PLASTICSヒストリー(再録)

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 1980年の東京は今の倍のスピードで時間を刻んでいた。人も車も流行も。ツービートが16ビートの早口でジョークをまくしたて、『THE MANZAI』の幕間音楽には「TOP SECRET MAN」が流れていた。同年1月に本邦デビューしたPLASTICSが、いち早く米国ツアーを実現し、現地のオーディエンスに絶賛されたニュースを聞いたのは、『11PM』水曜日の今野雄二のコーナーだったと記憶する。ベストテン番組に出演拒否し、週刊誌の話題になっていたフォーク勢に対して、テクノポップの面々はてらいなくテレビ文化を利用し、一躍全国区に躍り出た。我らがTOSHIちゃんとたのきんトリオのトシちゃん(田原俊彦)がNHKで当たり前のように共演していた時代。黄色い歓声が飛び交う人気ぶりは、まるでアイドルのようだった。裏日本の僻地に住んでいた筆者にも、PLASTICSの動向はリアルタイムに届いていた。

 とにかくその勢いの凄さたるや。RCサクセション、シーナ&ザ・ロケッツとの共演とはいえ、8月には日本武道館公演を実現させ、翌日からの米国ツアーは出発して早々、NYセントラル・パークでのトーキング・ヘッズとの対バンで、4万人のオーディエンスを沸かせた。

 デビュー作『WELCOME PLASTICS』から間を開けず、わずか半年で届いたのが、新作アルバムからの先行シングル「Good」。カップリング曲「Pate」も強力なナンバーで、彼らが創作のピークにいたことを伺わせる。後に海外のみでシングルカットされ、DJアンセムともてはやされた「Diamond Head」も同時期に生まれた曲だ。

 2度目の米国ツアー渦中、80年9月にリリースされたのが、待望のセカンドアルバム『ORIGATO PLASTICO』だった。アマチュア時代の曲を佐久間正英がトリートメントしたファースト『WELCOME PLASTICS』と一転して、全曲が書き下ろし。「Good」のシングルまで使用されていた蛍光グリーン/ピンクの配色が、水色地にモノクロ写真のシックな組み合わせに。極彩色からモノトーンへの変貌は、英国の流行だったツートーンブームとの軌を一にしていた。

 PLASTICSの変化は『ORIGATO PLASTICO』を一聴すればすぐわかった。「Interior」は、同名のウディ・アレン映画のヒントになったベルイマンのモノクロ映画のようにシリアス。「Dance In The Metal」の冷たいジョルジオ風ワルツは、ワルシャワ時代のデヴィッド・ボウイを連想させた(タイトルはバウハウスの美術家、オスカー・シュレンマーの著書から)。

 一方で、本作で初めて作曲した中西俊夫の「No Good」の躁病的アフロビートは、まるでタモリ「ソバヤ」のよう。中西の担当楽器として今作で初登場する、スリッツ・ドラムなどの民族楽器の大胆な導入が目を惹いた。クールとホットの奇妙な同居は、後年に書かれた中西の著書によれば、レコーディング初日の「Ignore」制作時に起こった、メンバーの対立に由来しているという。グループは中西、佐藤チカvs立花ハジメの二手に分かれ、「片やファンキーに、片やジャズ、クラシックに」。

 ファーストでカヴァーした内田裕也のニセビートルズから一転、本家の「Eight Days A Week」を堂々と自曲と並べたのもソングライターとしての自負の表れだろう。ラスト2曲の珠玉のバラードに見られる、立花の作曲能力の成長ぶりには目を見張る。中西の音楽的成長も著しく、エスノ・ファンクの実践はロンドンの最先端モードを先取りしていた。ヴィヴィアン・ウエストウッドのセディショナリーズが79年にワールズ・エンドに生まれ変わり、マルコム・マクラレンはBOWWOWWOWを結成。ジョン・ライドンのPIL始動をきっかけに起こるエスノ・ブームの到来も、翌年になってからの話だ。

