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安曇野で暮らした☆

 先日、私は、安曇野で暮らすため、車で高速道路を走行中、高速道路が水浸しになったり、トンネル火災で通れなくなるなど、迂回せざる負えなくなった。そして、駐車していたら、他車が自車に衝突する経験もした。その時の私は、とても冷静で、感情の揺れはあまりなかった。私は、「私たちは、宇宙とともにある。相談できる人にも会える。迷惑もかけられる。そして、守られているんだ。」と気づいた。これは、霊的存在である私たちは、すべて一体であると感じられた出来事だった。

 そして、安曇野での生活が始まった。

安曇野での瞑想から学ぶ

 「家族と仲良く過ごす」 これは、私にとって、努力しなくても自然にできたことだった。私は、両親の傍で、話を聴き、パートナーと結婚し、2人の娘を産み、育てた。保育士をしていたので、地域の子どもたちと関わりながら、保育を通じて、愛ある関わりを大切に生きてきた。パートナーも、優しく、子どもに寄り添いながら、たくさんの愛をいただき、愛を与えていった。そして、子どもたちも、自立した。

 その頃、私は、保育士をやめ、組織の中から出られた解放感と時間を自由に使える喜びに満ちていた。一日中、時間にコントロールされていた生活から、静かな瞑想や愛犬との散歩、庭仕事を行うことで、瞑想を行い、深い気づきを得るようになった。

 興味をもって観察している点は、私が、周りの人や風景を、映像を観るかのように遠くに観るようになったことだ。

 なぜなら、瞑想を通じて、人間関係などで、自分の中の感情をみつめるようになった。どうしてこの感情が湧いてくるのか、心が反応するのかを観察していった。また、その感情を嫌うのでなく、受け入れ、そして手放すことで、自分を全部愛することができたからだ。すると、目の前に起こっていることに、一喜一憂するのではなく、淡々と観るようになった。

 例えば、自分が、遊んでいる子どもを見守っていたとする。もしも、そこで、子どもが転倒したとしても、「大丈夫。」と信頼してみていられる感覚がそこにあった。どこか遠くの映像を見ている私がいて、安心してそれを見ているという感覚だ。今まで、目の前の現象に一喜一憂して、「周りの人を自分が手助けしなければいけない。それは当然だ。」と考えていたことと、まるで違う世界があった。

 もし、瞑想をして、内省を深めていなかったら、このような気づきはなかっただろう。だから、私は、一人一人の創造主を、信頼することで、目の前の映像を少し離れて安心して観るという視点にたてるようになったのだと考えた。


  内省的連想

 私の好奇心は、自然の中で、葉を見つめ、花を見つめ、しずくを見つめ、風を感じ、音を感じ、大きな大地のエネルギ―を感じることだ。今まで、ブログに気づいたことを発信していたので、ふりかえってみると、自分が、五感で感じたことや体感による気づきから、たくさんの内省があった。

 なぜなら、私は、旅をするのが好きで、いろいろな自然に触れてきたと感じたからだ。例えば、最近では、長野、石垣島、竹富島、長崎、京都、鳥取、静岡と旅をした。どこも自然豊かで、そこには豊かな暮らしがある。観光スポットもめぐるが、友だちの家で、のんびりと過ごすこともあった。

 なかでも、松本の湧き水、安曇野の自然や北アルプスに惹かれるようになり、いつしか、柴犬の源ちゃんと安曇野で暮らしたいと思うようになった。そして、私は、柴犬の源ちゃんと安曇野で暮らすことを決意した。

 この「安曇野で暮らしたい」という連想は、「家族を手放したくない」という家族への依存があることに気づかされた。手放したくない意識があるから、物件探しもどうしてか頓挫してしまったり、移住への準備がなかなか進まない。それでも、あきらめず、安曇野での移住を意図していたら、半年後、柴犬と一緒に住んでもいい賃貸の平屋に出会った。

 もし諦めていたら、この地で暮らすことはなかっただろう。つまり、安曇野の自然に触れたいという好奇心が、今の私を創っていた。


  観察からの発見

 安曇野の家は、愛ある建物だが、独特なカビとすえた匂いがした。トイレは汲み取りで、アンモニアの匂いもした。また、枯葉となった庭先から、揮発する除草剤の匂いもした。すると、私は、五感が研ぎ澄まされ、においで頭が痛くなった。今、私は、臭覚にフォーカスしているのだ。

 なぜなら、私は、心地よくこの家で過ごしたいからだ。例えば、私は、まず、生け花を飾って、カサブランカやラベンダーの匂いの心地よさを感じた。半月くらいかけて、家の掃除をしながら、「ありがとう」という思いを伝えた。庭の枯れた草にも、「ありがとう」を伝え、少しずつ、枯葉を手で取った。すると、枯葉を取ったところから、草が生えてきた。その草を観た時、生命力のすばらしさに感謝が生まれた。そうするうちに、波動を高く強く過ごすことで、臭いも感じなくなるのではないかと内省した。

 もし、私は、感謝をこめて、この家の掃除をしたり、庭の枯葉をとらなかったら、この気づきはなかっただろう。したがって、私たちが、波動を高く強くすることで、五感で感じる映像が、どのように体感できるか深めていきたいと考えた。

 安曇野での暮らし。

 日々、自然を観察すると、湧き水、北アルプスの山々、風、土、リンゴ、栗が既に与えられていて、そして、除草剤、消毒剤などの匂いと土の匂い、排泄物の匂いなどともにあった。

 この観察から、家(うち)を整えることは、内を整えることだと感じた。家の臭いが、身体の細胞レベルまで感じられ、波動を高くすることで、臭いの影響はないと内省した。

 なぜ人は、自分の心地やすい場所で暮らしたいのか?

 友人と五感で感じられることや現象は「本当に安曇野で暮らしたいのか?」と問われているのではないかと話をした。

 精霊の住む自然を観察していく中で、エッセンスをとらえ、今ある暮らしを最高のバージョンの自分で生きられるよう過ごしたい。それは、自分のフリーエネルギーを放つことになるだろう。つまり、すべては可能だとしたら、私のテーマ「自分のフリーエネルギーを暮らしの中で役立てる。」を体現し、それは、宇宙の真理を体得することに繋がると考えた。


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