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OLA革命-自分度の広げ方 09「多様性を学んだ幼少期を俯瞰する」

ボクの印象に残る2種類の魚

 岡山県真庭市、湯原温泉近く(旧湯原町)で育った幼少期のこと。川遊びが大好きだったボクは、数十種類以上の魚を釣っては遊んでいました。生物多様性というほど大した話ではないんですが、その時の魚の顔を覚えているんですよ。人の顔は忘れるのに。その中でも印象的だった2種の魚の話をしたい。ひとつは、ねっころまい(オヤニラミ)もうひとつはちょうかん(アカザ)です。
 ねっころまいは眼光が鋭く、いつも淀みの中でゆっくりしているんだけど、獲物が来るとパッと動く魚でした。でも取ってきても家族は全然喜ばない。ねっころまいは、当時の食べ物がない時代でも、食べたくないような不味い魚だったからです。

 もうひとつが、砂地の中にいる魚であった、ちょうかん(アカザ)。赤い感じの魚で、砂地の中で餌をうろちょろして探しているんですが、背びれに毒があって刺されるんです。あまり釣りには関係なさそうですが、うなぎの餌であるじゃこを獲りにいくと、このじゃこのかわりに、ちょうかんがかかっているんです。しかもちゃんと扱わないと、さされるんです。
 この全く性格の違う魚が存在していることは、子どもながらに不思議な感覚を持っていました。なんでこんな魚がいるんだろうかと。こういうコントロールできない何かに、子どもの頃接してきた体験は、大きいと思うんですよね。

体験としての多様性

 これらの魚なんですが、まず、この厄介な魚が姿を見なくなりました。次に、美味しかった魚もいなくなりました。もうボクが知っている川では、なくなったのかもしれません。
 いまの若い人たちは、これらの魚がいなくなった社会に住んでいます。そういう、存在自体がどうしようもない自然の体験は、なかなか積むことができません。
 ボクが、コーポラティブハウスや、様々なプロジェクトで、いろんなタイプの方々と一緒に仕事ができるのは、もしかするとあの魚との時間が、魚採りの時間が、その原点にあるのではないかと思うんです。不味いねっころまいや、痛いちょうかんを通じて、何かわからないものとでも付き合っていくこと、そしてそんな魚にも個性と表情があること。そういうことを、知らず知らずのうちに体験していたのではないかと思うんです。
 家が作りたいといってもいろんな個性があり、それを聞き出して作っていくことに重きをおいてきたのは、この原体験があると思います。若い頃はこんなふうに考えもしなかったのですが。

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