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覗き込んだ先にあるもの 〜千子村正 蜻蛉切 双騎出陣 万の華うつす鏡〜

年がら年中、ミュージカル『刀剣乱舞』を追いかけてる気がするんですけど、それもそのはず、刀ミュはいわゆる本公演のほかに、『真剣乱舞祭』などのライブ公演があり、さらには単騎/双騎出陣といったスピンオフ的公演があるんです。だから、「なんかずっと刀ミュの何かしらが上演されている」っていう状態になっていて、なんと昨年末はスピンオフ公演が被ってるっていう……本当にデカ盛り本丸だよ!!!!!

そしてアタシは昨年の12月に千子村正 蜻蛉切 双騎出陣に行ってきました。め、めちゃくちゃに良かった……(語彙)
ずっとあれこれこねくり回しているうちに年が明けてしまったんですけど、このまま流してしまうにはあまりにももったいない、すてきな観劇体験だったので、ちゃんと言葉にして残そうと思います。

千子村正と蜻蛉切に絡む「糸」

開演前のスクリーンに映されていたのは、丸と四角の窓。そこから見える風景は季節を巡っていく。春から夏へ、そして秋になり、冬になる。同じ景色が写っているのだけれども、そこから見えるものは決して同じではなく、人によって見るものも何もかも異なるーー。
もっくんさんがブログでも言ってた通り、この窓のモチーフとなったのは、京都の源光庵の「悟りの窓」と「迷いの窓」。歌詞にも「迷いの中の悟り/悟りの中の迷い」とあり、ロゴも○と□だったので、今回のテーマの一つなんだろうな。

「悟りの窓」は円型で宇宙を表現していて、「迷いの窓」は四角形で人間の生涯の象徴だとされています。幕が開くとそれぞれに蜻蛉切と村正がたたずんでいるんですが、円型にいたのが蜻蛉切で、角型にいたのが村正なんですよ。もう、この時点でこの物語の2人の立ち位置がはっきりしました。迷い苦しむ村正と、そんな村正を支える蜻蛉切。でも、そんな単純な二元論でもなくって、蜻蛉切もまた村正と同じように苦しんでいる部分もあって。

この二振りって「ファミリー」であることには変わりないんだけれども、持っている物語とかその在り方は全然違うんだよね。

蜻蛉切といえば、徳川四天王のひとり・本多忠勝が愛用していた槍としてあまりにも有名な一振りで、史実と創作が入り混じりながらも、強烈な物語を持ち、現存もしていて、その存在は揺るぎない。だからこそ、その強すぎる物語が自身にも絡みついている。

一方、千子村正はいわゆる「集合体」。特定の刀ではなく、数多に存在する村正の刀の伝説から顕現している。その中でも有名な伝説は「徳川に仇なす刀」っていうものだろうね。ゲームの修行先が鍋島勝茂の所だったので、妙法村正の持つ物語が色濃いとは思うんだけど(ちなみに、図録第一弾初版の蜻蛉さんのキャプションには妙法村正の名前が出てきているので、おそらく当初はその刀の刀剣男士として実装予定だったんだと思います)でもやっぱり彼は妙法村正ではなく、数多の“妖刀伝説”を持つ「千子村正」として顕現しました。

そんな村正が、まるで万華鏡のような「夢と現の狭間」に迷い込んでいきます。この空間はおそらく村正の心象風景。ゲーム内のイベント・大侵寇のときに三日月さんの心象風景が描かれたように、刀剣男士はそれぞれが心象風景を持っているんじゃないのかな、と思っています。

自分の心の中に迷い込んだ村正と、覗き込んだ蜻蛉切。

個人的に、村正は自分の持つ“妖刀”としての物語をあまり好ましく思ってないんだろうなと想像しています。「定かではない伝説に踊らされている」と嘲笑し、人の噂は無責任だと切り捨てる。「脱ぎまショウか」といいながら村正が脱ぎたがっているものは、この“妖刀伝説”そのものなんじゃないかなと。

そんな妖刀伝説という、いわば呪いのようなものを背負いながらも、人間のことが愛おしくてたまらないのが刀ミュ本丸の村正。『三百年の子守唄』では信康のことを常に遠くから見守ってたように、愛情深い刀剣男士なんだと思います。光る丸い玉はおそらく生命の象徴で、それが無常の風によって消されてしまう=命が尽きてしまうことに悲しみを抱いている。
なのに自身は、その尊い命を断つ妖刀としての物語が強く、それにがんじがらめになっているだなんて、皮肉にもほどがあるよ! 千手観音のようなダンスが出てきたのも、千子村正の「千子」の由来になった逸話が元になっているだろうし、千子村正という刀剣男士を作り上げているあらゆる伝説が幾重にも絡みついている。

