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枢木スザクの亡霊、あるいは孤独の象徴ゼロについて(『コードギアス 復活のルルーシュ』感想)

※書いている人間は死別要素込みでスザクとユフィを推しています。
※個人の感想です。テレビアニメ版とはパラレルと解釈しています。

ルルーシュの「復活」とC.C.の望みについて

『復活のルルーシュ』のあらすじとしては、誘拐されたゼロ(スザク)とナナリーを助けるために動く黒の騎士団、そこにたまたま居合わせたC.C.とルルーシュが助太刀に向かうストーリーだ。
でも、この物語の中心は二人の救出にない。これは、一度死んだルルーシュが罪を清算し、周囲の許しを得て、新しい一歩を踏み出すための物語だ。
そしてわたしにとっては、テレビアニメでぶん投げられたC.C.のための物語だった。

ルルーシュが蘇った経緯と、それにルルーシュがどう感じていたかはほとんど語られることはない。C.C.がわがままを発揮して勝手にルルーシュを呼び戻した――それだけの理由で済まされる。
C.C.は徹底して己の感情に従って行動する。崇高なる理念などというものは彼女にはない。彼女は魔女を自称し、それを言い訳として好き勝手に振る舞う。
だから、この理由付けは非常に上手い構成だったと思う。

正直に言えば、ここでルルーシュが生き返ったことを皆があっさり受け入れているのは物足りなかった(Cの世界やらのオカルト的要素については、もはや言及しない。そのあたりの説明は投げてしまった物語として受け止めるしかない)。
と同時に、C.C.をエクスキューズにするのは賢い手だ。C.C.がそうしたかったのなら仕方がない、と解釈できる程度には、C.C.は勝手に振る舞ってきたからだ。

さまざまな大人の事情を伺わせるテレビアニメ版と違い(放送時間の変更とか大変だったらしいですね)、『復活のルルーシュ』の構成は安定していたと思う。
とりわけ、ルルーシュが許しを得るまでの道のりはロジカルに組み立てられている。

ルルーシュが生き返ったのは本人の意志ではなくC.C.のわがままなので、ルルーシュが自らの命を賭したゼロレクイエムへの決意は消えない。
生き返ったことの責めをルルーシュが負う必要はないし、C.C.は徹底して己の感情に従って動くファムファタルだから、C.C.なら仕方ないな、という気持ちになる。
ある意味でルルーシュの最大の被害者だったスザクがルルーシュを恨んでいないどころか不在を寂しがることで、生き返ったルルーシュの居場所は用意される。
そして、ルルーシュが言い訳にしてきたナナリーがルルーシュを許すことでルルーシュの贖罪は終了し、L.L.として第二の人生が始まる。
細かい整合性を置き去りに、ものすごい勢いで走って行ったテレビアニメ版とは別物に思えるほどの安定した構成だ(センセーショナルさを売りにするジェットコースター的脚本が悪いとは言わないが)。

わたしとしては、このハッピーエンドはルルーシュのものではなくC.C.のものなのだと思う。
簡単に言えば、ファンディスクのC.C.ルート・トゥルーエンドという感じだ。

ルルーシュは本人の意思を無視されて生き返った。
彼は、この世の何よりも大切だったナナリーとは共に生きられない。人の摂理を外れたルルーシュは、永遠の孤独をC.C.と共に生きることになる。
生に倦み疲れていたC.C.は、ルルーシュという伴侶を得て、生き続けることに前向きになる。

スザクの視点から見れば『復活のルルーシュ』は決してハッピーエンドではないが、C.C.の視点で見れば、彼女にとっての幸せとして美しい形をしている。
C.C.の望みは死ではなかった。彼女が本当に望んでいたのは、孤独からの解放だった。
だから、C.C.の視点に立てば、この物語はこの上なくハッピーエンドだろう。

ゼロレクイエムの意義とルルーシュの得る許し

わたしはリアタイこそしていなかったが、ストーリーをうっすら知っている状態だったので、映画の予告を聞いた時に「何故ルルーシュが復活したのか」とかなり疑問を感じていた。
死んだ人間が生き返るタイプの物語ではないのもあるし、ルルーシュが生き返ることによってゼロレクイエムの意義が薄れるのではないか、という点が非常に気になったからだ。
そしてこれは、発表当時に多くの人が抱いた疑問と同じだろう。

何としてでも生きたがっていたルルーシュが死に、死にたがっていたスザクが生き続ける――それが二人の罪と罰であり、世界を相手に繰り広げた茶番劇の顛末だった。
あちこち伏線回収を放棄しつつも(R2登場のラウンズたちに至っては十分な掘り下げもなく、スザクとカレンの引き立て役に終始してしまった)、視聴者の斜め上をかっ飛び続けた果てのセンセーショナル極まりないエンディングによって、『コードギアス 反逆のルルーシュ』は人気を博した。
(当時、友人がしばらくルルーシュの喪に服していたのをわたしははっきり覚えている)

