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PSYCHO-PASS PROVIDENCE感想――まつろわぬ魔女と神託の銃、あるいはディストピアの寿命について

※映画は1回しか見ていません。
※1期リアタイ勢です。
このふせったーの大幅加筆バージョンです。

常守朱は魔女か聖女か

朱は砺波に「魔女」と誹られた。この「魔女」とは「社会を脅かすもの」と「社会通念から外れた異端」という二つの意味を持っていたように思う。

システムにまつろわぬ者

まず、朱は直接的に社会体制を脅かした。
朱はラストでテレビ中継中、公衆の面前で禾生局長を実弾で撃った。しかし彼女に対してドミネーターは作動せず、人を殺したにもかかわらず犯罪係数が上がらない「異例事態」となってしまった。

ストーリーはノナタワーの〝密室〟で法律を廃止するか否かの検討から始まる。法の廃止を進める側は、法務省を解体してすべてをシビュラの判断に委ねよう――と主張する。
一方で朱はすべてをシビュラの手に委ね、法を廃止することに反対する。これは自分たちで考えることを放棄してはならないという朱の信条の表れだ。
と同時に、1期から引きずっている〝シビュラで裁けない者〟、つまり免罪体質者の存在が頭にあるだろう。

ドミネーターという〝喋る銃〟の託宣に従い、犯人に適切な処分を下す――裁判制度の消滅した世界ではシビュラシステムの告げる託宣こそが法だ。
征陸が戸惑い、宜野座が従順に従い、槙島が疑問を呈した正義の在り処はシビュラシステムに帰する。
しかし、シビュラに疑問を抱いている朱は法の廃止に反対し、会議で孤立する。声高に反対するのは彼女だけだ。
思い詰めた朱は、自らがドミネーターで裁けない存在となることで、法の存続を訴えた。

今回、朱はとうとう壊れてしまったのではないかと思う。
もともと、局長を殺したことは3期の冒頭でほのめかされていた。そのせいか潜在犯に準じる立場になり、最後は法定執行官として出所したところを見て、今までの彼女からかなり変わってしまったのではないか?とは思っていた。
それが今回、彼女はテロ行為に手を染めてしまった。朱は禾生局長を(対外的に)撃ち殺したのと同時に、己に向けて引き金を引いた。

最後に隔離施設に収容された彼女が泣いていたのは、とうとう彼女が己の信念を曲げて法の外へ堕ちていってしまったからなのだろう。
ずっと法を尊重してきた朱が、法の存続のために法を犯す。これほどまでに残酷な選択があるだろうか。
法を犯しても法で裁けない存在になりながら法に守られるのは、身を焼かれる思いだろう。間違った法こそが彼女を裁かないのだ。

常守朱はもう戻らない。首輪を抜けて脱走した狡噛が飼い犬に戻らないように。狡噛を止めようとした朱は、狡噛と同じ場所まで落ちていった。二度と這い上がることを許されない地獄に。
炯と舞子の華やかな結婚式が行われる裏で、常守朱はシビュラシステムと「死が二人を分かつまで」共に在らねばならくなった。
わたしとしては、どっちも地獄で挙げる結婚式、といったところだ。

北方領土に向かう準備のさなか、朱はドミネーターを基本的な装備とすることを決定する。
霜月が「正気ですか!?」と訴えたが、法の裁きを受けさせるために現行の法=ドミネーターの前へ引きずり出すことを心に決めている。それができないなら逮捕するつもりだ。槙島の時にはできなかった、裁判制度の復活を狙っているようにも感じられた。
狡噛があっさりとドミネーターを投げ捨ててリボルバーに切り替えたのとは対照的だ(ここのシーンはよかったですね)。

砺波は朱を「魔女」と呼んだが、彼女はむしろ「パンドラ」に近いと思う。朱は開けてはならぬ箱を開けた。シビュラシステムの「公平さ」、すなわち社会体制への疑念を突きつけた。

シビュラシステムは自らを機械に欺瞞し、人の感情を挟まない公平な判断ができる機構だと市民を騙している。
朱が人を殺したにもかかわらずドミネーターで裁けなかったという事実は、システムのゆりかごの中で微睡む市民たちにとっては地獄の幕開け、あるいは目覚めの時だ。ドミネーターの信頼性が揺らぐということは、社会の基盤となった指標であるサイコパスへの信頼も揺らぐということだ。
2期で集団的サイコパスは「魔女狩りの時代が来る」と警告されていたのに、朱の方がその箱を開けてしまった。サイコパスの絶対性を失わせるという、引き返せないやり方で。社会秩序の根拠を破壊するという手段で。

聖女の資格

もともと朱は色相の濁りにくい〝メンタル美人〟だった。ゆきが死んでなお色相が濁らない自分に「心とは何なのか」と問いかけていた。
システムへ疑問を持ちながら色相が濁らない朱は、もとよりあの社会では〝異端〟に近い。
槙島は数々の事件を起こしながらクリアな色相だったため、免罪体質者と判断された。一方の朱は体制に疑問を抱きながらも倫理感を正しく持っていた。
だが、今回、朱は槙島と同じ行為に及んだ。

3期で灼が「聖人であり罪人である」と表現されたが(この表現にはいろいろと言いたいことがあるが)、罪を犯してなおサイコパスがクリアな朱は端から見れば〝聖女〟に映るだろう。

