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『旅はうまくいかない』⑬

チェコ編⑬「何もないを楽しむ」

どのくらい眠ってしまったのだろう。部屋に戻りシャワーを浴びたあと、ベッドに転がっているうちに眠ってしまっていた。昼間は暑いと感じていた部屋だったが、扇風機を回せばそれほどでもなかった。

小さな窓から見える空はまだ明るかったが、時計を見ると午後八時をまわっている。顔を出してみると、昼間の暑さはそんなにも感じない。むしろ気持ちいい風が吹いているくらいだ。

僕らは貴重品だけを持って、ホテルを出ることにした。ふと見ると、下り坂になっている西側の通りが紫色に染まっていた。美しい夕焼けだった。今日も平和な一日が終わろうとしているのだ。

だが、困ったことになった。僕らはどこかで夕食を、と考えていたが、田舎町は店じまいが早いのか、どこも店を閉じていたからだ。

しばらくウロウロしていると、一軒のワインバーを見つけた。外がテラスになっていて、地元の人たちが楽しそうにワインを飲んでいる。運よく一テーブルだけ空いているではないか。僕らはすぐにその席に腰を落ち着けた。

「この店何時までやってるのかしら」と妻が心配する。入り口の扉を見ると午前零時までと書かれていた。助かった、と僕らは安堵した。

店員の女性に白ワインを注文した。もちろんモラヴィアのワインだ。グラスに口をつけると、フルーティーな香りが鼻腔に広がった。

「このワイン、何杯でも飲めるよ」と僕は言った。

飲みやすいのだ。妻はもっとドライの方がいいと、言ったが、僕にはちょうどよく感じる。辛すぎるよりも、ほどよい甘さがあった方が好みだったからだ。

よかったのはワインだけじゃない。テラスの席は、昼間の暑さをまったく感じさせない爽やかな風が吹いていた。

それにテラスの席の客は誰も騒がない。大人の店なのだ。料理は簡単なつまみしかないようで、みんなワインだけをゆっくりと味わっていた。

すっかりミクロフ城で怒ったことを忘れていた。悪いことが起きれば、次にいいことが待っている。本当にそんな感じがする。

「気持ちいいな、この店」と僕は言った。ずっとこの店で飲んでいられる。この店だけが真っ暗な町の中でぽっかりと光を放っているようだった。

「しかし、本当に何もない町だなぁ」と僕は改めて言った。

だが、それは望んだことだった。都会であるプラハとはまったく違うチェコを見てみたかったのだ。

昼間に町をぶらぶらしたが、平日ということもあって、閉じている店もたくさんあった。もちろん二十四時間営業のコンビニなどはない。客がいないのもあるが、営業時間は働いている人の都合で決まっているようだ。夜は誰だって、家族とゆっくり過ごしたいのだろう。

二十四時間眠らない都会から来た僕らにとっては、拍子抜けしてしまうほどあっさりとした町だった。

キンキンに冷えた白ワインをさらに注文した。どこかで夕食を食べたかったが、この時間では諦めるしかなさそうだ。

だが、僕らには日本から持ってきたカップラーメンがある。それをホテルの部屋で食べればいい。海外に来てまでカップラーメンを食べるなんて、と思うかもしれないが、日頃は感じないほどに、海外ではカップラーメンが美味しくなる。

会計を済ますと、僕らは部屋に戻ることにした。夜の町を散歩したい気持ちもあったが、どこもかしこも暗かった。治安は悪くなさそうだが、油断してはいけない。それに早く部屋に戻って、チキンラーメンを食べたかった。

朝は五時前に目が覚めた。前日にたっぷり昼寝をしてしまったこともあって、一度目が覚めるとそれ以上眠れなかった。ベッドから起き上がって窓の外を見ると、空がゆっくりと目覚めようとしていた。

