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『旅はうまくいかない』

チェコ編①「どうなってるのか、アエロフロート?」

飛行機に乗れば酔い、枕が変われば、眠れない、食べなれない物を口にすれば、お腹を壊す。そんな軟弱者だが、知らない場所には行ってみたい。

今回はチェコのプラハと田舎町ミクロフへ。チェコビールを飲みまくり、混浴サウナにドギマギし、熱波のヨーロッパにヘキエキする。旅はうまくいかない方が面白い。チェコ八日間の旅。

この旅は始めからうまくいかなかった。

そのとき僕は、列車に乗って成田空港に向かっていた。これから一週間チェコのプラハに行くためだ。妻と二人、チェコのビールを飲みまくる旅だ。

去年ポーランドで何度も飲んだチェコのビールのことを忘れることができず、それならば本場のチェコにビールを飲みに行こうということになった。

チェコのプラハは『百塔の街』と言われ、とんがり屋根の建物が多くある風光明媚なところで、世界中からたくさんの観光客がつめかける。街の真ん中にはヴルタヴァ川が流れ、その向こうには美しいプラハ城がそびえ建っている。その景色は何度も旅行雑誌で見かけたことがあった。

だが僕らには、ついにチェコのプラハに行く、といった思い入れはなかった。どちらかというと、「まぁプラハでも行ってみますか、いいところだと伺ってますから」といった軽い気持ちだ。だが、その執着心のなさが、僕らの唯一の武器になるとは、そのとき思ってもみなかった。

船橋で京成線に乗り換えて、成田空港に向かう。ここからまだ一時間ほど列車に乗らなければならない。いやいや、一時間くらいどうでもいいはずだ。プラハに行くには乗り継ぎ時間もいれると十六時間以上かかるのだ。やれやれ、と溜息がもれる。

僕は、携帯で飛行機の時間をもう一度確認することにした。そして、ふとあることに気がついた。それは旅行サイトの予約ページの画面だ。なぜか乗り継ぎのモスクワからプラハへの便がキャンセルになっていた。昨夜見たときはちゃんと予約がとれていたはずだ。

「なんだこれ?」と僕は慌てて言った。
「どうしたの、ちょっと私にも見せて」と妻も僕の携帯の画面をのぞき込む。

昨日、アエロフロートのサイトでウェッブチェックインをして座席も確保したはずだ。現に成田からモスクワまでの便はちゃんととれていた。

「どうしてプラハへの便がキャンセルなんだ。特に何もしてないのに」
「キャンセルするようなボタンを押してないよね」と妻が言う。

もちろんそんなことはしていない。だが、画面にはしっかりとキャンセルの文字が浮かんでいた。

困ったことになった。何かネット上の誤動作で勝手にキャンセルされてしまったのかもしれない。そうなると、モスクワまでしか行けないことになる。最悪、ロシアから飛び立つことができないかもしれない。

いつもなら、こんな事態でも、それじゃモスクワ観光でもしますか、という楽観的な流れになるのだが、今回はそうはいかない。なにしろロシアである。

モスクワには一度も行ったことはない。どちらかというと一度行ってみたい所だ。

だが、ロシアという国は気軽に立ち寄ろうとする旅人に容赦しない。ビザがないと入国できないのだ。

それならば空港でビザを取得すればよいのだが(現にカンボジアなどでは、お金さえ払えば空港でビザを発給してくれる)それもしてくれない。事前に申請しないといけないからだ。つまり、僕らがモスクワに到着することは、ずっと空港から出られないことを意味していた。

「これは絶対にこっちのミスじゃない。なんとかしてもらわなくちゃダメだ」と僕は言った。
「やっぱりアエロフロートなんか乗っちゃダメだったね」と妻が言う。

その通りだった。ついつい安いチケットに目がくらんで買ってしまった。六月末のヨーロッパ行きで往復十万円を切っているのは、アエロフロートだけだったのだ。

だが買ってからネットでアエロフロートの評判を見て驚いた。そこには罵詈雑言が並んでいたからだ。褒めているのが一割で九割がマイナスの意見なのだ。

特に乗り継ぎ便がものすごく評判が悪い。乗り継ぎのためのチケットの発券とパスポートチェックにものすごく時間がかかるらしい。一つしかないカウンターに、時には数十人の乗り換え客が詰めかけると書かれていた。

そのために長蛇の列ができ、最低でも二時間以上の乗り継ぎ時間がないと、次の飛行機に乗り遅れるらしい。幸いにも僕らには三時間の乗り継ぎ時間があった。これならどんなに並んでも次の飛行機に乗り遅れることはないだろうと考えていた。

だが、それも甘い考えであることが、いろいろな人から聞こえてくる。すべては飛行機が遅延しないという前提の考えだからだ。特にアエロフロートは遅延も多く。乗り継ぎ時間が一時間を切ってしまうことが多々あるそうだ。

その上、パスポートチェックでは誰もが順番を守らず、押し合いへし合いしながら、みんな横入りをしてくるのだ。だれもが時間がない。ロシアの飛行機は待ってくれない。前の飛行機が遅れたのに、平気で置いていく。なんと恐ろしい航空会社だろう。