この先、朱はずっと孤独だ。
宜野座は朱の盾になりたいと言った。だが、彼は盾になれなかった。朱がはるか先をゆく「システムからはみ出た人」になってしまったからだ。執行官になってさえごく普通の市民としての価値観を持ったままの宜野座には荷が重すぎる。

物語の構図としては、朱は狡噛とペアだ。1期からそうだった。
今回、システムの外へ出てしまったという意味でも二人はペアだ。法の狭間に落ちた朱を守れるのはもはや狡噛だけなのだろう。

1期の朱は狡噛の手綱を握る〝飼い主〟だった。朱が法を犯し〝飼い主〟たる資格を失っても、狡噛との立場が逆転するでもない。朱はテロ行為に及んですら、順法精神を完全に失ったわけではないからだ。
だが、狡噛は法の外にいて、法を守るつもりはない。朱は法を破りながらも法を尊重する姿勢を自分だけで維持しなければならない。朱はたぶん、狡噛を止める役割を負ったままなのだろう。

一度自由を知った獣は二度と家畜には戻らない。狡噛はシビュラの庇護の下には絶対に帰らない。
刑事課にいた朱が呼んでも戻らなかった獣は、刑事を辞めてしまった朱でなければ側にいけないのかもしれない。

ただ、ここまで描いても朱は免罪体質者ではないだろう。そうであってほしい。
朱が撃ったのはあくまで義体の腹で、本体は脳の方、つまり腹を撃ったくらいでは死なないと知っているから犯罪係数が上がらないのかもしれない(だからといって撃っていいわけではない)。
朱には免罪体質であってほしくないのだ。免罪体質だと彼女の正義感、すなわち犯罪係数の上がりにくさの根拠は免罪体質に帰されてしまう。
彼女はあくまで現行の法=シビュラシステムに従い、罪を裁くべきだという主張で行動してほしい。

最後の号泣するシーンがそれを表していると思う。
対外的には〝魔女〟で〝異端〟となってしまった彼女も、色相が濁りにくいだけの市民の一人であるという。

見る側の代弁者としての役割

また、朱は今回の映画で物語における役割をも変質させたように思う。
彼女は砺波に「魔女」と誹られるが、それは物語中で負う彼女の役割が「見る側と同調する」ことから「社会の異端」へ向かっていく面にも当てはまる。
そしてこの部分の描写の不足が、朱の行動原理への戸惑いを生んでいるように思う。

今までの朱は、今と違う価値観の支配する未来で視聴者と同じ感覚を持ち、視聴者を作品へ没入させる役割を負っていた。しかし朱は殺人を犯したことにより見る側から離れてしまった。
朱とペアである狡噛もまた法の外にいる獣でしかなく、この「見る側と同調する役割」が宙ぶらりんになったように感じる。

1期の朱は狡噛とバディ的な関係にあり、狡噛を止める役割を負っていた。狡噛がいなくなって朱がその立ち位置にスライドしても、彼女の隣には誰もいない。
今回、狡噛にいまいち感情移入できなかったが、これはやはり、彼も「異端」へ行ってしまったからかもしれない。

シビュラシステムのお気に入りの朱は、ある意味で神聖視されているかのような印象を与える。
朱へのカウンター、つまりおかしなことを言い出したら殴ってでも止める人が不在なのだ。
朱の盾になりたいと言った宜野座はむしろ、霜月とバディ関係にある。
殴ってでも朱を止める人はおらず、彼女は局長を公衆の面前で撃った。
並び立つ者のいない孤独を、理解者のいない孤独を、朱はこの先も耐え続けなければならない。彼女の上にいるのはもはやシビュラシステムだけだ。

エンディングはEGOISTの『当事者』だが、これはストレートに朱が事件の「当事者」、つまり容疑者になったことを示している。
朱は今まで、物語を俯瞰する視聴者と同じ視点にいた。お前の正義は何なのかと問いかけられる立場だった。
今回は「私の正義はこれだ」と示す側に立った。今までの姿勢を捨てて。

その結論を出すに至った過程をもっとよく見せてほしかった。特に、その行為が周囲の人間へ及ぼす悪影響について思い悩む場面が足りない。
画面に映るのは、誰にも相談せず、一人で袋小路に追い詰められて一人で〝手を汚した〟姿だけだ。

たとえば、自分のテロ行為を中継で見た市民たちのサイコパスへの配慮。朱は学生時代にサイコハザードに関する論文を書いている。まさか無関心ではあるまい。
たとえば、自分の家族友人に自分のテロ行為が及ぼす影響。とりわけ両親は潜在犯を産んだとして迫害される可能性を憂慮するシーンが欲しかった。でないと、なぜ宜野座は征陸を拒絶し続けていたのか、潜在犯の子は潜在犯になるという流言に耐え、局長からも遺伝する可能性を言及されたのかわからない。

それは自己満足ではないのか? エゴを無辜の市民に押しつけているのではないか? その行為は本当に誰かの幸せのためになるのだろうか?
1期の市民たちの安寧のためにシビュラシステムの電源を落とすことができなかった朱はどこへ行ったのだろうか?
そういう葛藤をもっと具体的に示して欲しかった。映画では朱を肯定的に描きすぎたように思う。