 メンバーでありプロデューサー役を務めていた佐久間正英は、PLASTICSの解散理由について聞かれた際、アマチュアバンドだったプラスチックスが海外ツアー経験を通し、音楽性を獲得したことによる「発展的関係解消」だと語った。そのきっかけとなったのが本作。対立する2者は一歩も譲らず、何度もスタジオから出る一幕もあったという。レコーディング終了の際、佐久間はPLASTICS脱退を表明。しかしスタッフからの嘆願で、解散までメンバーとして付き合ったというのが真相だった。

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 佐久間の弁を借りれば、PLASTICSとはフロントの3人のことだった。近年になって公開された、佐久間加入以前のデモ、ライヴ音源を通してわかる、初期PLASTICSのカッコよいこと。自分がメンバーに加わらなくても成功していただろうと佐久間は語る。同じく桑原茂一がマネジメントを務めていたシャネルズ(現・RATS & STAR)が、大滝詠一の力を借りずにブレイクしたように。

 昨日までヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ロキシー・ミュージック、セックス・ピストルズのカヴァーをやっていたパーティーバンドが、ある時期を境にオリジナルなバンドに変異する。当時のライヴ録音の変遷を聴きながら、セットリストが一新するその変化にワクワクする。77年、初の米国旅行でディーヴォを観て衝撃を受けた立花は、クラフトワークとピストルズが合体したようなPLASTICSの次段階のプランを構想。僕らにもできるという確信を頼りにオリジナルを書き始め、「I am Plastic」が最初に生まれたという。こうして立花のペンによる初期ナンバーが揃う。ファーストに収録された大半の曲は、新加入した佐久間がシンセサイザーでそれらをトリートメントしたものだった。

 フロントの3人がデザイナ−、スタイリスト、イラストレーターを本業を持つアマチュアで、佐久間は四人囃子に所属するミュージシャン、島武実はプロの作詞家という奇妙なクインテット。しかし実態は、佐久間がサウンドのほとんどを作っていた。難しいギターフレーズの一部やベースを、佐久間自身が弾いているトラックもある。しかし加入前の音を聞けば、けっして佐久間のオーバープロデュースではなく、3人のアイデアを尊重していたのがよくわかる。ドラマーをクビにして「リズムボックスを使え」と指示したのは佐久間だが、加入前にローランドCR-78をすでに購入していたのはメンバーの思いつきだった。

 PLASTICSに訪れた2度目の変貌。『ORIGATO PLASTICO』に変化をもたらせたのは、海外との契約がきっかけだった。79年のファーストアルバム制作中、西武劇場で行われたB-52'sの前座を務めたPLASTICSは、同行していたゲイリー・クーファーストにスカウトされる。彼はトーキング・ヘッズ、B-52's、ブロンディなどを育てた大物エージェント。昨日まで極東のアマチュアバンドだったPLASTICSが、米国の4大大手代理店のひとつ、ウィリアム・モリス・エージェンシーと契約するのだ。同年10月には彼らの計らいにより、アイランドレコードからの世界デビューの契約も実現する。

 セカンドで導入された民族楽器は、海外ツアーの最中に触れたエスノ・ブーム到来の予感を、中西が取り入れた産物だという。しかし、トーキング・ヘッズ『リメイン・イン・ライト』の発売は『ORIGATO PLASTICO』の翌月の話。ブライアン・イーノがプロデュースした前作の「イ・ジンブラ」で、彼らがアフロ・ファンクに接近してたことに注目していた中西は言う。民族音楽ブームの嚆矢と言われるデヴィッド・バーン&ブライアン・イーノ『ブッシュ・オブ・ゴースツ』も発売は翌年。実はこれ『リメイン』より先に録音されたもので、LAでポスプロ作業中、ツアーで同地を訪れた中西がバーンから仮ミックスのテープをもらって聴いていたという。世界的なエスノ・ファンク・ブームが起こる前夜、こうした海外ミュージシャンとの交流を通して、彼らが刺激を受けていたことは想像に難くない。

