モオツァルト・無常という事

『無常ということ』だいぶ前に読んで記憶が曖昧ですけど、間違っていたら後で修正します。

この本、確か大学の同級生から渡されたんだよね。私は宮沢賢治と同様、法華経信仰に大学時代は邁進していて、物理学科なのにね笑。

でも、私の仏教学の師匠の植木雅俊博士も大学は物理学なんですよね。
植木さんは「私にとって、ブツリのブツは物ではなく、仏と書きます」と説明しているそうです。

まあ、そういうことで、同級生も仏教かぶれに呆れていたと思うのですが、この本の『無常ということ』は深いですよ。仏教というと一般的には平家物語の諸行無常とか、一切皆苦とか諦念的な印象ですが、無常という言葉には本来そんな意味はないんですよね。そこを小林秀雄は書いていて感銘を受けました。

日本の仏教は禅宗みたいに謎めいた儀式仏教(葬式の儀式とか。でも鎌倉時代の僧はろくに字も読めなくて、逆さまに経本を、開いていたとか笑)になっていますが、本来そうではないんです。原始仏教を読むと、ソクラテスの産婆術のように、釈尊は人々に語りかけて、道理で話しているんですよね。唯我独尊とかでは全然ない。みな友よと語りかけている。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

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