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「訂正可能性の哲学」を読みながら、「シン・仮面ライダー」について考える

 1999年はノストラダムスの大予言の年であり、映画「マトリックス」が劇場公開された年でもあった。この映画のバレットタイムに代表される革新的な映像表現は当時の観客たちの度肝を抜いた。また、機械との戦争に敗れた人間が幸福な仮想現実を見させられながら機械の動力源となっているというビックリな設定も目を引いた。それは人間と機械との関係が反転するという恐怖であったが、果たしてその恐怖を現実的なものとして受け止めていた人はどれくらいいたのだろうか。少なくとも当時小学生だった私は全く本気で受け取っていなかった。

「マトリックス」の培養槽

 それから時は流れて2023年に出版された東浩紀(以下、人名は全て敬称略)の「訂正可能性の哲学」では人工知能(AI)による政治的決断を無批判に受け入れようとすることへの危機感がはっきりと示されている。

「正しい」一般意志を把握でき、それに従うことで正義の政治が実現できると考えることは、人間のコミュニケーションのゲーム的な本質を無視したたいへん危険な行為である。そこでは民主主義はたやすく暴力に変わる。20世紀の共産主義がわかりやすい例であり、21世紀の人工知能民主主義も新たな例になりつつある。本論はそのような危機感のもとで書かれている。

東浩紀「訂正可能性の哲学」

 ここまで言い切るくらいの危機感なのだ。人工知能が凄い勢いで発達しているというニュースはよく目にするし、それが何かしら世の中の役に立つらしいという話もよく聞く。でも、もしかするとその先には良くない未来が待っているのかもしれない。

 人工知能による統治は手塚治虫の「火の鳥 未来編(1967年12月〜68年9月)」でも描かれている。西暦3404年、滅びかけた地球には5つの地下都市国家があり、それぞれの国家では人工知能にあらゆる政治的判断を委ねていた。人間の議会はあるものの、人工知能が決定したことを通過させるために存在しているだけだ。そのため、人工知能が決断した地下都市国家間の戦争に反対することが出来ず、結局人類は滅んでしまう。猿田博士の「ばかなことをしたもんじゃ。なんてばかなことを!なぜ機械のいうことなど聞いたのだ!なぜ人間が自分の頭で判断しなかった。」という台詞に象徴されるように、手塚は人間が自分よりも優れてそうな権威を盲信し、ついには主体性すら放棄してしまう傾向があることを指摘している。そして、それを弱さや愚かさとして捉えていた。

手塚治虫「火の鳥 未来編」

 東が危惧している人工知能民主主義とはどのようなものだろうか。それは人工知能が人間の知能を超えた後の世界を想定し、成田悠輔や落合陽一を引き合いにしながら以下のように書いている。

(人工知能民主主義とは)あまりにも複雑になった世界においては、もはや人間の貧しい自然知能に統治を任せることのほうが危険で無責任であり、これからは民主主義を守るためにこそ、むしろ政治から人間を追放し、意志決定を人工知能に任せるべきなのではないかと提案する新しい政治思想のことである。

無意識データ民主主義(人工知能民主主義とほぼ同義)とは、「インターネットや監視カメラが捉える会議や街中・家の中での言葉、表情やリアクション、心拍数や安眠度合い……選挙に限らない無数のデータ源」からなる「民意」をもとに、「アルゴリズム」によってさまざまな政策が自動決定されていく統治形態のことである。

東浩紀著「訂正可能性の哲学」

 つまり、膨大な統計データを活用することで国民の無意識下にある民意を抽出し、それに沿った政策を実行すると正しく善なる社会が実現されるという考え方である。それに対して東はそのような考え方は大きな物語の再来であると同時に、失敗する要因をはらんでいることを指摘する。

 大きな物語とは、人類史には大きな流れが存在していて、あらゆる分野は最終地点(終極=目的)に向かっていくという考え方だ。また、大きな物語は「過剰な人間信仰と素朴な人間批判の両立」を特徴としている。かつてはその役割を共産主義が担ったが結局は解体してしまった。しかし、2010年以降に人工知能民主主義として大きな物語は再び到来している。

 また、東は人工知能民主主義が持つ欠点として次のことを挙げている。①人間はルールを不完全にしか守れないし、途中で変更(訂正)してしまうため、そもそも正しく運用できない。②アルゴリズムによる分析は個人の固有性が考慮されない。③主体を剥ぎ取られた人間は被害者にすらなれないため、抵抗する術を失ってしまう。特に③の指摘などは「火の鳥 未来編」を彷彿させて、なんだか恐ろしくなってくる。

 この人間の主体なき政治という部分で、東は鈴木健の「分人民主主義」という考えも取り上げている。「分人民主主義」とは、個人という単位をさらに分割する(投票権も分割可能)ことで他者との相互依存を基礎とする人間本来のコミュニケーションのあり方をそのまま政治の場へトレース出来るという思想だ。そうすることで、やがて個人だけでなくあらゆる境界がゆるやかに融解する。意志や欲望はネットワーク状につながり、社会という大きなシステムが新しい民主主義として立ち上がってくるというのだ。それに対し、東はこのように評している。

