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「ただ行ってみたくて」ポーランド編 最終話

人はみな、生まれ育った国が一番好きなのだ。それは自分の国を離れた者だけが強く感じる、素敵な皮肉だった。


飛行機に乗れば酔い、枕が変われば、眠れない、食べなれない物を口にすれば、お腹を壊す。そんな軟弱者だが、知らない場所には行ってみたい。冒険などではない、旅と呼ぶのもおこがましい、理由などない、ただ行ってみたいだけだ。

今回は、馴染みの薄いポーランドへ。美人に浮かれ、ビールを飲みまくり、料理に舌鼓をうち、アウシュビッツでは考え込む、ひたすら自由でテキトーな8日間の旅行記。

「どこにあるのよ、もう一度聞いてよ」
妻が不機嫌に言う。

迷子になっていた。もうどこをどう歩いているのかも分からない。木々が生い茂り、方向感覚もなくなっている。

「ここは公園と言うよりも森だな」
僕は呆れ声で言った。

軽い気持ちで、広大な敷地面積を持つワジェンキ公園に来てしまった。

ガイドブックによると七十六万平方キロメートル、日比谷公園の5倍の大きさがあるらしい。広さなんてどうでもいい、今知りたいのは公園の詳しい地図だ。だが、ガイドブックには写真と説明があるだけだ。

しばらく歩くと公園の地図があるが、今いったい自分がどこにいるのかもわからない。方角さへ掴めないのだ。

さっき運河があったから、ここら辺にいるの
だろうか、とあってずっぽうに自分の位置を仮定する。

それにしても美しい公園だ。野生の鹿が住んでいると聞いたが、それも納得がいく。

日本の公園と比べてはいけない。まわりには高い建物は一切ない。所々に美術館やカフェなどあるが、ほとんどが木々に囲まれた場所だ。

目印になるものがないから、どっちに向かっているのかも分からない。

僕らの目的地は、ショパンの銅像がある場所だった。

「ウェアーイズ スタチュー オブ ショパン?」

何度も聞いたが、公園が広すぎて、みんな的確に場所を教えることができないようだ。

「あっちに行って、そっちに曲がる」

どこでそっちに曲がるのかと聞いても、目印になるようなものはないらしい。みんな首を傾げる。

仕方ないので、とりあえず、あっちに、進んでみる。

どこで曲がればいいのかわからないので、そこでも誰かに聞く。だが、誰も的確には教えてくれない。

歩き疲れて、妻の機嫌も悪くなるばかりだ。二人ともしばらく沈黙。せっかく気持ちのいい公園に来て、この雰囲気は良くない。

「もういいじゃない、ショパンの像は諦めようよ。それよりも楽しく散歩した方がいいよ」

僕はそう言ったが、妻の返事はない。

いったどこが、そっちなのだろうか、進んでも進んでも、ぜんぜんわからない。

ええい、もういいや、とにかく公園から一度出よう、そう思ってまっすぐに進むことにした。

すると、急に開かれた場所に出た。

「ああ、ここじゃないの、ショパンの像があるところ!」

目の前に池があり、その向こうにショパンの像があった。

やったぁ、という感じでもない。ものすごく巨大なショパンの銅像があるだけだ。ああ、ここかぁ、といった感想が一番適当だった。

「ああ、やっと見つけた」

でも、妻が久しぶりに口を開いてくれたので、ちょっと安心する。やれやれ。

本当なら日曜日に、ここでのショパンコンサートに来るはずだった。しかし生憎の天気で、僕らは仕方なく諦めたのだ。

池のまわりが芝生になっている。ベンチもあるので腰掛けてみる。午後七時半、少し日も陰ってきているので、気持ちがいい。

いいな、ここ。芝生に寝そべるのもいいし、ピクニックをするのもいい。パンに生ハムやチーズをはさんで、赤ワインを飲みながら、一緒に食べるなんてどうだろうか。

正面からショパンの曲の生演奏だ。どんなに素敵な日曜日になったのだろうか。う~ん、残念で仕方がない。

悔しいので、しばらくベンチに座って、ぼ~とすることにした。いいなワルシャワも、そう思うようになっていた。

クラクフに行った後は、ワルシャワの悪口ばかり言っていたが、こんな素敵な公園があるなんて、羨ましいかぎりだ。

ごめんなさい、ワルシャワ。

森の奥にある川の景色などは、どこか近郊の田舎に行ったような風情がある。それを都会でも味わえるなんて、すごい。

ぜひ、鹿にも出会ってみたかったが、こちらの人でも何度も会えるわけではないようだ。

ひっそりと暮らしているのだろう。いいじゃない。奈良公園の鹿とは大違いだ。

空を見上げると青空が広がっていた。もう時刻は午後八時になろうとしているのに。

明日も暑くなるらしい。もう一週間早く夏が来てくれたらよかったのになぁ。

明日はもう日本に帰国する日だ。一週間は長かったようで短い。

旅行は本当にいいなぁ、と思う。日本にいるときの肩書きから離れて、ただの旅人になるのだ。

妻とふたり、子供のように笑い、怒り、呆れ、そして、もう一度自分たちについて考え直す一週間だった。

どうして、ポーランドなんかに行くの?

