アニメ主題歌の歴史、超圧縮版(再録)

 ファンの組織票でオリコン1位になった曲が、翌週にはチャートから消えていく。ファン以外誰も知らないベストセラーが量産されてる現在。部活帰りに寄るカラオケも、学年が1年違えばもう誰もいっしょに歌えない。「残酷な天使のテーゼ」(95年)が毎年カラオケランキング1位になるのは、かつての流行歌に変わってアニソンが、世代を超えたベストセラーとなってる証なのだ。

 アニソンは国産連続テレビアニメ第1号『鉄腕アトム』(63年)から始まった。その歴史もちょっと変わっている。アニメーターの賃金が安い理由は、このとき手塚治虫が安い制作費で引き受けたからという有名な逸話がある。だが代わりにキャラクターなどの版権料で不足分を補う、ディズニー方式を手塚は導入。シール付きチョコレート菓子は大ヒットとなり、不足分をまかなうのに十分な利益がもたらされた。現在も「アニメ制作会社の収益の7割がマーチャンダイズ収入」と言われるほど。局から入る放送権料などたかが知れてるのだ。

 昔は映像を作るまでがアニメ制作会社の仕事。放送局が準社員としてラジオ劇団を雇用していた時代の流れで、吹替はもっぱらテレビ局が制作を行っていた。しかしクラシックなど音楽に造詣が深い手塚ゆえ、音楽の部分だけは虫プロが指揮を執った。まだ子供番組の歌をレコード化する慣例はなく、フォノシートを付けた絵本として出版社から発売されていた。書店数とレコード店数の比率は当時10:1とも言われており、フォノシート付きのアトム主題歌本も目論見通り100万冊を売る大ヒットになる。主題歌の音楽出版をレコード会社と縁の浅い、アニメ制作会社の系列会社が持つ、今なお続く慣例はそれに倣ったもの。60年代は売れっ子作詞家はレコード会社と専属契約を結んでいたため依頼できず、アニソンではタツノコプロをはじめ制作会社の文芸部員が、素人ながら積極的にユニークな歌詞を書いた。これもフォノシート、レコードのヒットから会社に入る著作権料で、アニメ制作費の不足を補填する目的だったと言われている。

 公式にアニソンがレコード化された最初の作品は、同じ手塚治虫原作の『ジャングル大帝』(65年)。日本コロムビアの木村英俊はレコード会社のディレクターのプライドをかけて口説き落とし、あの冨田勲の荘厳なスコアをレコーディング。アニソン初のLPレコードに選ばれた同作は、後に芸術祭奨励賞の栄誉を受けた。木村はその後、同社のアニソン路線を軌道に乗せ、『宇宙戦艦ヤマト』(74年)『キャンディキャンディ』(76年)などを大ヒットさせる。『アルプスの少女ハイジ』(74年)の主題歌の冒頭のヨーデルも、スイスまで出向いて現地録音されたもの。アニソン初の海外録音は、伊集加代子が歌って120万枚のベストセラーとなった。また木村のもっとも知られる偉業は、ささきいさお、水木一郎、堀江美都子などのアニソン専門歌手を育てあげたことだろう。以前『ジャングル大帝』の主題歌「進め!レオ」で同社の大物歌手、弘田三枝子を起用したが、子供たちがリクエストをねだっても弘田が子供向けの音楽を歌いたがらなかったことが、アニメ専門歌手を育てるきっかけになったと自伝本で語っている。

 こうした70年代に栄華を誇ったアニソン=日本コロムビアに代わって、80年代に台頭したのがキングレコード。東映動画に対して、本家東映が制作していたアニメ傍流作品の下請け会社だった、元虫プロのOBらが設立したサンライズ制作の『機動戦士ガンダム』(79年)のサウンドトラック盤を手掛ける。視聴率不振で終わったものの、再放送ブームとの相乗効果で大ヒットを記録し、続編のガンダム盤が数多く作られた。これをきっかけに、アニソン専科のスターチャイルドレーベルを発足。声優ともアーティスト契約し、アニメと独立したオリジナルアルバムを10万枚以上セールス。今日の声優ブームの基礎を作った。

 もっともキングレコードは、コロムビアに先駆けるタイアップの先駆。日本初の連続テレビ映画『月光仮面』(58年)で、音楽制作費を全額負担する条件で出した主題歌が10万枚のヒット。制作会社の宣弘社との関係はその後も続き、『豹の眼』(59年)に三船浩、『怪傑ハリマオ』(60年)に三橋美智也、『隠密剣士』(62年)にボニージャックスと、自社の歌手を起用して子供番組タイアップというヒットの鉱脈を開拓した。ディレクターはNHK『みんなのうた』の初期の大半の曲を手掛けたことで知られる、後の音楽評論家、長田暁二。キングレコードのタイアップの伝統はその後、AKB48、ももいろクローバーZなどのアイドルに繋がっていく。

 70年代に入ると、それまでの歌番組に代わって、テレビ主題歌、ラジオの深夜放送からポツポツとヒットが表れた。71年の著作権法改正をきっかけに、放送局が傘下に音楽出版社を設立。自社の番組に管理楽曲を使えば、それが必ずヒットした。英米では独占禁止法で放送局が音楽出版社を持つことは禁じられているが、日本では先進国で唯一例外として認められており、それが世界に名だたるタイアップ王国となった理由と言われている。それまで蜜月関係にあったフジテレビと日本コロムビアだが、260万枚を売った「ピンポンパン体操」(71年)などのヒット曲を、別のグループ会社に渡してしまうのはもったいない。フジテレビは80年代より自社系列化を強化し、『赤毛のアン』(79年)まで日本コロムビアの虎の子だった日曜7時半の日本アニメーション枠を、系列のキャニオンレコードに発売元を移す。アニメ専門歌手を持たなかった同社は、『北斗の拳』(84年)にクリスタルキング、『タッチ』(85年)に岩崎良美ら一般歌手を起用しいずれもヒット。子供向けと思われていたアニメが、ヤング層にも影響を持っていたことを証明してみせた。