民主主義が自然と一体化するということは、そこには人間の居場所はないということである。鈴木は、分人民主主義は「自己の結晶化」を「否定」する「新しい社会規範」の思想なのだと記す。そこでは「「私というかたち」がさまざまな部分グラフとしてソーシャルネットワーク上に溶けていくことになる」のだという。民主主義の理想を達成するためには、個人や主体や固有名は解体され、人々は群れのなかに溶け込んでいかなければならない。そう考える点で、分人民主主義は人工知能民主主義と同じ価値観を共有している。

東浩紀著「訂正可能性の哲学」

 個人の消失と大きな総体としての生物的社会とは、まるで諸星大二郎の「生物都市(1974年)」のようだ。この作品では人間全体が機械と融合することで、大きな1つの生命体となる過程が描かれている。そして、個人が完全に消失し、争いも支配も存在しない世界へと到達することが示唆されて終わっていく。しかし、ちょっと待ってほしい。私たちの世代だったらこれによく似た別のモチーフがすぐに思いつかないだろうか。そう、人類補完計画だ。

諸星大二郎「生物都市」

 「新世紀エヴァンゲリオン(1995年10月〜96年3月)」は庵野秀明が監督したテレビアニメ作品で、後に97年には映画化もされた。また、2007年からは新劇場版としてリブートされ、そちらも2021年に完結している。この作品に出てくるのが人類補完計画である。この計画の内容は「出来損ないの群体として既に行き詰まった人類を完全な単体としての生命に人工進化させる補完計画」と劇中で説明されている。つまり、人間同士の分かり合えなさを乗り越えるため、いっそ肉体を捨てて魂だけを集めてしまおうということだ。この計画は最終的に主人公である碇シンジにより拒絶され破綻する。しかし、なぜ人類補完計画は拒否されるべきなのかについては説明されなかった。

「新世紀エヴァンゲリオン」

 話を少し巻き戻すが、そもそも人工知能が政治的な判断をするとして、一体どんな社会を目指すのだろうか。国民が無意識に抱く要望を抽出するという方法は分かったのだが、それによってどのような社会を実現したいのか。その答えは「訂正可能性の哲学」の中で書かれている落合の言葉を参照するならば以下のようになる。

「(機械を中心とする世界では)全体最適化による全体主義は、全人類の幸福を追求しうる」のであり、「誰も不幸にすることはない」

東浩紀著「訂正可能性の哲学」

 この言葉をそのまま素直に受け止めると、人工知能民主主義の目標とは「全人類が幸福な状態」ということらしい。なんだろう、どうも既視感がある。そういえば、庵野秀明が脚本・監督をして2023年に劇場公開された「シン・仮面ライダー」に登場する人工知能のアイに与えられた使命が「人類を幸福に導く」というものだった。アイはその使命に従ってSHOKKERという組織の運営をするのだが、様々な外部情報を検討した結果、なぜか活動方針を「人類の目指すべき幸福とは、“最大多数の最大幸福”ではなく、“最も深い絶望を抱えた少数の人間を救済する”ことである」と設定してしまった。そして、組織内でこの定義に対してツッコむ人がいなかったため、この方針は訂正されずに実行されてしまった。

「シン・仮面ライダー」のSHOCKERロゴ

 ここまで人工知能民主主義がいかに上手くいかないかという話をしてきたが、それでは東はどのようにすべきだと考えているのか。それはまず第一にルソーの一般意志を動的に訂正可能なものとして導入することが重要だとしている。一般意志を素直に解釈するとアルゴリズムによる集合無意識のように絶対的で正しい自然のことに思える。しかし、それを信じきって放置するといずれは腐敗と暴走が訪れる。そうならないためには、真実と嘘の境界に現れる無数の「小さな社会(もしくは家族や結社)」という人工の自然を作り出す必要がある。その「小さな社会」から絶えず発せられる私的かつ感情的な喧騒によって、一般意志の絶対性は切り崩され、訂正され、脱構築される。その動的なダイナミズムこそが民主主義のあるべき姿なのである。それは大きな物語に向かって躊躇なく走り出すことへの危険性を認知すること。そして私たちが自重しながら、自力で困難を乗り切る原動力となるのだと私は理解した。ただ、ここは私が正確に読解出来てる自信は全くない。なので私もこれから読み返すし、もし未読の人はぜひ「訂正可能性の哲学」の原文を読んでほしい。そして、理解したことを共有してほしい。

 さて、そのことを踏まえてもう一度「シン・仮面ライダー」について考えてみたい。というのも、この映画と「訂正可能性の哲学」にはいくつかの接点があると思うからだ。それは具体的にどういうことなのか。

 エヴァもそうなのだが、「シン・仮面ライダー」はルソーのロマン主義的な人間観と合致している。「訂正可能性の哲学」ではロマン主義的な人間観について、このような説明がされている。

