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『旅はうまくいかない』

チェコ編③ 「まずはビールを一杯!」

飛行機に乗れば酔い、枕が変われば、眠れない、食べなれない物を口にすれば、お腹を壊す。そんな軟弱者だが、知らない場所には行ってみたい。

今回はチェコのプラハと田舎町ミクロフへ。チェコビールを飲みまくり、混浴サウナにドギマギし、熱波のヨーロッパにヘキエキする。旅はうまくいかない方が面白い。チェコ七日間の旅。

午後十一時過ぎ、ヴァーツラフ・ハベル・プラハ国際空港に到着した。

本来なら午後九時には到着しているはずだったので、二時間ほど遅れたことになる。ロンドンまでの余分な飛行時間がそのまま現れることになった。

「でも、いいじゃない。アエロフロートで行った八組の人たちは、まだロシアで足止めなのよ」と妻が言った。

彼らは早くても明日の午後にしかプラハに到着できないのだ。ほぼ一日を無駄にしたと言ってもいい。その点僕らは明日の朝からすぐに観光に出かけることができるのだ。おかげで疲れてはいたが、心は晴れやかだった。

「それで、ここからどうやってホテルまで行くつもりなの?」と妻が尋ねる。
「バスと地下鉄に乗って行くつもりだったけど、この時間だと無理かもな」と僕は言った。すでに終電が迫っているからだ。
「タクシーに乗るの?」
「いや、タクシーは評判がよくないんだ。だからウーバーを使おうと思ってる」

こんなことがあるのではと、ちゃんと携帯にアプリを落としていた。アプリを開くとすぐに目的地を入力する。すると地図上に経路があらわれ、料金が表示された。323チェコ・コルネ、日本円にすると約千六百円ほどだ。

「安いね。空港からホテルってそんなに近いの?」と妻が訊く。
「三十分くらいかな。それにしても安い。タクシーなら三千円はするとネットに書いてあったし、旅行者はボラれるそうだ」
「海外って、やっぱりウーバーがいいわね。現金を使う必要もないし、地図も出てるから遠回りされることもないし」
「そうだな。でも少しだけ現金をチェコ・コロナに替えておこう」

僕らは空港にある両替所に向かった。一万円を出して、両替しようとすると、「もう七千円出した方がきりがいい数字になるぞ」と言われた。僕は少し迷ったが、端数を切り捨てられるのが嫌で、もう七千円足すことにした。

だが、両替したチェコの紙幣を見てがっかりすることになった。本来なら一コロナが五円ほどになるのだが、どうやら六円から七円の間くらいで交換されているのだ。一万七千円だと、三千円ほど少なくなる。ちゃんと確認しなかったことが悔やまれた。

それを知ると急に妻の機嫌が悪くなった。
「なんなのよ、これ!」

空港で両替することはあまり得策ではないことはわかっていたが、これほどだとは知らなかったのだ。タクシー代をそのまま抜き取られたような気分だった。

妻があまりにも怒っているので、とにかく車に乗せなければならないと思った。眠いのもあるし気が立っているのだ。妻は何度も少ない紙幣を数え直した。

「たった、これだけよ」
「いいから、お金は財布にしまってさ、ホテルに向かおうよ。ホテルに着いたらすぐにさビールでも飲みに行こう。本場のチェコビールを飲もう」と僕は言った。

そしてもう一度携帯でウーバーのアプリを開き、配車のボタンを押した。運転手からすぐに連絡があった。五分ほどで空港に着くそうだ。どうやらウーバーの車はタクシーのように空港に駐車できないようだ。近所にいて申し込みがあると駆けつけるらしい。

僕らはスーツケースを引きずって建物から出た。タクシーが並んでいるがそれらを無視して一般車の駐車場に向かった。だが、そこにも車はやってこない。メールを送ると、マリオットホテルの前にいる、と連絡が入る。周囲を見回すと百メートルほど離れたところにマリオットホテルが建っているのがわかった。

「あそこだ!」
僕らは急いで車まで向かった。すると相手も気がついたのか、こちらに車を回してくれる。携帯の画面で車のナンバーを確認した。間違いない。

すでに時間は午前零時を回っていた。空港にはほとんど誰もいない。ウーバーを頼んだのも僕らくらいだった。

運転手は感じのいい中年の男で、「どこから来たんだ?」と英語で尋ねてきた。日本から、と答えると、そうかそうか、と頷き、それ以上は何も話をしなかった。どうやら英語はあまり得意ではないらしい。それでもちゃんと目的地のホテルまで僕らを運んでくれるから心配はない。

国道のようなまっすぐな道を十五分ほど走るとすぐに市街地に入った。思った通りプラハの街は薄暗かった。すぐに川が見えて来た。これがヴルタヴァ川だろう。橋を越えると道路が石畳になった。道の真ん中には路面電車が走っていた。ここが旧市街だろうか。