いきなり狡噛に手紙を送ったり号泣されても、雰囲気では感動しても理性はキャラクターの心情に乗りきれない。
映画を見た時には都合良くFIのラストを忘れていたが、既に朱は釈放されて禾生局長も死なずに戻ってきている。これでは朱の号泣するシーン、苦渋の決断というインパクトが薄れてしまう。
だから、この映画に必要だったのは朱のホワイダニットを明かすことだけでなく、その動機付けの過程であっただろう。

神託を告げる銃

ドミネーターの扱いは3期で大きく変わった。
灼は「ドミネーターには引き金がついているのがいいところ」と言った。喋る銃の言いなりになることを嘆いた征陸の頃や、シビュラの判断を疑わない宜野座と違って、ドミネーターを撃たないという選択肢が生じた。

今回の映画もそうだ。
常守朱はその身を以てドミネーターによる裁きの無謬性を破壊し、白日の下に晒した。一部のキャラクターと視聴者で共有されていた「システムは完全無欠ではない」という事実が、作中の民衆たちの前に露呈した。

一緒に映画を見た友人が「4期ではきっとドミネーターを使わないよ」と言ったが、これにはわたしも同意するところだ。
3期では全然ドミネーターを使わないので、別のアニメを見ている気持ちになった。単体ではおもしろいかもしれないが、サイコパスの続編ではないな、と思っていた。
これは物語の構成上の欠陥であり、宿命でもあるだろう。

1期でシビュラシステムは絶対的な存在として描かれた。公平で公正なシステムの唯一の欠陥が免罪体質者だった。すべての暴力行為はシビュラが未然に防ぎ、槙島だけがシステムの目を逃れる存在だった。
だが、主人公を刑事課に配置し、ドミネーターという武装で犯罪を取り締まらせる以上、敵はドミネーターを逃れなければならない。
ドミネーターをかいくぐる敵が増えてくると、今度はシビュラシステムが無能に見えてくる。シビュラが何か対策を講じているように見えないからだ。

1期のシビュラシステムにはまだ、機能を拡張しようとする意思が見られた。槙島を何としてでも捕まえて、自分たちの仲間にしようとしていた。
だが、3期のシビュラは存在感が薄い。
「悪いことを考えただけで捕まる」という設定があまりに強力で、続編を作るに当たってはシビュラシステム、およびドミネーターが邪魔になっているからだ。

そして登場人物たちは、犯罪係数を気にする必要のない執行官と、いくら銃を撃っても人を殴っても色相がクリアなままのメンタル強者だらけになっていく。
槙島だけだったはずの例外が拡大しすぎているのだ。彼らはもはや、投薬もカウンセリングも不要になってしまった。

例外しかいないキャラクターたちで物語は進んでいく。シビュラの庇護の元、盲目の幸福を享受している市民たちは描かれなくなっていった。精神衛生至上主義という建前を忘れたかのように。

シビュラシステムを絶対的な存在として描いてしまった以上、犯罪が発生してそれに対処するために刑事課が走り回るという展開のために毎回「ドミネーターが作動しない」「犯罪係数が測定できない」というエクスキューズを挟まないといけない。これはもはやシリーズの宿命に等しい。

相変わらず犯罪係数の測定方法はブラックボックスで、2期で集団的サイコパスを導入したのに、それによって誰かが検挙されたり治安が守られたという描写もない。
(平和が当たり前なので殊更に描写しないという意図なのであればそれでもいいが、やはりシビュラが何か手を打っている描写はほしいところだ)

ドミネーターが機能しないということは、シビュラシステムの絶対性が揺らいでいるということだ。にもかかわらず、シビュラの代わりになる社会体制は提示されない。そして、なぜかだいたいシビュラの手のひらの上という結論になる。
制作側は1期で十分シビュラの恩恵を描いたからもう不要だと思っているのかもしれない。しかし、わたしが見ているシビュラは、今までのバグにパッチを当てたようには見えない、犯罪者に出し抜かれているセキュリティがガバガバな無能な姿だ。あまりに説得力がない。

作中では実弾を遠慮なく撃っているが、彼らにしてみればいくら銃があってもドミネーターが来たらおしまいだ!みたいな感覚なのかもしれない。
だが、こちらはドミネーター(戦術兵器)の不自由さをさんざん見ている。今更ドミネーターが最強で唯一の武装(戦況を一変させる戦略兵器)と言われたところでしらけるだけだ。

作中で実弾を撃ちすぎて、ラスボス戦で朱がドミネーターに固執することへの説得力が減っているのも問題だ。そんなに「ドミネーターで裁く」ことにこだわりがあるなら、なぜ朱は実弾の入った銃を携帯していたのだろうか。
(どうやって銃が流通しているのかはずっと疑問だ。シビュラシステムの神託を授かる刑事たちが銃の携帯を認められるはずがないのでは?)

