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『旅はうまくいかない』⑯

チェコ編⑯「またまたトラブル!そして思わぬ出会い」

列の先頭にいるインド人の家族は、かれこれ十五分ほど空港のカウンターにへばりついていた。

せっかく三時間ほど前に空港へ来ているというのに、この分だとどんどん時間がなくなっていく。

カンターの男性はひたすら何かを説明しているが、インド人は首を横に振るばかりだ。

「なにやってんだよ」と僕もイライラしてくる。

ここプラハからモスクワまでの二時間半ばかりの飛行機だ。何をそんなに揉めることがあるのだろうか。まったく理解できなかった。

あのインド人の家族はなにかイチャモンをつけているのかもしれない。このままだと僕らはいつまで経っても荷物を預けて航空券を手にすることができない。

カウンターの職員が左側に手を伸ばし、あちらで話をしてくれ、とインド人の家族に言っているようだ。どうやら奥にアエロフロートの相談窓口があるようだった。渋々といった感じでインド人の家族がそちらに向かった。

よし、これで列もスムーズに流れるだろう。しっかり遅れを取り戻してくれ、と思っていたが、次のインド人の男性も何やらカウンターの職員と揉めている。

どうなってるんだ。その男性も荷物を預けることも航空券を発券されることなく十五分以上もめて、相談窓口送りとなった。

二組ですでに三十分以上の時間を使ってしまっていた。なんでこうインド人はもめるのだろうか。このままだと僕らの順番が来る頃には二時間が経過してしまうことになる。

いい加減にしろよ、インド人、と思っていると、次は日本人の家族らしい。成人した娘さんと高齢の両親の三人がカウンターに並んだ。ここは大丈夫だ、今度こそはスムーズにいくだろう、と思っていたが、そうではなかった。英語が堪能な娘さんがひたすらカウンターの職員と何か話し合っている。

「もしかして飛行機が飛ばないんじゃないの?」とその様子を見ていた妻が言った。

「行きもダメで、帰りもダメなんてことがあるかよ」と僕は言った。

信じらなかった。そんな運の悪いことが二度も続くなんて考えられなかったからだ。

僕らはその日本人の家族の様子をじっと眺めていた。五メートルほど離れているので、何を話しているのかわからないが、相当に娘さんは怒っているのがわかった。十分ほど話すとその家族も相談窓口送りになった。僕はすぐに娘さんの前に飛び出して訊いた。

「いったい何が起こったんですか?飛行機は飛ばないんですか?」

すると三十半ばと思われる知的な美人である娘さんが、優しく僕に教えてくれた。

「ここからの飛行機が二時間ほど遅れてまして、日本行きの便に乗り継げないそうなんです」

それはモスクワでトランジットが二時間半ほどしかない便だ。
「それで、どうなさるんですか?」
「とりあえず、他の飛行機会社の便がないかどうか聞いてみます」
「ああ、それがいいですね。僕らは行きも飛ばなくて、ブリティッシュエアウェイズに変更してもらいましたから」
「そうなんですか、それは災難でしたね」と彼女は言った。「とりあえずあちらの相談窓口でなんとかしてもらうように言ってみます」

家族は仕方ないといった感じで、相談窓口に向かって行った。

「なんか、本当にツイてないわね」と妻が言った。すっかり疲れている様子だ。
「ここに並んでいてもダメかもしれないな。俺は先にあっちの相談窓口に行ってくるよ」
「わかったわ」

すると先に相談窓口で話をした家族がこちらに戻ってきた。手には何やらコピーされた用紙を持っている。

「どうなりました?」
「別の飛行機会社は無理だそうです」
「そうですか、それじゃどうするんですか?」
「モスクワまで行って、明日の同じ時刻の便に乗ることにしました」
「すると、二十四時間モスクワで待つんですね。ホテルはどうなってますか?」
「それが、こちらでは確約できないから、モスクワに行ってから聞いてくれって言うんです」
「そんないい加減な。モスクワはビザがないと、外にも出れないんですよ」
「知ってます。どうなるんでしょうね」
「しかしモスクワまで行くしか…しょうがないですよね。明日もプラハからの飛行機が飛ぶとは限りませんからね」

家族三人はもう一度航空券の発券カウンターに並んだ。僕はすぐに妻にそのことを伝えに戻った。

「仕方ないじゃない、モスクワに行くしか。ここに留まるよりも少しでも前に進んだ方がいいんじゃないの」と妻も言った。

たしかにそうだった。それにあの家族と一緒なら何かあっても心強いと思ったのだ。

「よし、そうしよう。今日中にモスクワまで行こう」

僕はもう一度相談窓口の列に並んだ。やっと自分の順番が来たので、職員にモスクワで二十四時間待つと言った。すると簡単に変更便のコピー用紙を出してくれた。その用紙を持って妻のもとまで帰ってくると、ちょうど家族三人は荷物を預けて、航空券を発券し終わったところだった。