「バスと地下鉄で来なくてよかった」と僕は言った。駅からこの石畳の道を十分ほど歩かなくてはならなかったからだ。

「スーツケースのタイヤが壊れるわ。それに暗くて道もわかんないでしょ」と妻が言った。

とてもじゃないが、疲れた体で夜の街を、それも重い荷物を持ってフラフラすることはできそうになかった。

「遅れて到着して正解だったかもな」

そのとき運転手が何か言って、川の向こうを指差した。

「おおお、あれがプラハ城か…」
暗闇の中にライトアップされた城がぼんやりと浮かんでいた。街が暗いだけに、そこだけまるで宙に浮かんでいるような印象を受ける。

「なんて美しいんだろう」と思わず声が漏れる。となりの妻もじっとその景色を眺めていた。

何度か角を曲がり、僕らの泊まるホテルに到着した。時刻は既に午前一時過ぎになっていた。本来ならホテル側からキャンセルされてもおかしくない時間だった。

だが、すでに成田でホテルへはメールを送っていたので安心だ。到着は遅れるが、ホテルはキャンセルしないと伝えてある。

ホテルは旧市街と新市街のちょうど真ん中にあって、どちらに行くにも便利な場所だった。値段は一泊七千円ほどだ。プラハでは安いホテルなのでバスタブはない。だが、最低限の設備があり、部屋も狭くはなかった。

僕らはセイフティーボックスにパスポートと貴重品を入れると、すぐにホテルを飛び出した。

深夜一時を過ぎていたが、ホテルの前に朝までやっているバーを見つけていた。

「ねぇ、ここなの?」と妻が不安そうに言う。
確かに怪しい看板だ。中を覗くと地下に降りていく階段がある。

「大丈夫かな?」ちょっと心配になってくる店だった。だが、どこか他を探すという気力はもうなかった。

僕らは恐る恐る中に入っていった。すると中は狭く、カウンターとテーブルが二つほどあるだけだった。

モヒカン頭のバーテンダーがすぐに声をかけてきた。客はみんな若く、どこか崩れている感じがした。

一瞬、ビールを飲むのを諦めて出直そうかと思ったが、そのモヒカンのバーテンダーが実に優しく、今の時間は飲み物だけだがいいか、ときいてきたので、僕らはかろうじて、その店に留まることになった。

次はどこに座るかだ。カウンターは空いていない。二つあるテーブルのそれも角の席が二つ空いているだけだ。僕らは仕方なくそこに座ることにした。

するとすぐに隣の席の青年が話しかけてきた。まだ二十代だろうか太っていてもっちりとしている。隣に座る刺青の入った痩せた男性とふたりで来ているようだ。

「君たちはどこから来たの?」とその太った青年が僕らに尋ねてきた。

日本からだと答えると彼は実に嬉しそうに微笑んだ。そして、日本語で「こんにちわ」と挨拶したのだ。

「どうして日本語が話せるの?」今度は僕が尋ねる番だった。するとその青年は、以前自分の家に日本人がホームステイしていた、と教えてくれた。

なんだか幸先のいいスタートだった。もちろん彼は日本のアニメや漫画のことも知っていて、以前に日本へ行ったことがあると言う。

僕はすぐにビールを買ってくると、彼らと乾杯した。はじめはチェコ語で、そして二度目は日本語で「乾杯!」と教えた。

なんだか店にいる他の客も僕らのことが気になるようで、色々話しかけてくる。この店には日本人などめったに来ないのかもしれない。いやそれどころかアジア人も珍しいのかもしれない。とにかく彼らはみんな感じがよく、僕らにチェコの旅を楽しんでくれ、と言ってくれる。そして僕は、チェコビールは世界で一番美味しい、最高だ、と誰彼なく言った。

すでに現地の時刻は深夜二時を過ぎている。日本はもう朝だ。東京のマンションを出てから丸一日経ったことになる。疲れいるはずだ。だが、初日は旅の興奮もあって体は痺れるように怠いが、心は浮き立つものがあった。

突然、僕らの目の前で太った青年が友人の男性とキスをした。それもかなり濃厚なキスだった。なるほど友人ではなく恋人というわけか。さっきからやたら仲がいいと思ったらそういうことだったのだ。

ゲイに対する偏見はまったく持ち合わせていない僕だが、目の前での濃厚なキスは刺激が強過ぎた。思わず固まってしまった。だが悪い気持ちはしなかった。むしろ微笑ましく見えた。

彼らはキスを終えると、もう俺たちは帰るよ、いい旅を、とこちらに向かって言った。僕は彼らに、ありがとう、と言ってがっちりと握手をして別れた。嬉しかった。なぜだか彼らのキスが、僕らの旅のファンファーレのように感じたからだ。

そう、僕らのチェコの旅が始まったのだ。

「そろそろ帰ろうよ」と妻が言った。

残ったビールを飲み干すと、酒場にいるみんなに挨拶をして店を出た。ホテルはすぐ目の前にあった。

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