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『旅はうまくいかない⑦』

チェコの旅⑦「ミュシャのステンドグラスよりも美しいもの」

飛行機に乗れば酔い、枕が変われば、眠れない、食べなれない物を口にすれば、お腹を壊す。そんな軟弱者だが、知らない場所には行ってみたい。

今回はチェコのプラハと田舎町ミクロフへ。チェコビールを飲みまくり、混浴サウナにドギマギし、熱波のヨーロッパにヘキエキする。旅はうまくいかない方が面白い。チェコ八日間の旅。

どうしても切符が買えなかった。

僕らはトラムを乗るために近くの地下鉄の駅にきていた。そこにある自販機で切符を買おうと思っていたのだ。

小銭を持っていないので、キャッシュカードを使おうとしたが、投入しても何の反応もしない。入れ方が間違っているのだろうか。

僕らが困っていると、隣の自販機で切符を買っていたチェコ人の女性が、カードの入れ方を教えてくれる。だが、その様にやってもカードは反応しない。

すると今度は後ろから中年の女性が顔をだしてきて、カードを見せて、と言う。どうやらクレジットカードでも何やら種類が違うらしい。確かに店で支払うときも、現地の人はカードを機械にかざすだけでいいが、僕のカードはしっかり機械に差し込まなくてはいけないものだった。

自販機で買えないとなると、窓口で買うしかない。先程の中年の女性が、チェコ語で、ここで待ってて、と言うニュアンスのことを言った。もちろんチェコ語はわからないので、たぶんそんな感じというところだ。

見ると、中年の女性は閉まっている窓口を開けてもらい、僕らが切符を買いたがっていると伝えてくれているようだ。だが駅員は、この時間はダメだ、と言っている。

すると次に女性は、私について来て、と言うではないか。もちろんこれもチェコ語だから、ニュアンスということだが。

どうやら彼女は英語は話せないが、僕らのために切符を売っている場所まで連れて行ってくれるらしい。

するとそこは駅のキオスクのような店だった。そこでも中年の女性は店員に声をかけてくれる。僕らは、一日乗車券を二枚ほしい、と言った。

その間、中年の女性はずっと待っていてくれた。きっと通勤の時間で忙しいはずだ。それなのにどこまでも僕らの世話を焼いてくれるようだ。

実に単純なことだが、こんな現地の人のやさしさに触れると、その国が一気に好きになってしまう。

中年の女性は、僕らのことを息子か娘のように思っているのか、切符が買えると、よかったね、と抱きしめてくれる。

たぶん僕らの年齢を聞いたらびっくりするだろう。たぶんそんなに変わらない年齢のはずだ。でも、それは黙っておくことにした。とにかくチェコのママといった雰囲気の彼女はどこまでも優しく、どこまでも親切だった。

こんな些細なことだが、旅で優しさに触れると急に心が和む。僕らは感謝の気持ちを表すようにもう一度彼女を抱きしめた。

いい旅をするのよ、気をつけてね、といったニュアンスのことを言ってくれているのだろう。もう言葉ができないことは関係ない。ようはハートとハートの問題だった。

時刻は午前八時半になっていた。彼女は忙しい中、三十分ほど僕らに付き合ってくれたことになる。もう感謝しかない。

コーヒーでも一杯どうですか?と言いたいところだが、彼女も忙しそうだし、僕らだって九時までにプラハ城に行く予定があった。ありがとう、と言って別れた。

今回の旅はうまくいかないことがあると、必ず誰かが助けてくれる。これは幸運なことだった。

それにしても僕らとチェコ人との相性はいい。どこへ行っても彼らは声をかけてくれるからだ。まだチェコに来て三日目だと言うのに、四人から声をかけられていた。

去年のポーランドではそんなことはなかったから、チェコ人は思ったよりもオープンな性格なのかもしれない。

なんとか一日乗車券も手にはいったので、トラムに乗り込むことにした。この国で初めて乗る公共機関の乗り物だった。一日乗車券は五百円ほどだ。このチケットを買えば、地下鉄もトラムも乗り放題だ。日本と違うのはその日一日の利用ではなく、明日のこの時間まで、つまり二十四時間使い放題だった。

トラムに乗るとすぐに刻印機に切符をとおした。すぐに日付と時間が刻印される。こうしておかないと検札が来たときに、罰金を取られてしまう。つまり切符を持っているだけではダメということだ。

だが、本当に検札が来るのかどうかは疑問だった。僕らがプラハにいる間に何度かトラムを利用したが、一度も検札に来なかったからだ。地元の人は定期を持っているのだろうか。よくわからないが、ただで乗っても差し障りないようにも感じる。

