オルタナティヴ界のA&M=ZEレコードの軌跡(再録)

カタログのカオス性、それがZEの可能性を物語る

 70年代末〜80年代半ばにかけて、ニューヨークを拠点に各地の先端の才能をつないでいた「ZEレーベル」。マイケル・ジルカ(イギリス系)とミシェル・エステバン(フランス系)という2人の創業者の頭文字から命名されたZEは、いわば「オルタナティヴ界のA&M」。だが、制作と実務のエキスパートが合体したハーブ・アルパート&ジェリー・モスとは違い、2人はともに制作者としてレーベルの両輪を受け持った。ざっくりと言えば、ジルカはノー・ウェーヴを中心としたNYのアンダーグラウンド勢を引き込む役回りを、エステバンはフランス人脈と交流させてワールド・ミュージックへの可能性を切り開いた。実はレーベル初期の看板だったクリスティーナとリジー・メルシエ・デクルー2人の女性シンガーは、ジルカとエステバンそれぞれのガールフレンド。彼女らは知性と美貌を武器にして、2大歌姫としてレーベル・イメージを牽引していた。

 設立30周年を記念して、2009年末より日本のP-ヴァインが企画した、ZEレーベルの主要作品のリイシューがスタートしている。カジノ・ミュージック『ジャングル・ラヴ』、リジー・メルシエ・デクルー『ワン・フォー・ザ・ソウル』など、世界初CD化タイトルも含む。実はこうして網羅的にZEのカタログが整理されるのは、ある意味初めて。アイランドを主たる販売ルートとしながら、マーキュリー、エレクトラ、ポリグラムなど、作品やアーティストごとにディストリビューターを変えていたZEは原盤制作元のような存在で、レーベルの認知度はそれほど高くはない。ファンを自任していた筆者でさえ、全貌がわかったのは詳細なライナーノーツを載せた、復刻盤のインポートCDが出回るようになった今世紀になってからだ。日本初上陸のころは、ZEの主要引き受け先だったアイランドと契約していた東芝EMIがキッド・クレオール&ザ・ココナッツ、クリスティーナらを、もう一人の看板だったリジーは日本コロムビアがリリース。79年の最初のレーベル・コンピ『MUTANT DISCO』は、CBS・ソニーと契約していたマテリアル「Bustin' Out」が収録された関係からかリリース未遂に終わり、アイランドの移籍先となったポリスターから後年に出た、2枚のベスト盤『ZETROSPECTIVE(ベスト・オブZEレコード)』がレーベル名を冠した本邦初のレーベルガイドになった。しかしここにはリジーら主要アーティストが含まれておらず、ZEの全貌を伝えていたとは言いがたい。

 一時的にZEを離れていたエステバンが作った、ITレコードから出ていた『マンボ・ナッソー』(リジー・メルシエ・デクルー)が、復刻に際してZEのカタログとして扱われており、このあたりは2004年にレーベルを復活させた主役である、ミシェル・エステバンの采配なのだろう。おそらく配給元との共同原盤のようなカタチで権利の散らばっていた2人の制作物を、ZEレーベルの旗の下、ミシェルの尽力によってカタログを通し番号で復刻するというのが、復活した新生ZEレーベルに託されたミッションのようだ。

 えーと、なにゆえにこんな間違い探しのような話をちまちま書いてるかというと、インターネットのなかった80年代初頭の日本の洋楽シーンというのは、それほど未分化だったのだ。そんな中から、わずかな情報をジグソーパズルのピースのように組み合わせて、ZEのような個性派レーベルの存在を発見していったのである。最初からそれが、こうしてアーカイヴスとしてまとめられているネット時代の幸福を、どうか深く噛みしめて読んでくだされ。