現実社会がシビュラ的世界に近づきつつある中で、これを覆す体制を提示するのは難しい。
現在の体制、法を象徴するものがドミネーターだから、これを何とかして排除しなければ、この社会は前に進めない。だから朱は自分の信条を曲げて(あるいは折れて)、正当防衛でもないのに人を殺した。
この先、メタ的な意味でもドミネーターの出番は減るだろう。減らさなければならない。朱がその無謬性を毀損するまでもなく。

ディストピアの寿命

端的に言えば、サイコパスは1期の設定に従ってSFを続けるにはかなり難しい時期に来ている。
包み隠さず言えば、続編を作るべきではなかった。2期の後にはうっすらそう思っていたし、3期を見た後は確信した。PPPを見に行く際には、SF要素を見限る心づもりで行った。そして予想以上の整合性のなさに失望した。

1期はSFとして見てなかったので、多少の穴はスルーしていた。しかし2期や3期はSFに寄って人間ドラマが薄くなった。路線変更もやむをえないと思って代わりにSF要素に注目すると、今度は穴が拡大して手に負えなくなっていた。
というか、シリーズ構成・脚本の冲方氏はどうも1期の設定を勘違いしている節がある。

法治国家とは?

まず、今回の話の最大のテーマ、法の廃止について。
冒頭の「ノナタワーの密室」で議論される「法律の廃止、法務省の解体」に関しては、どう考えても「刑法の廃止」の間違いではないだろうか。
ついでに言えば、このテーマはピースメーカー隊員たち「戦争から日常に戻れなくなった人」とどうも噛み合っていないように見える。

何故かあの黒スーツの高級官僚の頭の中では「法律」が「刑法」のみを指すものとして認識されているようだ。
「六法」という言葉があるように、刑法は法律の一部に過ぎない。言葉の誤りかと思ったが、「法務省の解体」まで俎上に上げているので、どうやら本気で言っているようである。
法律のない社会、すなわち法治国家以前とは、自力救済の時代ではないのか?

思い返せば、3期は自力救済めいた描写が見られた。当時の感想でも書いたが、素手での殴り合い、銃撃戦が多すぎる。これは法より強力に市民を抑圧できるシビュラシステム統治下の社会では基本的に許されない。
近代国家とは、暴力を民から取り上げ、代わりに法を敷いた存在ではなかったのだろうか。作中でいえば、暴力装置はドミネーターしか存在しないはずだ。
(後から国防軍や、今回で言えば外務省の特殊部隊も出てきたが、こちらの方が公安局刑事課よりも過酷なように見えるのもちょっと疑問である。そういうところは精神衛生のためにまっさきに無人化されるのではないか? 見返りがなさすぎる)

シビュラシステム統治下の社会は、究極の官僚制とセットだ。この点は『素晴らしい新世界』とよく似ている。
というより、シビュラシステムはビッグブラザーよりも世界統制官に近い性質がある。

官僚制を支えるものといえば法律。法律の廃止に賛成する政府高官たちは、法律廃止後に罷免され、シビュラシステムだけが政治に関わるつもりなのかと言えば、そうでもなさそうである。
一応、選挙制もかろうじて維持されている世界で、法律を廃止したら選挙もなくなる。
(思い返してみれば3期が都知事選をやっていたので、法律の廃止なんて無理だったのがすぐわかる)

精神衛生至上主義の社会を支えるために制定されたラクーゼ法は、影も形もない。
刑法で罰せられる内容は直感的にわかるだろう。だが民法を始めとした他の法律はそうではない。どちらかといえば、社会の在り方、社会を円滑に回すための基準が定められている側面が強いのではないか?
法律をまるごと廃止したら、薬品の品質をどこに保てばいいかわからなくなるだけだ。まさかいちいちシビュラが指示を出すわけがないだろう。

そもそもシビュラシステムに常時、国民の犯罪係数を計測するほどのリソースはない。
街灯スキャナは簡易的な色相チェックしか行えず、犯罪係数を測定するにはしかるべき施設、もしくはドミネーターが必要だったはずだ。
ドミネーターは何にも優先して割り込み処理されるという設定だった。つまりシビュラは普段、他の計算で忙しいわけだ。

シビュラシステムが形骸化したのは刑法であって、シビュラの支配を正当化するために法を必要としたのは彼らの方だった。
サイコパスな脳の群れには倫理観は備わっていない。彼らは決まりきった基準でしか判断せず、ゆえに機械的な公平さを偽ることができたのだ。
法の廃止を提案する官僚たちを静観する構えのシビュラシステムは、とても機械的に見えた。1期で貪欲に槙島を捕らえようとしていた積極性はなくなってしまったようだ(これについては後述する)。

紛争係数を始めとして、今回の映画には『虐殺器官』らしさを覚えたから、そういうアポカリプス的路線に突き進むという方向でもありかもしれない。
だが、法律を廃止してなお近代国家のまま社会が維持されるというのは謎だ。

朱は公衆の面前で禾生局長を撃ち殺すことで人々に犯罪係数に基づく治安維持、ひいてはシビュラシステムの是非を問いかけた。
この判断は身を引き裂かれる思いだっただろう。だが、その着地点が「法律の廃止を見送る」なのは噛み合っていないように思う。
まずまっさきに疑われるのはドミネーターの不具合、そして犯罪係数の算出方法なのではないか?