「僕らもモスクワに行くことにしました」僕は娘さんに言った。
「そうですか、それじゃモスクワで一緒ですね。また後でお会いしましょう」
「よろしくお願いします」
「あと、後ろに日本人の男の子がいましたよ。その子も心配そうにしてましたから、もしよかったら声を掛けてあげてください」
「わかりました」と言って僕らは別れた。

しばらくすると、大学生らしき青年が僕らの方にやってきた。たぶん娘さんが言っていたのは彼のことだろう。

「あの日本の方ですよね」と彼は言った。
「災難だったね。それでどうすることにしたの?」
「僕はホテルを取ってもらいました」
「ええ、ホテルを確約できたの?」
「はい」と彼は頷いた。

こんな不公平があるのだろうか、先に行ったあの家族や僕はモスクワでのホテルを確約されてないのだ。

「ちょっと俺、文句を言ってホテルを取ってもらうよ」と僕は妻に言った。

また相談窓口からやり直しだ。僕はつたない英語でなんとか言うと、窓口の職員はわかった、わかった、頷いてパソコンに何かを打ち込んでいる。そして手書きのホテルバウチャーともう一度コピーしなおした用紙を僕に渡した。

「やった!ホテルはマリオットだぞ!」とガッツポーズをした。「これでモスクワで大丈夫だ」

すると青年が何か言いにくそうにしている。
「どうしたの?」
「あの、このホテル、プラハのホテルなんです」と青年は言った。
「ええ、そうなの、てっきりモスクワのホテルだと思ったから」

僕はもう一度手書きのホテルバウチャーをよく見た。確かに、マリオット・プラハと書かれていた。そしてコピー用紙の方を見ると、飛行機は明日のプラハ発になっていた。それも午前十時の発のものだった。

「勘違いしたみたいだ。もう一度変更してもらってくる」
そう言って僕が動きだそうとすると、妻が僕を止めて言った。
「もう、それでいいよ。カウンターも閉じてるし、飛行機も乗れないんじゃないの」

見ると、発券のためのカウンターにはもう誰も並んでいない。

「ごめん、やっちゃった」と僕は妻に謝った。
「いいじゃない。ここに残るのも悪くないわよ」と妻は余裕の表情だった。どうしてだろう、と思っているとその答えがすぐにわかった。

「彼ね、一人旅じゃなくて、一年間チェコに留学してたんだって」

僕が相談窓口に行っている間に、妻が青年と話をしたらしい。急に心がざわざわし出した。これは面白いことになったぞ。旅行の最後にいい人に巡り会えたのだ。何しろ日本語でチェコのことを聞くことができるのだ。

「あの〜本当にすみません。僕が勘違いするようなことを言ってしまって」と青年は謝った。
「いや、いいの、いいの、気にしないで。それよりもこれから一緒に昼ごはんでも食べない?」
「ああ、はい。よろしくお願いします。ミルクーポンもありますしね」
「ミルクーポン?それもらってないよ」

ミルクーポンは空港のレストランで使用できるものだ。遅延したときなどには航空会社から食事代として渡されるはずのものだった。

どうやらこちらから言わないと貰えないらしい。それなら言ってやろうじゃないか、と僕が動き出そうとすると、青年はすぐ近くにいたカウンターの女性に英語で事情を説明してくれた。女性は、わかった、と言って相談窓口の方へ消えていく。

だが、しばらく待っても彼女は戻って来ない。面倒くさくなってしまったのかもしれない。すると青年は他の職員に強く抗議した。あの彼女は出してくれるって約束したよ、と言う。すると渋々といった感じで、男性の職員が、僕らにミルクーポンを出してくれた。彼はなんて頼りになる男なんだろう。

「ありがとう。君のおかげで助かったよ。僕らだけだったら、きっとミルクーポンはもらえなかったと思う」と僕は言った。

「ねぇ、お名前はなんて言うの?」と妻が訊いた。

すると、彼は韓国の名前を言った。正確に言うと苗字は韓国名だが、名前は日本名だった。その訳を訊くと、父親が韓国人で母親が日本人だと教えてくれた。これはまたおもしくなってきた。僕の心がさらにゾワゾワしたことは言うまでもない。

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