『NO NEWYORK』のストーリーの続きを描いたレーベル

 肝心のレーベルの特徴を紹介するのが後回しになってしまった。70年代末のニューヨークのCBGB周辺のドキュメントとして、日本でも人気の高い『NO NEW YORK』というコンピレーション盤がある(ジェームス・チャンス&コントーションズ、リディア・ランチ&ティーンエイジ・ジーザズ・アンド・ザ・ジェークス、DNA、マーズ4組のオムニバス)。ブライアン・イーノがトーキング・ヘッズ『フィア・オブ・ミュージック』の録音のためにNYに訪れた際、たまたま目撃したストリートシーンの胎動を収めた、一回こっきりのこのオムニバスの続きの物語を書いたのがZEレーベルであった。先のVAに収録されていたリディア・ランチ、ジェームス・チャンスを契約アーティストに迎え、スーサイドのアラン・ヴェガや、関わりの深かったジョン・ケイルのソロ・アルバムをリリースするなど、NY周辺にたむろする“ポスト・ベルベット・アンダーグラウンド”的才能がここに結集していた。テレヴィジョン、トーキング・ヘッズ、ラウンジ・リザーズらと同時代を生きたレーベルであり、マスコミは彼らポスト・パンク的存在を総称して“ノー・ウェーヴ”と呼んだ。すでにジム・ジャームッシュ映画の常連として、エスタブリッシュな存在だったジョン・ルーリーやトーキング・ヘッズらと、あまりに技巧の拙いZEレーベルの面々ではいくぶん階層は違うだろうが、ニューヨークは東京よりはるかにせまい街。ゲストとしてアート・リンゼイ(ラウンジ・リザーズ)がリジーのアルバムにひょっこり顔を出していたりと、レコード外も含めればアーティスト間には活発な交流があったようだ。

 ミシェル・エステバンは彼らの音楽性を説明するのに、「ノー・ウェーブではなくソー・ウェーヴ」という言葉を用いているが、これは方便のようなものだろう。しかし2人は他のノー・ウェーヴのアーティストのように、貧困生活の中で自らの芸術性を育てていたようなダウンタウンの住人ではなかった。イギリスの資産家の息子で『ヴィレッジ・ボイス』の劇評家だったジルカと、パリで『ROCK NEWS』というパンク専門のミニコミを発行していたミシェルは、ともにジャーナリストとしてこの都市に訪れ、NYのアンダーグラウンドな音楽に関心を持った。異邦人的な客観的視点でその面白さを捉え、ZEのカタログをインディーズにこだわらず、積極的にメジャーの販路に乗せる方法で世界的に広めていった。後に名盤と呼ばれるようになることなどつゆ知らず、わずかな録音予算で数日間で仕上げ、所属していたアイランドの傘下レーベルから『NO NEW YORK』をリリースした、イーノのスタンスに近かったのかもしれない。ディレッタント、いわば遊び人のような感覚で、同時代の音楽シーンを切り取って作品化していたのがZEレーベルなのだ。その歩みを振り返れば、彼らが早くからパンク>ディスコへと方向性を変えていった理由も明白。慎ましさよりも、夜ごと繰り広げられるパーティー社会の狂騒を好んだ。彼らの享楽的ともいえるスタンス、シーンとの適度な距離感があったことが、ZEに単なるパンクレーベルに終わらない華やかさをもたらした。

 『NO NEW YORK』としてまとめられることになる4バンドが出演した、イーノが目撃したソーホーのジャズ&パンク・フェスには、後にZEを立ち上げるマイケル・ジルカも客の一人として立ち会っていた。ZEは初期にプロデューサーとして、オーガスト・ダーネル(元ドクター・バザード&オリジナル・サヴァンナ・バンド)を迎えているが、その初期のトライアルの中には、筆者未聴の『NO NEW YORK』のディスコ・ミックスもあったらしい。ZEレーベルは新作が完成するたび、ガラージュ・ハウスの発祥地である、ラリー・レヴァンがレジデントDJを務めていたパラダイス・ガレージでプロモ・ディスクをプレビューしていたという。ジェームス・チャンスのアルバムなどで聴ける、パンクのようなジャズのような奇妙なサウンドを、彼らは“ミュータント・ディスコ”と命名。同じようなプログレの奇形種だったニューヨーク・ゴングを前身に持つ、ビル・ラズウェルのマテリアルらを仲間に加え、79年に『MUTANT DISCO』というレーベル・サンプラーもリリースしている。

