問です。
「家族同士の葛藤のドラマは今後も鉄板」か?
「家族とは言え別人格であり究極的には他人なのだから大した題材ではなくなる」か?
という点について、久々にアンケートを取りたいと思います。

アンケート用のツイートを投稿しますので、ぜひ「思考」ではなく、「直感的に」お答え頂けましたら幸い。

さておき。
先日のお題は「旅に出るならどこへ?」でした。
このご時世、いっときは「旅行」という言葉すら禁句なのかというほどピリピリしておりましたが、徐々にあれこれが解除されることで、だいぶ和らいできた様子。

皆様の旅立ちの先はいずこへ? さっそくコメントをご紹介して参りましょう。

https://twitter.com/al4ou/status/1535839353477312512

森人さんからのコメントです!
ロードムービーを思わせる旅路。素晴らしいですね。無免許はいけません。何かあったときに助けてもらえなくなります。

何を隠そう冲方は運転がめちゃ苦手です。下手です。心から向いてないと思います。ゆえに、誰もいない道を真っ直ぐ進むのは楽で良い。
そういえば、このご時世ゆえ没になった企画に、中南米の国道を端から端まで真っ直ぐ歩かされるという、没になって良かったような惜しいような企画があったことを思い出しました。
いえ、北海道辺りがやはり無難でよろしいと思います。

ラピツティアさんからのコメントです!
月旅行!世界の億万長者が次々に家族連れで目指せば、初期投資が完了して意外に早く行けるようになるのではと期待しているところです。とはいえいまだ月面に降りた億万長者はいませんが。

沖縄と北海道は、なんというか日本の「端」感があります。すでに異国情緒を国内で味わってしまうところとして、確かに行きがち。

オーストリアの首都ウィーンことミリオポリスは、冲方も久々に行ってみたい! 路面電車が可愛いのです。そして市内を流れるドナウ川は、作中で川幅を倍増しにしているのは温暖化の影響という設定であるゆえ、意外に細いと思われぬよう。まあ、十分にでかい川なのですが。

kei.さんからのコメントです!
小笠原諸島は、確かに関東住まいでも意外に行けない場所かも。近い島は高速フェリーに数時間も乗れば到着しますが、遠い島は冲方も時間の都合でなかなか。
とはいえ、本来最も関東から近い離島なのですから、冲方もいずれ制覇してみたいものです。
ちなみに近い島は東京から日帰りできるのでリモートに良いのじゃない?と思ったこともありますが、電子的環境において諦めざるを得ませんでした。

薔薇肉舶載さんからのコメントです!
ひゅう! これは行きたくなります。YouTubeでメロー安眠動画を見ているだけでは、だんだん満足できなくなりますから。
まだ季節は早いですが、しんしんと雪が降る中での湯屋逗留は、非常なまでの養生力を発揮します。
地名も優雅!これは行きたい場所が一つ増えました。ありがとうございます。

新条拓那さんからのコメントです!
ご時世ゆえ、冲方も、県境の向こうがもはや隔絶された異世界のように思えることもしばしばでした。
はや三年、されど三年。こんなときでも都内の再開発が進んだところもあれば、相変わらず変わらぬところもあり。
冲方も、小規模ですが取材巡りをするつど、二十三区それぞれ別の国のように思うことがしばしば。実にまったく多彩な都市だと思わされます。何しろ沿岸埋め立て地から、ビル街から、山林田畑まで、一都市内の扱いですから、むやみとでかい首都を作ったものだと感心します。
世が落ち着いた折には、ぜひ都内探索をお楽しみ下さい。

あとがき

今週は掲載が遅れた上に、予定になかった「思うこと」をやたらと書きつづってしまいました。
noteに引っ越した際は、イベントと冲方塾で集金先が異なるゆえ、別々に分けざるを得ませんでしたが、現状、結局これは一つにして良いのではないか、と今さら思案。お金の受け取りはどうするのかという問題さえクリアすれば、そのうち合体させてしまうかもしれません。

さて。
世のあらゆる局面が、これほどまでに落ち着かなくなるとは、誰もが予期せぬことでありましょう。
であれば、いずれ落ち着くことが、かえって予期されるもの。
今は何かと忍耐、などと思わず、これがこれからの日常なのだ、と思い直し、向こう五年、十年、徐々になだらかになり、そして上向いていくさまを楽しめるはず、と思って生きたいもの。

皆様におかれましては、動揺なき穏和で健やかな一週間を過ごされますよう。
冲方丁でした。


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