人間とはけっして合理的な強い存在なのではなく、むしろつねに情念に振り回され、他人を傷つけ、ときに自分自身すら壊してしまうような弱く不安定な存在なのであり、それゆえに尊いのだという人間観である。

東浩紀著「訂正可能性の哲学」

 昔から「新世紀エヴァンゲリオン」は文学的な作品だと言及されてきた。しかし私は人間の内面描写が多いからといって、なぜ「文学的」なのかがよく分からなかった。なぜなら人間の内面を描写しなくても、文学は文学たりえると思うからだ。しかし、そこにロマン主義という注釈が入ることでかなりすっきりした。「シン・仮面ライダー」はロマン主義文学の作品である。なぜなら、主人公の本郷猛は内面に慈愛と暴力を不安定に抱えながらも、それを乗り越えて他者との関係を築こうとするからだ。

 次に「訂正」という言葉を手掛かりにしてみよう。人類補完計画というモチーフは「シン・仮面ライダー」にもかなり近い形で登場する。前述したように人類補完計画とは、魂を肉体から離して集結させることで、個人間の壁を無くし完全な相互理解へと到達するという思想だ。これがそのまま「シン・仮面ライダー」ではハビタット計画となっている。この計画に対して、発案者である緑川ルリ子は「俗に言う地獄よ。本心だけの嘘のない世界、人間が耐えられる場所じゃない。」とバッサリ否定する。これは庵野が人類補完計画はなぜ否定されるべきなのかを説明した重要な台詞である。つまり、ハビタット計画は単なる人類補完計画の焼き増しではない。人類補完計画のうやむやになっていた部分をあぶり出し、その上で改めて否定を試みているのだ。

 ハビタット計画が上手くいかない理由についてもう少し考えてみたい。この計画はなぜ上手くいかないのか、それは個人が消失しないからである。人類補完計画にしろハビタット計画にしろ、魂のみを集めることで自己と他者の境界が溶けて混ざり合うことで個が消失することを想定した計画だった。それは人工知能民主主義の無意識の集積とも通じている。だが、実際にはエゴがぶつかり合うくらい個人は強固な存在であり、簡単には無くならないことが示される。これは奇しくも東が人工知能民主主義や分人民主主義に対して個人の固有性や存在への軽視を指摘したことと合致している。

 継承という言葉は「シン・仮面ライダー」におけるテーマの1つだ。この映画では個人の遺志が他者へとバトンタッチされるのが重要なシーンとして描かれている。しかし、実際には直線的な継承がされているわけではない。

 主人公である仮面ライダー(本郷猛)の場合だと、緑川教授の遺志を受け継ぐ(娘のルリ子を守ること)から、緑川ルリ子の遺志を受け継ぐ(ハビタット計画の阻止と兄イチローとの和解)ことへと変化している。これは本郷の目の前で困っている人を助けたいという根本的な思いがあるためだ。それに対して仮面ライダー2号(一文字隼人)は本郷の遺志を受け継ぐのではなく、ルリ子の政府と協力してSHOCKERに立ち向かうという遺志を受け継いでいる。つまり、ルリ子の遺志は分割されて2人に継承されているのだ。

 それでは一文字がルリ子の遺志をそのまま受け継いでいるのかというと、実はそうでもない。ルリ子と政府の関係はあくまで目的を共有するだけだったが、一文字は政府関係者の2人に立花と滝という名前を明かさせてから協力関係を結ぶことをわざわざしている。これは一文字が単なる役割よりも個人としての関係の方が強固であると信じているからだ。

「シン・仮面ライダー」

 「シン・仮面ライダー」は東が紹介したウィトゲンシュタインの言語ゲームのように、みんなで同じゲームをしているようで実はそれぞれが違うルールに従っており、そのルール自体も変化しながら物語が進行している。それでもまるで同じゲームをしているかのように見えるのは、お互いが信頼し合っているからだ。しかも、それぞれが異なるところを信頼しているのが面白い。

 エヴァの世界では人間が自分のことしか考えていないことへの絶望が底流していた。人間は互いに分かりあうことなど出来ない。人類補完計画とは、なぜ誰も自分のことを分かってくれないのかという叫びの裏返しでもあった。それに対して「シン・仮面ライダー」は最初から分かりあうことを期待していない。それよりも部分的に共有出来るところを手掛かりにして、ゆるやかな関係を築くことを描いている。

 最後に東浩紀と庵野秀明は共通した外圧を抱えていることを指摘しておきたい。それは東はゲンロン(2010年創業)、庵野はカラー(2006年創業)という会社をそれぞれ経営する立場にあるということだ。私はそのことが2人の思想に大きな影響を及ぼしているのではないかと思っている。「訂正可能性の哲学」では具体化されていないが、東が考える「小さな社会」とはおそらくゲンロンが念頭に置かれているだろう。そうすると結局は社長の組織論なのかというツッコミが入りそうだが、決してそんなことはない。なぜなら、2人が提示していることは全く効率的ではないからだ。むしろ効率化を拒否しているとさえ言える。会社を経営しながらも、その視点に立てているということ。私はそのことに凄みを感じずにはいられない。

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