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極度の自己嫌悪の先にあったもの


ネガテイブな感情を、人は嫌う。

怒り
嫉妬
自己嫌悪
罪悪感
絶望

などがネガテイブ感情だと思うけど、誰だってこんな思いはしたくはない。

いつでもハッピーでいたいし、自己肯定感も上げていたい。
ただ、いつも思うのは「人間幸せな時は、何も考えてない」ことが多いな、ということ。

ただただこの幸せがずっと続くと思ってしまうし、これが当たり前だとさえ思ってしまう。
私自身もそうだ。

やがて感謝もなくなり、
自分の思う通りにいかないと、苦しむことになる。
ここで、ネガテイブな感情が登場するのだけど、これを悪いことだと思う人が多いと思う。もちろん私もそう思っていた。

そしてネガテイブ感情は悪いことだと思った瞬間に、この感情を押さえ込む。
無意識に。
そして押さえ込んでいる事さえも気づかないことがある。

以前の私はそうだった。

本来ならば怒っていいことを、「仕方がない」と思ったり、そのまま関係性を続けていた。
今考えてみれば、「怒って良かったんだよ」と言える自分がいる。
怒りは、自分が嫌いなことを知るチャンスなのだから。

ここ最近このネガテイブ感情の中で、「利用した」ネガテイブな感情が、「自己嫌悪」だった。それも極度の自己嫌悪。

2020年の頃、自分自身に、そして自分の生き方にも突然不信感を持った。
不信感から、自己嫌悪に陥るのにはあっという間だった。

軸が揺らいだのだろうと今は思う。

でも自分を徹底して嫌いになれたから、その感情を押さえ込まなかったから、私は「目が覚めた」のだ。

我慢している自分も
無理している自分も
頑張りすぎている自分も
全部捨てていいと、思えるようになった。

頑張りたい人は頑張ればいいし、頑張る時期ってあると思うが、今の私にはいらないものになっていることに気づいた。

自分を徹底して嫌いだという感情があったから、自分にとって必要無くなったものをどんどん捨てることができたのだと思う。

人間関係

習慣

などを捨てた。
変えた。

結局それが今自分が感じていることに、敏感に気づくきっかけになったのだと思う。身軽になったから感じられるようになった。
よろいを着たような状態では、鈍感になって感じるセンサーが鈍るのだと思う。

自己嫌悪感は、自分を変えるチャンス。
意味があるんだよね、この感情に。
だからそのまま認めて受け入れ、自己嫌悪感と仲良く共存してもいいし、
これを変えたければ他のことで幸福感を得てれば、やがて見えてくる。
自分が変わりたい方向が。

だから自分を嫌いになっても大丈夫。
無理に自己肯定感を上げようなんて思わなくていい。
安心して、自分を嫌いになっていい。
だってその後には変化が待っているから。

極度の自己嫌悪感の先にあったものは、「変化」だった。


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