白人によるディスコという実験。植民地に花咲くエキゾティズム

 今でこそ、ハウス、R&Bから遡って、70年代末期のディスコ文化の存在が重要視されるようになったが、レーベル活動当時の日本でのディスコのイメージは軽薄そのもの。インディーズの独立精神や貧しさを是としていたパンク支持者やロック・ジャーナリズムが、ZEレーベルの作品を高く評価していたという記憶はない。ポスト・パンク勢がディスコに取り組むという、ZE作品の実験性に一定の評価を与えたのは、NYにわたってジョン・ロビーらと共同作業したこともあるニュー・オーダーのような、イギリスのポスト・パンク連中だろう。日本では看板的歌姫だったリジー・メルシエ・デクルー作品のみ、日本コロムビアからリリースされていたというのも興味深い。ジョン・ライドンのPIL、リップ・リグ&パニックなどを抱えていた同社は、彼らを紹介する日本編集のオムニバスにリジーを加え、東芝EMIのZEカタログよりいくぶんスマートに、ポスト・パンク勢のダンス志向をアピールしていた。“ミュータント・ディスコ”のコンセプトも、キャバレー・ヴォルテールやタックヘッド、DAFらを紹介した、マンチェスター・ブームの下地を作ったイギリスの名物コンピレーション「FUNKY ALTERNATIVES」を先駆けていたと言えるかもしれない。

 レーベル初期のヒーローだったジェームス・チャンスも、コントーションズの第一作『バイ』の制作と並行して、ディスコにアプローチした別ユニット、ジェームス・ホワイト&ブラックス名義『オフ・ホワイト』を同年に完成させている。後追いで『NO NEW YORK』を体験し、そこからジェームス・チャンスの足跡を辿った筆者は、初期メンバーだった女性キーボード、アデル・ベルティの脱退を『バイ』のクレジットで知って残念に思ったもの。素人鍵盤奏者だったベルティの破壊的なオルガン・サウンドのインパクトは、元XTCのバリー・アンドリュースに比肩していたと言ってもいい。当時ダウンタウンの住人だったフリクションのレックの回想によれば、元々歌手志望だったベルティはコントーションズの活動に執着はなかったようで、そんな彼女は早々とイギリスにわたり、当時Pファンクとコネクションの強かったトーマス・ドルビーのプロデュースでデビュー。後に「ユーロビートの女王」として復活するのだから人生わからないものだ。

 つまり白人によるディスコ・サウンドの実験場として、ZEは孤高のポジションを確立していたのだ。その象徴的存在といえるのが、看板アーティストだったウォズ・ノット・ウォズだろう。デトロイトで結成されたドン&デヴィッドのウォズ兄弟をリーダーとする大所帯バンド……というのはかりそめの姿で、その実は兄弟などではなく、まったくでたらめの架空の名前を借りた白人プロデューサー2人による不定形ユニット。MC5のウェイン・クレイマー、ミッチ・ライダーといった白人プレーヤーとPファンクの面々をセッションさせるという、2つの人種文化をクロスオーバーさせたサウンドで、未知のダンス・ミュージックを志向していた。イギリスのオタク白人文化の“ファンクへの憧憬”が、後にハウス・ミュージックの流れを生み出したのは歴史的事実だが、ウォズ・ノット・ウォズはそんなハウス・サウンドを、80年代に実践していた存在としても知られる。そしてなにより片割れのドン・ウォズは、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディランのプロデューサーとして、ZEレーベル出身者で最大の出世頭となった。

