白黒つけられない私たち

世の中には、正論ってものがあります。当たり前であって正しいとされること。論理的に整合性がついているもの。

まあ今みたいにいろんな情報が錯綜していて、見方によっては正しかったりそうじゃなかったりするものもありますが、それは各々の判断に任せましょう。選び取る自由は保証した上でです。

「正しい」って簡単なようで実行するのは難しくて、分かっていてもつい疎かになったり、失敗したりします。自分もそういうことばっかりなので、人の振り見て我が振り直せーって意識はしています。しかし、いやこれどう見てもおかしいだろって時についイライラしてしまう。

日本的なのかもしれないけど、立場とか年齢という枠を超えて指摘することが出来ない。昔からの慣習を変えられない。また、個人の性質を決めつけてしまい、それを理由に諦めてしまう。うまく回らなくなるのに。指摘してもらった方がその人にとっても皆にとっても良いはずなのになー。

「この人だから仕方ない」・「前からそうだから仕方ない」。いや、仕方なくないでしょう。性格は個人によるもので、合う合わないがある。向いてることもあればそうでないこともある。ある程度の基準は必要だけど、適材適所でみんなが得意分野で力を発揮できれば、1+1=2じゃなくて、3にも10にもなると思います。以前のやり方はその時に考えられたもの。時は流れて状況は常に変化します。今にあったやり方に変えることに何の違和感もない。

でも、白黒はっきりつけてやるっていう決断はやっぱり難しい。しがらみはどこの世界にもあるし、経済が流れていく中で力関係が働くことはある。これが日本で回る資本主義社会。よく言えば安定的だけど、悪く言えば停滞していることに気付いても何ともしがたい変な状況。

自分は別に間違いに対して自分が悪いと指摘されることに抵抗が全くないんですよね。確かに性格的に合わない人に言われたり、普段だらしない人に言われたりすると、「お前にいわれたくないわ!」って思うこともあるし、テンション下がっている時には腹立つこともある。でも、それとこれとは別。むしろ指摘してくれるとありがたい。

でも、「おれはどうあってもこれだけは曲げない」っていう強い意志を持っていたりすると、逆に周りが見えなくなることがある。信念信条と、実際にどう動くのが良いかは、別の問題かなと。白黒つけられた方が楽じゃないですかね?だって、考えてみるともっとよくなるんだよ?その方がいいに決まってるじゃん。

効率を求めすぎて人情忘れるのは良くない。けど、もっといいやり方をあえてやらないのはもっと良くない。みんなで楽しく幸せにやるためには、時々言いにくいことでも言わなきゃいけないし、言われなきゃいけない。

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