そんな姿を見た蜻蛉切は、張られた糸は鎖であり足枷だと言い、村正のためにその糸を断とうとするけれども、じゃあ蜻蛉切自身に足枷がないのかといったらそれもまた違うんだよね。前述の通り、本多忠勝の物語が強く強くまとわりついている。ただ、やっぱりね、明確な軸あるからこそ、問答の先に答えを見つけられるんだよ。

この問答のシーンの背景にはひときわ大きな月のオブジェがあったんだけれども、この月、三日月にかたどられながらも、ちゃんと光が当たっていない部分も“ある”んだよね。『つはものどもがゆめのあと』では、「見えない部分もちゃんと月だった」って言われてたし、『東京心覚』でも「見えていなくてもそこにある」ってセリフがあったように、刀ミュではずっと語られているテーマの一つ。そう、そこにはすでに答えがあったんだよ……。

「俺も村正だ」という答え

ただ、このシーンの後の描写が辛かった。

村正がバーサーカーのように遡行軍を斬っていくんだけれども、このとき遡行軍が絶命の声を上げてるんだよね。しかも、その声には遡行軍特有のエフェクトがかかっていなくて生々しい。さらには彼等を斬った後、村正は刀についた血を拭っているんです。ねぇ、彼等は本当に遡行軍なんです? 少なくともその前のシーンで蜻蛉さんが斬った遡行軍は声を上げなかったし、血振りもしてなかったよ……。

ここについてもいろいろな解釈があるだろうけれども、アタシは、村正という刀がこれまでに斬った人間たち(つまりは数多の妖刀伝説の元になったであろう人斬り)なんだと思っています。村正を村正たらしめてるものは、数多くの死の上にあるのだと。

でも、実のところ多くの命を断っているのは、村正だけじゃないんだよね。バーサーカーのように遡行軍を斬っていく村正を見て蜻蛉さんは怯えていたけれども、自分だって戦国の武将の槍だよ。戦のたびに多くの人を殺めてきた。このときの「俺も村正だ」って言うお芝居は日毎に変化していたけれども、千秋楽では「自分も、多くの人を斬ってきたのだ」という言葉にも聞こえました。

「俺も村正だ」っていうのは『三百年〜』でも『葵咲本紀』でも言っていたけど、それって単なる優しさや慈しみだけではない、同じ業を背負っているのだという覚悟みたいなものだったんじゃないかな、なんて思っています。

だから、糸でできた繭のようなものに閉じ込められたのは、村正だけじゃなくて蜻蛉切もだった。でも、だからこそ言えたんだよね。「分け合おう」って。そしてともにそのがんじがらめになった糸を“脱ぎ”、新たな一歩を踏み出せらんじゃないかな。

ラストの花のシーンは圧巻でした。こと刀ミュにおいては、花は人の命に例えられ、物語をずっと彩ってきた象徴的なものです。瓦礫のような心の中が、そんな花たちで満たされたんだよ……。広い空間にびっしりあったので、なんの花があったかまではちゃんと確認できなかったけど、多分、本多家の家紋になっている立葵はあったと思うし、村正が幼い信康にあげたトリカブトもあったかもしれない。蓮の花(つはもの)はあったのかな。もしかしたら竜胆(源氏)や山吹(心覚)なんかの、刀ミュにゆかりのある花も咲いていたのかもしれない。とにかく、そこには花が「咲いて」いた。
そうだ、『葵咲本紀』で村正は言っていたね「咲」にはもう一つの意味があるのだと。そう、「咲」には「笑う」って意味もあるんだよ。ぜんぶ、ぜんぶ、繋がっているんだな……。

幕が閉じ、○と□が重なった時、自分のなかのいろんなものがぶわっと襲ってきて、ボロボロと泣いていました。いや、それまでもずっと泣いてはいたんですけどさらに涙が溢れてきたんですよ。
あぁ、違う形でも重なることはできるんだなって。どっちが内でどっちが外で、欠けているのは○なのか□なのはわからないけれども、それでも重なれる。ピッタリ同じじゃなくてもいいんだね。


セリフが少なく、観念的な表現が多かったから、とても難しいお芝居だったと思います。でも、そこに解釈や意図がなければお芝居はできないし、ものは作れない。だから演じた2人にはきっと明確なビジョンはあった。
ただその一方で、「正解」は設定してないんじゃないかなとも感じています。見るたびにお芝居を変えていたし、それこそ万華鏡を覗いたときのように、同じ瞬間なんて一つもなく、人によって全然違うものが見える。そんな作品を目指していたんじゃないかな。この万華鏡を覗き込んだ先にあるものは、無限に広がっていく物語なのかな、なんて。

二部に関しては「最高!」「天才!」「好き!」くらいしか語彙がなくなってしまうので割愛します。このエンタメに全振りしたライブ含めて、ほんとにほんとに贅沢で豊かな時間でした。村正派の双騎出陣、ありがとうございました!!!!!!!! そして再配信早くください!!!!!!(どさくさ)

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