法律を廃止するというアイディア自体も構わないが、なぜここで言い出したのだろう。
1期で事実上、刑法は無効化されていることが示された。ここで改めて法務省を解体する動機がよくわからない。槙島聖護を裁いたのはシビュラシステムを振り切った狡噛だけだった。実弾が槙島聖護を殺した。
シビュラシステムは法で裁けない免罪体質者を構成員に取り込むという方法で社会から排除してきたが、槙島は拒否した。シビュラは槙島を殺せず、排除も隔離もできなかった。
むしろ、システムが自身の欠陥に対処しようとするなら、部分的な裁判制度の復活に賛同してもいいのではないかと思うのだ。集団的サイコパスを認めた彼らはその先から一歩も進まず、むしろ後退している。

つまり、法律を完全に廃止した社会の未来像をはっきり描けないまま、それが失敗した結末があるからと、結末に沿う過程を作っているように見えるのだ。
このあたりは、時系列を逆にした弊害がもろに出ている。わたしとしては、エンタメ的に失敗だったと言わざるを得ない。

3期とFIの感想でも書いたが、完結しない物語は非常にストレスだ。凡庸な終わりであったとしても、きちんとテーマを通して結論を示した方がいい。

ユートピアとディストピアの境、システムの行く末

サイコパスはジャンルで言えばディストピア物に分類されるが、社会体制が本当にディストピアというわけでもない。むしろ、シビュラシステムによる統治を受け入れた社会はディストピアとユートピアが表裏一体であることを示している。
だからこそ、陰で変容しつづける社会でシビュラの庇護の元、それでもまだ盲目に平穏に暮らすモブ(朱の友達や家族)の描写は必要だったと思う。シビュラの恩恵、「最大多数の最大幸福」が変わらず存在していることを示してほしかった。

出島のモブ登場パートは好きだが、あまりに現実と似ていてシビュラの支配/庇護下にはちょっと見えなかった。
出島は移民たちが留め置かれている、ある意味で「例外」の人々の集まりだ。なぜ旧正月は認められているのだろうか。日本への亡命は、無慈悲な女神の庇護を授かる代わりに自分たちの文化を捨てて女神の信徒に同化することではなかったのか? シビュラの同化政策はなぜ行われていないのだろうか?
シビュラはどうしてこうも無能なのだろうか。あの息の詰まるようなディストピアの側面はどこへ行ったのだろう。

2期は尺も短く、朱の友人も一瞬友達映ったからと多めに見ていたが、3期でさすがにモブの存在感のなさを無視できなくなった。
脚本がモブを軽視しているようにしか見えない。朱がテレビ中継を利用して局長を暗殺したことが視聴者のメンタルに大ダメージを与えることは承知の上なのだろうか? 朱が気にする余裕を失っていたとしても、脚本がそこをおろそかにするのはいかがなものか。
シビュラのユートピアの側面を描かないから、むざむざ犯罪者を取り逃がす無能に見えるのだ。

シビュラシステムは自身を機械と偽り、神託を授かっている、つまり自分の意思ではないという体裁で、その実、神託を授けているのはシビュラだった。そして神託を授かって行動するのが刑事課だ。
サイコパスはこのねじれからスタートしているので、神託に「従わない」という選択肢を生んだ灼は好きだった。下手にSFするよりも、そのあたりに話を絞った方がいいと思う。

わたしは、シビュラシステムは役割を終えた時にアポトーシスするのではないかと見ている。
もしくは、槙島を補足できなかったシステムがデバックをした末に免罪体質者の犯罪係数を正確に計測できるようになり、〝自殺〟する展開でも構わない。

1期でシビュラシステムは「いつか機会を見て正体を公表する、今はその時ではない」といった内容を言っていた。
であればやはり、この物語は市民たちがゆりかごから歩き出して、不要になったシビュラシステムのアポトーシスで終わるべきではないか。

現実的な落とし所としては、1期で問題提起されていた裁判制度の部分的復活ではないだろうか。
このあたり、制作側もまだ未来図を描けていないようにも感じる。
現実は監視社会へと近づいている。つまり、シビュラ的社会を良しとし、そこへ近づいているということだ。
前述したように、現在の体制が1期へと近づいている状態で、それに勝る政治・社会体制を提示するのは至難の業だ。

1期がきわめて閉鎖的な物語だったから、外へ物語を広げるとあちこち齟齬をきたして難しい、というのが正直な感想だ。
朱や狡噛が死んでも(ファンは減るかもしれないが)他のキャラに役割を引き継ぐことができる。だが、シビュラシステムの電源が落とされたらこのシリーズは終わりを迎える。
インタビューでシビュラシステムの扱いに苦慮したと言っていたが、上手く扱えていないと言わざるを得ない。

シビュラシステムは人かAIか?

今回、シビュラシステムに関してかなりの重大発言があった。
ストーリー終盤、ストロンスカヤ文書を取り合う朱と砺波のシーンで、朱がシビュラシステムをAIと呼んだのだ。(砺波がシビュラをAIと呼んだのを受けて朱がそう言ったと記憶しているが、ちょっと自信がなくなってきた)
これは大いに議論の余地のある台詞だろう。というより、ストーリーの根幹に関わる問題発言だ。

わたしは当初、この台詞は朱の気遣い、優しさだと思っていた。
砺波が人間に絶望して人ではない神を欲していたから、朱はシビュラシステムをAIと呼んで砺波の幻想を守ってやった、もしくはまだ職務を忘れず部外者に対して守秘義務を守ったという描写だと思っていた。
だが、冲方氏のインタビューを読む限り、本気でシビュラをAIと考えて制作しているようだ。