 民放テレビの番組から生まれた企画ものの曲は扱わない不文律があったNHKの紅白歌合戦も時勢には抗えず。テレビ東京系のオーディション番組から生まれたモーニング娘。と、日本テレビのバラエティ番組で結成されたポケットビスケッツとブラックビスケッツが、第49回(98年)に起用されたことでくびきから説かれ、一時はほとんどがタイアップ曲となった。

 昭和の風物詩だった、ヒーローの必殺技やヒロインの名前が織り込まれたアニソンが作られなくなって久しい。現在の「番組内容と歌詞がまったく関係ないアニソン」が生まれる、分水嶺となった作品が『うる星やつら』(81年)と言われている。制作会社はレコード会社、キティレコードの傘下のキティフィルム。角川映画のような新潮流として『太陽を盗んだ男』などの傑作映画を作ったが、村上龍監督作品などで大赤字に。社員の落合茂一が小池一夫率いる劇画村塾の後輩だった高橋留美子『うる星やつら』の映像化権を獲得し、まったく門外漢だったアニメの世界へ。小林泉美、高中正義、ヴァージンVS(あがた森魚)ら自社アーティストを起用して、アニソン業界に新風を注ぎ込んだ。アニメ界でまったくキャリアのなかった、当時高中正義のバンドにいた小林泉美には、『さすがの猿飛』(82年)『ストップ!! ひばりくん!』(83年)などライバル会社からも注文が殺到したほど。同社はその後も『みゆき』(83年)主題歌、H2O「想い出がいっぱい」などを同手法でヒットさせた。

 かつてのアニソンのはしり『サザエさん』の2番の歌詞で、1階建ての磯野家で「2階の窓をあけたらね」という歌詞を書いたのが、フジテレビ社員だった林春生。アルバイトで書いたこの曲も、設定間違いはご愛敬。時代を超えて視聴者に愛される名曲となった。

 深夜番組のCMに積極的に曲を流し、90年代にタイアップ商法で名を馳せた、B'z、ZARDなどの事務所として知られるビーイングも、「おどるポンポコリン」(90年)や『名探偵コナン』(96年)などのアニソンに、自社の無名歌手を起用する手法で一躍有名になった。元はミュージシャン派遣業の傍ら、ディスコなどの企画レコードを作っていた小さい会社だが、アニソンへの参加は創業時から。その時代のロックのレコードは売れても数万止まり。金子マリ&バックスバニー、マライア、BOOWYら所属アーティストは、レコード会社の企画モノの一貫として、クレジットを出さないアニソン制作で糊口を凌いでいた。第1次アニメブームのとき作られた『太陽の使者 鉄人28号』『鉄腕アトム』(ともに80年)というライバル関係にあるリメイク作品も、テイチク、フォーライフとレコード会社は違うがいずれも音楽制作はビーイング。前者の主題歌を歌うギミックはマライアの変名(覆面ヴォーカルは、後にKUWATA BANDでデビューする河内淳平)、後者ではBOOWYの氷室京介が本名をもじって、アトラス寺西の名前で挿入歌を歌っている。『魔法の天使クリィミーマミ』(83年)に始まるぴえろ魔法少女シリーズになると、音楽制作のみならず、太田貴子、小幡洋子などの自社タレントを声優デビューさせ、今日に至るアイドル声優の先鞭を付けた。

 こうしたビーイングのタイアップ手法は、同社のジャケットデザイン担当でビジュアルに造詣が深い、後に独立してZIGGY、LINDBERGなどをデビューさせる副社長の月光恵亮のアイデア。新人歌手をクールごとに入れ替える『名探偵コナン』のタイアップ商法も、月光が始めた手法をビーイングが引き継いだものだった。ここに至ってアニソンは、歌詞が本編とまったく関係なくても許される時代に突入していく。その少々荒っぽいタイアップ商法は、B'z、ZARDなども関わりが深い『ミュージック・ステーション』の制作会社、テレビ朝日ミュージックに手法として受け継がれ、放送局系列の音楽出版社としては後発ながら、ロックバンド、一般歌手を積極的にアニソンに起用して、ヒットの常道に育てていく。

 ビーイングに続いたのが、自社で音楽出版も手掛けるエピック・ソニー。79年に日本初のロックレーベルとして誕生した同社も、歌番組出演よりアニメなどのニューメディアに力を入れた。実力ありながら人気がくすぶっていたTM NETWORKを『シティーハンター』(87年)に起用し、「Get Wild」のヒットが彼らの本格ブレイクのきっかけとなる。サンライズ作品の主題歌はエピック・ソニー枠と言われ、小比類巻かほる、大沢誉志幸などがそれに続いた。そうした、流行歌手がアニソンの可能性を見出した結果、アニソンタイアップこそが歌手やバンドにとって、ヒットの早道と言われる時代になった。

(キーボードマガジン2019年秋号、アニソン特集より再録)

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