地下鉄でもそうだ。改札口など一切ないので、切符を持っていなくても乗ることはできる。
これは性善説に則ってルールが決められているのだろうか。それともただ単に人件費の削減なのだろうか。そこのところはよくわからないが、切符を買って乗るのがバカバカしく感じる雰囲気はあった。だから逆に検札が来てくれないか、と思ってしまうほどだ。

「これってタダ乗りする人が絶対にいるよね」と妻が言う。

でも僕らがタダ乗りすることはないだろう。もし切符を買わずに乗ったら、いつ検札が来るのかと、気が気ではないからだ。安心のために正直に切符を買っておきたかった。僕らはどこまでも真面目な日本人だ。

ヴルタヴァ川を渡り、知らない道をトラムが走っていく。景色が気になるが、降りる駅を間違えてはいけないと、止まるたびに場所を確認する。

車内をよく見ると、ちゃんと次の駅が電光掲示板で表示されるようになっている。それに気がつくと一安心した。

プラハ城に向かって坂道をどんどん登っていくようだ。一番高い場所にプラハ城は建っていた。

みんな同じようにプラハ城へ向かうらしい。手には地図やガイドブックを持っている。ここで初めて日本人に出会った。それも個人で旅行しているようだ。団体旅行がほとんどなので、会うことはないと思っていたが、僕らのように個人で旅行している人たちがいることが嬉しかった。

だが、用もないのに、同じ日本人と言うだけで声をかけたりはしない。それはお互い一緒で、意識はしているが、近づいたりはしない。

プラハ城は流石に立派だった。どんどん近づいていくたびに、その存在が大きくなっていく。時計を見るとすでに午前九時をまわっていた。急がないと観光客がどんどん増えてしまう。

僕らはすぐに入場券を買い、最初の見学地である聖ヴィート大聖堂にむかった。16世紀に建てられたゴシック建築の大聖堂はこのプラハ城の中でも目玉の建物だ。

わざとそのように作ってあるのだろう。大聖堂は中庭から遠くにのぞむことはできない。その間に建物があり、その姿を見せないのだ。僕らは遮っている建物をくぐり、改めてまじかに大聖堂を拝むことになる。距離が近いだけに、その迫力は凄まじい。

これは凄いと思わずにはいられない。遠目に見ることができないので、目の前に迫る迫力が倍増するのだ。

計算された演出が施されていた。距離が近すぎて僕らは神の館を見上げることしかできないのだ。

これだけでも来た甲斐があったと言うものだ。本来なら観光地には寄りつかない僕らだったが、この大聖堂だけは見ておきたかった。その理由は建物の中にあった。

運良く、建物に中に入る列は短った。これなら五分もすれば入ることができるだろう。早めに来てよかった。

中に入るとこれまで見たこともないようなステンドグラスが並んでいる。これはすごい。特にその数あるステンドグラスの中でも、もっとも有名なのはミュシャのものだ。

以前日本でミュシャの展覧会に行ったことがあったが、このステンドグラスだけは、ここに来なければ見られないものだ。これこそ僕らがここに来た理由だった。

その大きさに圧倒されるのもあったが、色彩の美しさ、それも青い色の使い方とても印象に残った。

外からの光で浮かび上がる絵は、自然の力によって一層輝いて見えた。

僕は写真を撮るのも忘れてじっとそのステンドグラスを見つめた。

久しぶりに圧倒された気分だった。声が出なかった。宗教心のない僕には、キリスト教の偉大さよりも芸術の偉大さを感じずにはいられない。

入る前は、千五百円ほどする入場料に不満を抱いていたが、さにあらずである。これだけを見るためだけに支払っても惜しくないように思えた。

だが、この美しい建物も、ここに来るまでに助けてくれたチェコ人のママには勝てなかった。
大切な物は目に見えない、と作家のサン・テクジュペリが言ったように、どんなに偉大な芸術も僕らにとっては、旅で出会う人々の優しさには勝てない。

やはり僕らの旅の醍醐味は観光地にはないのだろう。学生時代に行った修学旅行と同じだ。どこで何を見たかをまったく記憶していないのだ。

ミュシャのステンドグラスの美しさはすぐに忘れてしまうが、チェコのママに抱きしめられた感触とその優しさはいつまでも僕の心に残っていることだろう。

困っている人がいたら助ける。そんな単純で分かりきっていることを、いつも遠くに来て再確認させられる。

旅はいいものである。これも分かりきったことだった。

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