やはり『PSYCHO-PASS サイコパス』は、現実と切っても切り離せない作品です。一方で作中における日本で最も良いのは、ジェンダーの問題が解消されている点です。シビュラシステムがAI(人工知能)によって人びとの職業を適材適所で差配していくので、性別による差別は一切ないわけです。

『劇場版 PSYCHO-PASS』最新作を脚本の冲方丁が痛感した“日本の異質な自国主義”

シビュラシステムは「私情を挟むことのない機械だからこそ公平だと信じられ、受け入れられていたのに、実は人間だった」というのが1期最大のオチだった。
シビュラシステムがAIならば、このオチは消滅してしまう。朱が脳みその群れに生理的嫌悪を示す必要もない。槙島が暴いた「神託の巫女のはらわた」も存在しない。

ここで問題になるのは、シビュラシステムが技術的、SF的な定義の上でAIなのか人なのか、ということではない。「免罪体質者の脳を組み込んだシステム」が真実を知る者にどのように見られているのか、である。
1期では間違いなく、シビュラシステムは〝人間〟だった。

上記のnoteでは「悪人の脳」の集合体たるシビュラシステムが「善行を為す」ことのねじれについて語っている。「絶対的な善」が崩壊した後、「絶対的な悪」は存在しなくなった。むしろ、「絶対的な善」とは「絶対的な悪」でしかなくなったという話だ。
善か悪とかいう判断をするのは人間でしかない。だから、1期でのシビュラシステムは「悪人でありながら善人である」というねじれを体現する〝人間〟として描かれていた。

だが、その判定には人の意思が介在しない。君たちは一体何を基準に、善と悪をより分けているんだろうね。

シビュラシステムは無謬性を誇る機械(AI)の振りをしてその実、人間(免罪体質者)が最終決定権を握っている人治であるとわたしは解釈してきた。システムと言いながら、人の意思の介在するもの――シビュラシステムはそういうものとして描かれていた。それがAIとして、機械として扱われるならば、朱は何に対して嫌悪感を示したのだろう?
他のキャラならともかく、シビュラシステムを「悪人の脳」と呼んだ朱だけはそう言ってはいけなかったのではないか。

1期が放送していた頃、虚淵氏はいつも話のオチを「敵も同じ人間だった」にすると揶揄されてきた(まどマギやクウガ、ガルガンティアなど)。
1期を見た人間にとっては「シビュラシステム=人間」というのが共通認識だったのではないか?

シビュラシステムをAIとして捉えて制作しているならば、いろんな齟齬に得心がいく。やたらとシビュラの影が薄いのも、「機械=人の決定に従う」で説明できる。
たしかに、シビュラシステムは自らをシステムに欺瞞し、システムに徹しようとしていた。集団的サイコパスを受け入れた彼らは、更に自分たちを機械らしく装おうとしているのかもしれない。そういう方向へシビュラが進歩しているという設定なら、納得できないわけではない。3期でも指摘したが、圧倒的説明不足ということで片が付く。
だが、シビュラが最初からAIだと言うなら、それはわたしの見たサイコパスではない。

シビュラシステムが公平なのは、サイコパス以外の全ての属性を無価値にしたから、システムの中身の免罪体質者が倫理観に欠けるがゆえに数値でしか判断しないからだと思っていた。
しかし、冲方氏はシビュラがAIを使っているから公平と思っているらしい。
AIが公平であるとわたしは全然思わない。だからストーリーへの違和感は肥大するばかりだ。

現在の情勢で「AIがあるから公平だ」と言われても賞味期限切れのような気持ちもいささかある。

慎導篤志と禾生局長の会話で、「シビュラは人の可能性を信じるか」と問われ、シビュラは頷いた。
シビュラシステムは市民を憎んでいるのではない。サイコパスな脳みその群れのせいで時に非情な判断を下すものの、「最大多数の最大幸福」を破ったことはない。彼らは永久に市民に奉仕を続ける罪人だ。
彼らは「システムになろうとしている人間」だった。

「有能な専制君主と無能な民主主義ならどちらがましか」という尽きぬ命題に「過たない機械」を選択したのがこの世界の市民たちだった。ヒューマンエラーを排した、絶対に過たない公平な君主が人民に奉仕する体制だ。
(砺波が人ではなくAIによる統治を訴えていたところで、高杉晋作のキ神計画みたいなこと言い出したなこいつ…という気持ちになった。サイコパスを見ているのにFGOが始まったかと思った)

砥波はシビュラシステムと対立するつもりはなく、あくまで共存を願っていた。シビュラシステムが間違っているとは言わなかった。彼はシステムに救済されたがっていた。そのために絶対に過たないAIを、自分たちの〝神〟を欲した。
だが、AIが学習データの偏りによって差別発言をすることが知れ渡ってしまった以上、AIなら完全に公平な社会が築かれると信じている根拠が揺らいでいる。むしろ人間が最終決定権を握っているシビュラシステムの方が現実に即してしまっている。
この点に関して、どうにも作中のAIの扱い方に同意できない。

わたしはサイコパスの世界観の根幹を成す舞台装置、シビュラシステムが統治する社会を成立させている仕掛けは「心を数値化する技術」、すなわちサイマティックスキャン技術だと解釈してきた。物語の冒頭でも、心が数値化された世界だと説明があった。
1期放送時、AIは発展途上とはいえ既にある技術だった。だが、「心の数値化」はよりキャッチーだった。

だが、今の制作陣はAIの方に興味があるらしい。急速に発展するAI技術を取り入れたいのはわからないでもないが、「AIだから公平」は既に時代遅れではないだろうか?