 民族料理店が並ぶ日本のエスノ・シティ、新大久保のフリーダム・スタジオで『ORIGATO PLASTICO』が録音された。作業は第1回と第2回の米国ツアーの狭間をぬって6月ごろ進められたという。中西本の記録にも本作のみレコーディング期間が書かれておらず、日本と海外を行き来する慌ただしい中で制作されたことがわかる。初日から対立した両者は一歩も譲らず、佐久間が中立的立場で制作を取り仕切った。躁鬱の対比そのまま、解散後に作られたMELON『Do You Like Japan?』(82年)、立花ハジメ『H』(82年)のサウンドが同居するアルバムとも言えるだろう(ここでサックスを担当したのはメンバー共通の友人、THE SPOILの横山忠正)。中西は2曲以外にも曲を書いていたが、それが採用されなかったことがMELON結成の動機になったと語っている。最終的に本作の方向性を決めたのは、リーダーの立花ハジメだった。

 この対立は結局、3度目の米国ツアー後、81年末に秘密裏に行われた4枚目のアルバムのプリプロまで持ち越された。米国ツアー最中に立花はLAでサックスを衝動買い。ツアー全行程終了後、NYに渡った中西らと離れて、ディーヴォのマーク・マザーズボーを訪ねてロサンゼルスに向かっている。マルチメディア・アーティストとして再登場する立花にとって、マークは現代美術、現代音楽などの教養を分かち合う関係。今日ではウェス・アンダーソンの映画音楽でおなじみだろう。ブライアン・イーノのオブスキュアレーベルがはしりとなった、こうしたニューエイジへの接近は、81年当時の世界的流行でもあった。ペンギン・カフェ・オーケストラのサイモン・ジェフスも、シド・ヴィシャス「マイ・ウェイ」の弦編曲を務めたポストパンク界の住人だった。

 立花がサックスを始めた直接のきっかけはボウイの影響だという。ボウイは元々サックス奏者ではあったが、技巧的というよりある種のヘタウマの味でファンに愛されていた。と同時に、NY周辺で起こっていたノー・ニューヨークの濃厚な影響がある。ラウンジ・リザーズのジョン・ルーリー、ジェイムズ・ホワイトらのロフト・ジャズは、米国のポストパンクの新潮流を作っていた。後の『H』の収録曲には、PLASTICSの完成しなかった第4作のプリプロで聴いたサウンドに近いものがあったと中西は回想する。立花がサックス奏者としてステージに立つ、新生PLASTICSの構想もあったのかも知れない。佐久間が解散後に手掛けた、ベルリン録音の根津甚八のアルバムやソロ『LISA』(84年)を聴くと、同じように佐久間も室内楽への関心を強く持っていたことがよくわかる。

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 立花はPLASTICSの米国ツアーを通して生まれた自己の変革について、同じエージェントに所属していたラモーンズと共演したときの衝撃を語っている。全員がファミリーネームを用い、舞台裏でも不貞不貞しい態度で、生涯を音楽に捧げた米国のパンクオリジネイター。「ロックやポップをやっても彼らにはかなわない」と、立花は使い慣れたギターからサックスに持ち替えるのだ。一方、ベンチャーズやモンキーズを参考に、日本特有の諧謔精神を示して見せたPLASTICSに、海外のオーディエンスは自国のバンドと接するようなマナーで、その音楽的オリジナリティを高く評価した。現地のバンドと関わっていく中でのオリジリティ獲得との相克。立花はそんな中で、ジャズ、クラシックなどの異ジャンルに可能性を見出したのだ。

 米国ツアーではライヴ・バンドとしてのタフさを見せつつも、メンバーはロードツアーの退屈さを告白していた。自身の音楽性の成長を感じながらも、3年前に書いた曲を繰り返し演奏するだけの日々が続く。米国ツアーでお披露目された『ORIGATO PLASTICO』からの新曲も、後年リリースされたライヴCDで聴くと、アレンジが日々進化してるのがわかる。

