見出し画像

顔をみないで話すということ

朗報すぎるお話しがあるのです。
何度題にしたかわからないお父さんと、きちんと話をすることができました。

こちらへ両親が遊びにきて、わたしがお風呂からでるとその気配で目が覚めたお父さん。ちょうど24時。真っ暗だけど椅子に座って、お互いの表情が見えない状態で話し始めた。

お父さんは娘二人がいなくなった後、お母さんと何度も話をしたりしながら、お父さん自身の苦しさと私の苦しさとを理解しようと頑張っていたようだ。お母さんから聞いてはいたけど本当だった。

お父さんは私のことはそこまで悩んでいなかった。父親は嫌われるものだからという大雑把な理解でみないフリをしていたのかもしれない。

私との思い出は、運動会での感謝の言葉、夜中のお絵かき、氷をぱくぱく食べる、そんな楽しそうな私でいっぱいだと、そう言った。

お父さんとの思い出は、私の食べ方を何度も注意したり、キレたり、モノに八つ当たりする怖いお父さんでいっぱいで、それを忘れていくもんだから許せなかった。

でも、お父さん自身が幼少期に感じていた息苦しさが私にもあったことをあの夜、認めてくれた。

「僕はやり過ぎたのかもしれん」、「それは苦しかったやろうな」

あの夜の言葉がどんなに私を救ったか、お父さんはわかるかなぁ。

「苦しい思いをした私がいた」それを認めてくれた。純粋で繊細なあの頃の小さな私を見付けてくれた。

お父さんの若かりし頃の荒れを写真でみていると本当に父として丸くなったんだなと感じたんだよ。それ知らなくても感謝の気持ちはいっつもあるよ。

今日から嫌なことは嫌だと言わせてね。
大好きだよ!!お父さん。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?