「最悪よね、社会主義国家」と妻が言う。

「ネットで見たけど、乗り遅れると、お前が時間通りに来ないのが悪い、チケットを買い直せ、とか平気で言うらしいよ」

「絶対にどんなことをしても私は買い直さないからね」と妻はいつもの通り強気である。

英語はできないけど、迫力なら絶対に負けないだろ。なんだか妻を頼もしく思う。彼女ならどんなことをしても次の便を手配させるような気がする。

「あああ、なんだか最初から嫌になるわ」と妻が言った。

プラハでのチェコビール三昧の生活が遠くに霞む。

「とにかく成田に言ってカウンターで抗議しよう。俺はなにも悪くないんだから」と言いながらも、もしかして間違えて何か押してしまったのではないかと心配になってくる。

そう思うとゆったりと列車に乗っていられない。これから先のことが心配で心配で仕方がないのだ。

僕がソワソワしている一方で、いつもの通り妻はゆったりと構えていた。なんとかなると確信しているのだろうか、心配する素振りも見せず、携帯をいじっていた。

そわそわしている時間は長く感じる。いつもと同じ時間だけ列車に乗っているのに、すっかり疲れ切ってしまった。

成田空港の第一ターミナルで列車を降りると重いスーツケースを引きずって、すぐにアエロフロートのカウンターに駆け込んだ。僕はパスポートを取り出すと、

「あの!モスクワからプラハまでの経由便がキャンセルになってるんですけど」と言った。

すると、カウンターの女性は端末を打って何か調べ始めた。少し時間がかかる。その間、僕らは彼女の表情をじっと伺うことしかできない。そして彼女が首を捻るたびに僕の不安は増していった。

「どうやらモスクワからプラハまでの便は飛行機が飛ばないようですね」
「ええ、なんですか、それ?」
僕は彼女の言葉が信じられなかった。

「理由はわかりませんが、今日の便は航空会社の方からキャンセルになっているんです」
「それで、どうしたらいいんですか?」
「そうですね。とりあえずモスクワまで行っていただいて向こうで聞いてもらうしかありませんね」と彼女は簡単に言った。

「ですが、モスクワってビザがないと空港から出られないでしょ、次の便までって何時間待つんですか」
「そうですね。二十時間後に飛ぶ便があります」

これまた簡単に言う。こっちからしたら二十時間も空港内で過ごすなんてありえないのだ。
「モスクワでのホテルはどうなるんですか」

そう僕が言うと、彼女の顔色が少し変わった。どうやら自分では対処できない客だと思われたようだ。すぐに電話を取るとどこかに連絡をとった。

すると若い男性がやってきて、奥のカウンターで話を聞きましょう、と言った。これは本格的に困ったことになった。

しばらく待っていると、僕らと同年代の物腰の柔らかい中年の男性がやって来て、
「どうやら悪天候のためにモスクワからプラハへの便が飛ばないようなんです」と言った。
「どうしたらいいんですか?」と僕は素直に尋ねた。
「そうですね。これまでに八組の方がいらっしゃったんですが、みなさん、モスクワで待機されるそうです」

その瞬間、妻の顔が曇った。
「そんなの嫌よ」

妻の機嫌が悪い。これはまずいことになった。

さて、どうするか。みなさんはこうするようですよ、と言う空港職員の言葉は、日本人には説得力がある。だが、それに負けてはいけない。

「明日の便が飛ぶのなら、成田で待ちます。一日減らして構わないですから」と僕は言った。
「わかりました。成田のホテルを無償で提供できますから、ちょっと待ってください」
職員の男性はまた端末で何か調べる。

「そうですね。明日の便の手配は大丈夫です。ただですね、成田近辺のホテルが満室の状態でして」
「ああ、それなら大丈夫ですよ。交通費さえ出していただければ、うちに帰りますから」

こうなったらタクシー代を出させてやろうと思った。ちらっと妻を見ると納得いかない顔だ。

「どうした?」と僕は妻に尋ねた。
「一日減るならキャンセルでもいいよ」と言う。たしかにそうだ。こうなったら仕切りなおしでもいい。僕は再び空港職員の男性に質問した。

「あのキャンセルするなら、チケット代はどうなるんですか?」
「もちろん全額返却でお支払いします」
「チェコでのホテル代はどうなるんですか?」
「そちらは出ません。これは飛行機だけのことでして」
「それは困ったな」
「海外保険に入られていますか」
「ああ、それなら入ってます。遅延保証もつけてますから」
「それなら大丈夫ですよ。遅延証明を出しますからホテル代も戻ってくると思います」

キャンセルすれば全額返ってくると思うと、なんだかホッとする。

「キャンセルして、チケットを買い直されていかがですか」と職員の男性が提案してくる。

どうやら別の航空会社のチケットを買うべきだと言うのだ。だが、そのチケットはとても十万ではすまない。僕が答えないでいると、こう職員の男性は言った。

「お待ちになっている方がいらっしゃいますので、もしキャンセルなさるなら、モスクワへの便を別の方にゆずってはいただけませんか」

「いや、ちょっと待ってください。まだ何も決まってませんから」と僕は言った。みすみす自分の権利を放棄する気はなかった。どうなるかわからないのだ。ここで僕は奥の手を出すことにした。

「キャンセルせずに、そちらで別の航空会社のチケットを代わりに取っていただくことはできませんか」と僕はとりあえず言ってみることにした。ダメで元々だ。だが、すぐに無理だと言われると思ったら、そうではなかった。職員の男性の様子が変わったのだ。

「それは一度上司に相談してみないといけません」

なんだか、小さな突破口があるようだ。こちらが提案しない限り、向こうからは何も言わないようになっているのかもしれない。

「お願いします」と僕は畳み掛けた。
「わかりました。お約束はできませんが、一度相談してみます。その間、どこかでゆっくりできる場所でお待ちください」

僕らは第一ターミナルのフードコートに向かうことにした。

さて、これからどうなるのか……もしかしてこの旅はここで終了してしまうかもしれない。だが、それそれで仕方のないことのように思えた。

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