EUのAI倫理ガイドラインを要約すると、AIはツールであり、人間が人間のために運用するものとして規定される。シビュラがひた隠しにする自身の自由意思こそが、AIを運用する上で重視される要素になる。

VVの感想でわたしは既にこの話題について書いた。その時点で、EUの定めたAI倫理ガイドラインは、最終的に人間の手によって運用されるべきだと規定した。
対外的にはAIとして自身を偽っているシビュラは、皮肉にもEUのAI倫理を満たしている。

何が公平かを判断するのは人間だ。
機械に意思はなく、ゆえに基準を定め、責任を負うのは人間なのだ。

「AIの振りをしている人間」が最初からAIになってしまったというのなら、もはや何も言うことはない。
これはパラレルワールドのサイコパスなのだろう。

未来予測としてのSF

100年後の日本を舞台にしたSF作品、それがサイコパスシリーズだった。
1期はさほどSF要素は強くなく、人間ドラマに重きが置かれたミステリ・刑事物だった。2期以降はSF作品として「彼らはどうこの社会へ向き合うのか?」という側面が強くなっている。
しかしこの「100年後の未来」像に関して、今作ははなはだ疑問を禁じ得ない箇所がいくつかある。

SF作品は現実の先を行ってしかるべきだろう。ましてこれは100年後の日本だ。だというのに、3期の移民問題はトランプ大統領の当選やブレグジットするかしないかの瀬戸際で出す問題提起として遅きに失していた。これが個人的な失望の元だった。
1期の鎖国体制は現実が追いつくのに10年近くかかっている。3期の移民問題は、現実が作品を追い越している。全然未来っぽくない。

サイコパスが1期で終わりだと思ったのは、「システムの中で人はどのように生きるのか?」というテーマが完璧に完結して続きが作れないからだった。2期以降、「人々のためにあるシステムとはどのような形なのか?」というSFに傾いたのは、制作側もそれを理解しているからだ。
だが、人間ドラマを作るための箱庭で許されていた小さな穴は、SF作品に仕立て上げる際には塞げない穴になってしまって、今に至るまで修復できていない。

今回、とても未来と思えないシーンが出てきた。
冒頭、〝ノナタワーの密室〟に出席を許された女性は常守朱だけだった(局長は義体なので除外する)。まるで21世紀初頭みたいで未来感がない。
サイコパスは性別をも無価値にしたはずなのに、政治はいまだ男性だけで動いていると国民に見せるのか。

シビュラシステムは男女差別を撤廃した。ついでに同性愛も完全に合法化されている。ジェンダーという束縛は非常に緩やかになった(桜霜学園を見るに〝好事家〟の手によって細々と生き残ってはいるようだ)。
作中で最も社会的地位の高い厚生省公安局へ入省した常守朱は女性だし、公安局局長も女性(型の義体)だ。

100年後の未来という設定を忘れて作られた、現実への風刺かと思ったくらいだ。どう見ても20年前の日本と言うべきだろう。
しかし少なくとも冲方氏は「男女差別がない世界」と思っているようである。制作側で意思疎通ができていないのか、まさかこれが本当に男女差別の撤廃された世界だと言うつもりなのか?

都知事には若く美しい女性(元アイドル)を推奨し、傍目には女性の積極的な政治界進出を描きながら、ノナタワーの密室で政治の実権を握っているのは黒スーツの中年男性。
男性陣に若い女性が楯突いてはあしらわれている構図は、100年後の日本として最悪だ。

AIに関してもそうだ。前述のように、EUのAI倫理が定められた後でよりAIらしさを増すシビュラシステムを見せられても……と思ってしまう。

つまるところ、全体的にシミュレーションが足りていないように感じる。
海外へ話を広げたがっているようだが、であれば海外がどうなっているのか、とりわけ欧米がどうしているのかを描くべきだろう。
(インタビューを読む限り、冲方氏はコロナで鎖国状態の日本が嫌いなようだからこういう展開へ持って行ったのかもしれない)

作中に登場した海外はSEAUn(東南アジア)、SS3の東南アジアくらいだ。SEAUnはシビュラシステムを輸出した、すなわち紛争地帯を安定させるために人々がシビュラシステムを選択したという話だ。これではシビュラシステムを脅かす外国たりえない。

ストロンスカヤ文書が世界に与える影響がいまいち見えづらかったが、それ以前にそんな膨大なリソースを食うような数式を計算できる国が日本以外に存在しているのだろうか。
地上に残った最後の楽園が日本だった。チェグソンは命の危険を冒して、無人フリゲート艦の猛攻をかいくぐって密入国した。それだけの価値が日本にはあった。

世界が復興していくのは当然だが、あまりにも話がふわふわしていてリアリティがない。シビュラを脅かすものの具体性が欠如しているのは、世界観の描写として片手落ちだと思う。