この答えは最後まで見つけることはできなかったかもしれない。

行く必要も用もないし、待っている人もいない。誰かに勧めることもないかもしれない。

だけど、ポーランドを選んでよかったと思う。

最後の夜、僕らは何を食べようかさんざん迷った。

どこかでビールを一杯っと思っていたが、思ったよりもお腹が空いていたのだ。何かお腹を満たすものも食べたかった。

中華料理店の前で立ち止まった。ショウロンポーがあるらしい。外のテーブルで食べていた女性が、おいしいよ、と教えてくれる。

だが、何かピンと来ない。最後なので、やはりポーランド料理を食べた方がいいのだろうか。

そう思って、ミルクバーに行ったが、そこは本当にポーランド語ばかりで、何を頼んだらいいのかわからなかった。

それにここもピンとこなかった。

ぶらぶら歩いて、バーが並んでいる場所に出たが、入りたいと思う店は、どこも人がいっぱいで入ることができなかった。

ここに来て、どこで何を食べたいのか、まったく分からなくなってしまった。

途方に暮れていると、一つの看板を見つけた。それはベトナム料理屋の看板だった。手書きでセンスのかけらもない看板だったが、僕はなんだか、その素朴さに惹かれた。

すぐに店は見つかった。店は狭く汚かったが、不思議な親しみやすさがあった。

近くのテーブルに着くと、厨房の奥からベトナム人らしい店主が覗く。だが、一向に注文を取りに来ない。

僕は自ら厨房へ向かい、中を覗く。店主は三十代の半ばといったところだろうか。小柄だが、でっぷりと太っていた。

店主は僕の顔を胡散臭そうに見つめた。何か警戒しているみたいだ。

こんな店選ぶんじゃなかったかな。

でも疲れていて、もう歩きたくない。僕はビールを二つ注文した。だが、店主は首を振る。アルコールは置いてないと言うのだ。なんだこの店。

仕方なくコーラを二つ注文した。そしてチキンのフォーとエビチャーハンを頼んだ。

久しぶりにコーラを飲んだ。冷えていて美味しい。子供の頃に戻ったような気分だ。これはこれで悪くない気がする。

チキンのフォーが運ばれてきた。僕らはさんざん本場のベトナムで美味しいフォーを食べているので、がっかりしないか、心配だった。

だが、心配は杞憂に終わった。このチキンのフォーが美味しいのだ。スープにコクがある。どちらかというとハノイの味に近いかもしれない。

妻もすぐに気がついて、うなずく。

「ワルシャワの街の片隅で、こんなに美味しいフォーに出会えるとは思わなかったわ」

次に運ばれてきたエビのチャーハンも美味だ。久しぶりにお米を食べたこともあるが、スプーンが止まらない。

僕らは分け合いながら、黙って勢いよく食べ尽くした。

なんなんだ、この店。僕らが来たときには、一組のカップルしかいなかったが、今はすべてのテーブルが埋まっている。どうやら繁盛店らしい。

「ここが、安くて美味しいのをみんな知ってるのね」

妻は満足そうに言う。

それにしてもポーランドに来ているベトナム人がいるなんて想像もしなかった。

僕は会計のときに、思い切って店主に話しかけることにした。

自分は日本から来た。ベトナムは何度も行っているが、ここのフォーは本当に美味しい。ベトナムはお気に入りの国だ。

そう僕が言うと、急に店主の顔が変わった。最初の警戒していた顔が、急に笑顔になったのだ。それから少しベトナムの話をした。

本当にニコニコ顔だ。彼はセンキュー、センキューと言って、握手を求めてくる。最後には、店の外まで送って手を振ってくれる。

彼がどのような気持ちで、故郷から出てきて、ここポーランドに住んでいるかはわからない。だが、一時も故郷のベトナムのことを忘れたことはなかったのだろう。

彼の笑顔がそれを物語っていた。

人はみな、生まれ育った国が一番好きなのだ。それは自分の国を離れた者だけが知る素敵な皮肉だ。

今回の旅も、もう終わろうとしている。さぁ帰ろう。日本には、平凡でおだやかな日常が待っているのだ。

楽しかったな、ポーランド。そして、サンキュー、ポーランド、いや違うな、ここはポーランド語で、ヂェンクィエン、ポルスカ!これが正解だろう。

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