「もう起きたの?」と妻が言った。
「まだ早いかな、散歩に行きたいんだけど」

一つだけ行きたい場所があった。それは町に寄り添うように存在する小高い丘の頂上にある教会だった。その場所は聖なる丘と呼ばれていた。

前日にも行こうかと考えていたのだが、あまりにも暑くて行く気がしなかった。何しろ丘とはいえ、頂上まで一キロほどあるのだ。普通の人の足でも三十分ほどかかる。

「いいよ、日が昇る前に行こうよ」と妻も賛成してくれた。

すぐに身支度を済ませた。妻は化粧もせずにすっぴんだ。こんな朝早くから人に会うこともないだろう。

ホテルを出ると、思ったとおり、まだ誰も起きていない。静かだった。かすかな鳥のさえずりが聞こえるだけだ。僕らは自分の足音を聞きながら歩いた。

町を五分ほど歩くと、丘の入り口に到着した。ここからは急な坂道になる。ゆっくりと歩いても息が切れる。軽い登山だ。

この道は教会の参道になっているようで、途中には祠のようなものがあった。そのそばのベンチで休んでいる人たちがいた。

どうやら僕らよりも早く来ている人がいるようだ。年配女性の二人組だった。息が苦しいのか、しばらくここで休んでいるらしい。僕らは挨拶をすると、先を急ぐことにした。

しばらく木々の生い茂る道を進むと、急に視界が開けた。頂上まで半分ほどのところだが、遮るものはなく斜面がむき出しになっている。振り返ると、斜面の遥か下にはオレンジ色の屋根をした家々が小さく見える。その向こうには広大な緑が広がっていた。

「あの向こうはすぐにオーストリアだよ」と僕は妻に教えた。

日はまだ上がっていなかったが、僕らはすでに汗ばんでいた。足元が悪く、坂道を登るには注意が必要だった。自己責任なのだろう。特に柵も何もないのだ。

僕らは先を急いだ。思った以上に頂上の教会は遠かった。登ってもさらに道は続いている。そして道はどんどん険しくなっていった。

ゴロゴロした石で作られた階段は歩き辛い。しかし、教会はすぐそこに見えているので、足を止めることはない。あと少し、あとちょっと思いながら、上へ上へと進んでいくしかない。

頂上にたどり着いたときには、すっかり息をきらしていた。タイミングよく、教会の裏側から太陽が顔を出す。逆光になった十字架が澄んでいる空に浮かび上がっていた。一日の始まりとしては最高の景色だった。

振り返ると、眼下に見えるミクロフの町が太陽によって照らされていた。さっきまで暗くしずんでいたオレンジの屋根が、キラキラと輝いている。

「早く起きて正解だったわ」と妻が言う。

今日も妻とずっと一緒だなぁ、とふと思った。旅に出ると、二人でずっと一緒にいることが日常になる。今回も僕がサウナに行ったときを除いてずっと一緒にいるのだ。よく息が詰まらないものだと思う。だが、彼女といても特にそんなことはなかった。不思議なことだ。好き嫌いでは説明できないものがあった。

すでに知り合って十九年も経っている。妻自身のことを好きかどうか、そんなことはもう考えなくなっていた。それよりも僕は、妻と一緒にいる時間が好きだった。理屈抜きに楽しいのだ。

今日も暑くなりそうだった。日が昇りきる前に、町まで下りることにした。先程の途中で休んでいた女性たちとすれ違った。息を切らしていたが、まだ先は長い。到達できるのか心配だ。

そのとき別の女性がひとり、走りながらやってきた。元気な女性だった。急に立ち止まると、僕らに写真を撮ってほしいと言った。僕は彼女から携帯を渡されると、眼下に見えるミクロフの町並と一緒に、彼女を写真に収めた。

今度は彼女が僕らを撮ってくれると言う。僕らは二人で写真を撮ることがほとんどなかったので、ちょっと恥ずかしく思いながら写真を撮ってもらった。

「あなたたち日本から来たの?」と写真を撮ってくれた彼女が言った。

僕はびっくりしていた。チェコに来てから、中国から来たのか、と言われることはあっても、日本からとは言われたことがなかったからだ。

どうして、僕らが日本人だとわかったのだろう。彼女が日本語がわかるとは思えない。その理由を聞こうとしたが、先を急ぐように彼女は頂上に向かって行ってしまった。どうしてわかったのか、僕はそのなぞをずっと引きずったまま、坂道を下っていった。

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