1期が「日本だけが地上に残された楽園です。他の地域は混乱していているので鎖国します。海外の話はしません」と話の範囲を制限してうまくまとめていたのだから、海外へ話を広げるためには海外情勢の説明が当然必要だろう。それをしないでよく話を広げられると思ったものだ。
正直、何を出し惜しみしているのかよくわからない。さじ加減を誤っているようにしか感じない。

国際法について話に出されていたが、日本が本当に開国するなら「法の存続」うんぬんの問題ではない。潜在犯の非人道的な扱いで、人権侵害に積極的な危険国家に認定されて袋叩きにされるのではないか。
法の話をする割には潜在犯の人権問題に興味が薄く、そこがどうにも理解できない。
(そもそもドミネーターを使わないせいで、潜在犯認定されて収容される人間の描写が激減しているのもあるだろうが)

3期・FIのラストで監視官の同行もなく出歩いている宜野座と狡噛には驚いたが、PPPでも潜在犯が劣悪な扱いを受けるという設定を忘れているようだ。
朱が一時的に制限を解除(?)して執行官の宜野座に現場の指揮権を与えるシーンがそれだ。潜在犯にそんなに人権あるなら、なぜ宜野座は潜在犯の子として石を投げられ、征陸を毛嫌いしていたのだろうか。
潜在犯の人権が部分的に認められるようになったなら、その変遷を描くべきだ。
繰り返すが、例外ばかり登場するのはどうかと思う。

今回さらっと登場したが、外務省職員が脳に翻訳チップを埋め込んでいるという設定が登場した。
セキュリティが脆弱すぎるし、医療目的以外での義体化には否定的な世界観で生身の身体能力を拡張するのはなんだかそぐわないという印象だ。後でハックして皆殺しにするためのツールにしか見えない。
(ここでいきなり攻殻みたいになって、いやそういうのは攻殻で見るので……と思った。攻殻がやりたいなら攻性防壁も入れておくべき)
てっきり出島で居住する外国人に母語の維持を許しているのは、外務省の人たちの外国語教育のためかと思っていたが、別にそうでもないようだ。

サイコパスは刑事物・ミステリからアクション・軍事物へ方向転換した。それはそれで構わないが、アクション、ミリタリに寄せたいならちゃんとした装備を支給してほしい。せめてヘルメットくらいはあってしかるべきだろう。
黒スーツだけ、時々防刃ジャンパー、たまに防弾チョッキで装甲服の完全武装歩兵と戦うなんて刑事ではなく特殊部隊員だ。


※以下は冲方氏とわたしの政治的信条の話なので、そういうのが嫌な人はスキップしてください。


移民・海外の描写について

観念して白状するが、わたしは海外で生まれ、幼少期に親に日本に連れてこられ、20歳で日本国籍になった帰化日本人だ。
だからこの問題の取り扱いには非常に敏感だし、3期では失望を通り越して激怒した。

3期では、一貫して移民政策の描かれ方には疑問を抱いていた。なぜ移民を入れるのかわからないからだ。
今回、慎導篤志が「復興する海外に日本が取り残される」というような主張を述べた。
ようやくシビュラが開国に向かう理由が提示されたのはいいが、前述のように、やはり説得力がいまひとつだったなと思う。

今回も宗教が登場したが、正直もう勘弁してほしい。
宗教が人を救う描写はもっと入れた方がいいのではないか。犯罪の隠れ蓑としての側面をメインに出されるのはいかにも日本的で、開国しようとしている設定との食い合わせが悪い。
3期を見てびっくりしたし、今回も同じ路線なのか……とちょっとがっかりした。

冲方氏のインタビューを読んで、どうやらうわべだけ社会問題を取り入れて「社会派アニメ」っぽく見せているのではなく、本気で移民問題をやりたかったらしいことを知った。
わたしは冲方氏の政治的信条に興味はない。だが、向こうがストーリーに盛り込んでくるというなら話は別だ。

他人の始めた物語、その続編に自分の政治的姿勢を入れるのは元のファンの反感を買いかねない。それに自覚的に作っているのだろうか?

たしかに日本は自由主義・民主主義を掲げているけれども、実態は「日本主義」にほかなりません。日本国内での外国人差別は珍しくないし、コロナ禍での入国制限然り、日本人という画一性を守ることに頓着しています。

『劇場版 PSYCHO-PASS』最新作を脚本の冲方丁が痛感した“日本の異質な自国主義”

冲方氏は日本を「自由主義・民主主義ではない」と発言したが、わたしの生まれた国には今なお選挙制度はない。一緒に帰化した母が「選挙に行ったんだよ」と興奮しながら本国の親戚に言ったところ、「選挙って何?」と返された。そういう国は普通に存在している。海外とは欧米だけを指すものではない。
はっきり言って、移民当事者としては何も現実味を覚えない。この先もたぶんないのだろう。

「シリーズ化」とは概してそういうものであるが、大きく設定した舞台の中で話を小さくまとめて綺麗に終わらせていたものを、再開して話を広げると小さかった穴が広がってしまうのは否めない。

あと花城フレデリカの話はほしい。アニメだといつになるかわからないのでスピンオフ小説とかでどうですか?


わたしもみなさんの意見をお聞きしたいので、よろしければマシュマロを下さい。
「ここの部分には同意しない」という意見でも構いませんが、最低限の礼節は守ってください。


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