 81年3月、PLASTICSの最終作となる『WELCOME BACK』が発売される。ローランドTR-808という新しいリズムマシンを使って、過去2枚のアルバムからのベスト選曲に新たな息を吹き込んだ同作は、海外進出の第1声としてエージェントの要請で作られたもの。過去曲を新録するアイデアは、けっしてメンバーから発信したものではなかった。本作の録音に際し、ハバナ島ナッソーのコンパス・ポイント・スタジオというプールが併設されたリゾートスタジオが用意され、メンバーは海外大物アーティストのような身分を楽しんだ。マネジャーの内田宣政は隣で『アナザー・チケット』(81年)を録音中だったエリック・クラプトン、エンジニアのトム・ダウドの作業風景を観て、再びロックに取り組む決意を固めたという(帰国後マネジメントを離れ、RVCに入社。山下達郎『FOR YOU』のコ・ディレクターを務める)。

 おそらく米国に居を移し、世界に向けてPLASTICSを再始動する道はあっただろう。3年に1枚アルバムを出し、1年かけて世界ツアーを回る活動形態もすでにあった。しかし彼らは止まることより、変化することを選んだ。エージェントと交わした契約書は厚さ10センチにも及んだというが、米ショービズ界の掟を守って、あの3人がおきまりのルールに従って活動するなんて想像もできぬ。後に米CBSのオーディションを合格したピチカート・ファイヴが、それを蹴ってマタドールと契約したような選択肢もまだなかった。PLASTICSが契約するウィリアム・モリスは、マリリン・モンローやジョー・ディマジオなどの顧客を束ねる、100年の歴史を持つ米国のタレント・エージェンシーの大手なのだ。

 帰国した中西は、エスノ・ファンクを基調とするMELONを始動させ、PLASTICSの進化型を僕らに見せてくれた。マネジャーに就任した桑原茂一は、世界にMELONを紹介するためのクラブ、ピテカントロプス・エレクトスを原宿にオープン。来日した大物セレブリティが立ち寄る東京の新観光スポットとなった。日本が音楽の最先端を行っていたという自負を、あの時代の音楽業界人皆が持っていたと思う。一方の立花は現代美術などジャンルをまたぎ、ポストモダンなインストアルバム『H』(82年)を振り出しに、ソロアーティスト活動を開始する。佐久間、島ともその後、プロデューサーとして活躍するのはご存じの通り。解散の翌年、米国ライヴと未発表曲を収録したPLASTICSのコンピレーション盤の発売が一度音楽雑誌でアナウンスされたが、メンバーの新しい活動の中、果たされることは結局なかった。

 こうして大きく分裂した2組だったが、しばしばニアミスしてかつてのPLASTICSファンを喜ばせた。MELONが音楽を手掛けた資生堂CM『PARKY JEAN』に、モデルとして立花が客演。立花がディズニーをやれば、それに呼応して中西がインストゥルメンタル・バンド、WATER MELON GROUPを結成するというふうに。ともに新天地にアルファレコードを選んだのも偶然ではないだろう。

 『ORIGATO PLASTICO』収録の1曲、「Dance In The Metal」は立花いわく、ボウイがジギー・スターダスト・ツアーの登場曲に使っていた『時計じかけのオレンジ』のサウンドトラックに影響を受けたものだそう。PLASTICSは最後の世界ツアーで、ヘンデル「サラバンド(ハープシコード組曲 第2集)」を登場曲に使っていたが、映画『バリー・リンドン』のテーマ曲を流すこのアイデアもまた、ボウイがキューブリックのサントラを使ったことに影響された中西のアイデアだった。こういう符合を見つける度、PLASTICSの存在を意識する。憎まれ口をききながら、周期的にリユニオンを果たして未だ僕らをワクワクさせてくれるのだ。

 ちなみに本作のアルバムタイトルは、ディーヴォ初来日時に案内役を引き受けてくれた日本の友人に宛てた、マーク・マザーズボーのメモ書きに書かれていた言葉だという。今回の復刻に、30年越しのファンからもその言葉でエールを送りたい。「ORIGATO PLASTICO!」。

(『ORIGATO PLASTICO』ライナー原稿より)


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