 おっと字数が尽きそうだ。ノー・ウェーヴとはもう一方の、フランスの新しい才能をレーベルに招いた、ミシェル・エステバンの功績にも触れておかねばならない。パリで70年代中期に出会い、生涯のパートナーとして『ワン・フォー・ザ・ソウル』までの作品をプロデュースした、リジー・メルシエ・デクルーの存在こそZEレーベルにおける最大の財産。コケティッシュな鼻声で気怠く歌う、彼女の独特な歌唱法は、思春期の筆者にとって「フランスの坪田直子」と例えたくなるような、甘酸っぱい存在だった。『マンボ・ナッソー』の日本コロムビア版のアナログのジャケットは、モデルのような彼女の立ち姿のポートレートで、実物はかなりの蠱惑的な美人である。ソロ処女作『プレス・カラー』はまだ、ノー・ウェーヴ人脈によるモノトーンなサウンドであるものの、次作ではいきなりカリブ諸島にある、ナッソーのコンパスポイント・スタジオにフランスの豪華セッション集団を引き連れてレコーディング。クール&ザ・ギャング「ファンキー・スタッフ」のキメキメのカヴァーには舌を巻いた。バンド・マスターはロビン・スコットのMのメンバーで、レベル42を輩出したことで知られる黒人鍵盤奏者ウォリー・バダルー。クレジットには、後にミカドでデビューする打楽器奏者、グレゴリー・チェルキンスキーの名前もあったりする。リジーはこれ以降も一作ずつ、世界を転々と旅しながら、毎回まったくスタイルを変えたソロ・アルバムを発表し続ける。ブラジルで録音した『ワン・フォー・ザ・ソウル』では、ジャズ界の大物チェット・ベーカーを担ぎ出して「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」をカヴァーしてしまうような、常にZEレーベルの規格からはみ出すような存在であった。

 リジーの第3作『純・アフリカ』(ズールー・ロック)もまた時代に先駆けたアルバムで、いきなり南アフリカ共和国にわたり、現地のソゥエトの黒人ミュージシャンと共演。後にフランスが中継地となって、アフリカ音楽がインターナショナルに紹介されるようになる道筋を付け、後年このアルバムは「ワールド・ミュージック・ブームを予見した作品」と高く評価されるようになる。カラフルなサウンドは同時代アフリカのドキュメントというには華々しく、日本では同年リリースされたマルコム・マクラレンがズールーに挑戦した『俺がマルコムだ』(DUCK ROCK)と併せて、エスニックブーム華やかりしころ、主にファッション業界の人々に支持された。ZEレーベルはワールド・ミュージック志向の面でも、イギリスのポスト・パンク勢を刺激する存在だったようで、戦前のキャバレー音楽を模倣したキッド・クレオール&ザ・ココナッツの“いんちきカリビアン”は、ロンドンのファンカラティーナ・ブームの下地を作ったと言われている。

 『純・アフリカ』がレコーディングされた83年の南アは、未だアパルトヘイトの時代。わずか2年後には、反アパルトヘイトに立ち上がったイギリスの音楽家による、サンシティ運動が起こっている。ポール・サイモンがグラミー賞を取った、アフリカのミュージシャンを起用した『グレースランド』が、「植民地文化的である」と非難されたのも同じ時代のこと。あまり不真面目なことは書けないが、ZEレーベルのカタログにはいかにも白人貴族階級らしい、いい意味での植民地文化的なところに魅力があった。

 まだアフリカン・サウンドが「第三世界音楽」と呼ばれた、世界の音楽の秘密が解明される前の時代だからこそ許された、植民地に花咲いたようなエキゾティックなディスコ・サウンド。ZEレーベル作品をいま改めてリマスターで聴きながら、「こんな不思議な音楽はもう二度と生まれてこないかもしれない」と、シリアスな時代状況を振り返りながら、ふと思ってしまう筆者なのであった。

(OTOTOYより再掲載)


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