しかし、死を以て為した悪行の償いとしたルルーシュが生き返ってしまえば、物語は台無しになる。ルルーシュとスザクで分かち合っていた罪と罰の構図が崩れてしまう。
終幕の衝撃の喪失を回避するという意味でも、スザクはルルーシュの――そして物語全体のツケを払わされているように思う。
完膚なきまでに終焉を迎えた物語を再開するにあたって、皺寄せを一身に受けるのがスザクだ。

ゼロレクイエムの功罪の移行

ゼロレクイエムを無為にしないためにも、罪は罪でなければならない。
一度死んで罪を償ったルルーシュは、皆から許されることで取り戻した罪を雪ぎ、贖罪を終えなければならない。罪が許されなければ、ルルーシュは何の気兼ねもなく旅立つことができない。
そのためには、ルルーシュとスザクで分かち合っていた罪と罰をルルーシュ一人に移す必要がある。

スザクはこの平和だった一年を「ルルーシュの作った平和」と呼んだ。この台詞で、ゼロレクイエムの功罪はルルーシュ一人へ移行する。
この一年の平和を守っていたのはスザクの方なのに、彼はどこまでも自己肯定感が低く、自分の功を認めない。そのくせ罪は手放さない。
ゼロレクイエムで死んだ人間はあまりに多すぎて、なかったことにはできないからだ(小説版によると、ルルーシュがシュナイゼルに勝利してからゼロに暗殺されるまでの2ヶ月間で失われた人口は8000万人に上るらしい)。

だから、ルルーシュがすべての罪を持って行ったような演出で、ルルーシュもそのつもりでいるのに、スザクだけが煉獄の炎に焼かれ続ける。
エンディングでそれぞれにハッピーエンドが訪れる物語の中でスザクだけが幸せと隔絶しているのは、ゼロレクイエムの意義を――犯した罪を背負う人間が必要だからだ。
(ルルーシュとスザク二人で引き起こしたゼロレクイエムの功罪が『復活のルルーシュ』ですべてルルーシュ一人に移行してしまったことに関して、わたしはたぶんずっと納得しないだろう。それは二人のものだった)

ゼロレクイエムを頂点とした数々の悲劇はスザクに集約され、そのスザクが再び仮面を被り、物語の中心から降りることで透明化する。
そして、ルルーシュが言い訳にし続けてきたナナリーがゼロレクイエムを肯定して、物語はハッピーエンドを迎える。

(ルルーシュの独り善がりだったゼロレクイエムを脚本が肯定したようで、わたしとしては据わりの悪さを覚えるのが正直なところだ。このようなスザクとナナリーの扱いは、物語の構成上の限界でもあったように思う)

ルルーシュの得る許し

前述したように、ルルーシュが許しを得るまでの工程はロジカルに組まれている。
戦後の体制を象徴するゼロとナナリーがルルーシュを認めることで、ルルーシュの前途は受け入れられる。

逆に、許しを与えないキャラクターは排除される。
同窓会的な物語なのにジノがあまり活躍しないのは、ルルーシュとそれほど縁がなく、許しを与えることができないからだ。むしろジノが登場することによってスザクは舞台から降りられなくなる。
それゆえジノは、遠い地で焦りを見せるだけの役回りになる。

これらのテクニカルな構成に対して、配置されたキャラクターたちがルルーシュを許す理由は「ルルーシュのことが好きだから」にことごとく帰結している。
(そこはもっと丁寧に葛藤してほしかった。でなければルルーシュの罪を軽んじていることになる)

なぜそういう理由付けなのか?――ルルーシュが言い訳もせず、許しも請わないからだ。
ルルーシュは結果を重視する。過程で生じたことは後からとやかく言わない。無意味だと思っているからだ。
これは『反逆のルルーシュ』でずっと描かれてきたルルーシュの性格だった。

「許し」には「謝罪」もしくは「釈明」が必要になる。非のある側が謝罪すれば、被害を被った側も振り上げた拳を下ろすことができる。それが人間関係の修復の仕方だ。
そのプロトコル通りに、「土の味」でスザクはルルーシュに言い訳を求める。言い訳があれば、スザクはルルーシュを許してやるつもりだったのだろう。ルルーシュが言い訳さえしてくれれば、ナナリーのためだったのだと言ってくれれば。最初から許すつもりで、スザクはルルーシュを問い詰めた。
しかし、ルルーシュはそれを蹴ってしまう。だからスザクの方から歩み寄る。

生き返ったルルーシュでさえ、「抗弁はしない」と言い放つ。
スザクはきっと、ルルーシュに抗弁して欲しかっただろう。許すための言い訳を求めたのに、ルルーシュはまたもや口にすることはなかった。スザクに殴られるのを甘んじて受け入れることで、己への罰とした。
とても独善的で、そして、それこそがルルーシュらしさでもあった。

ルルーシュは許しを請う性格ではないから、許されるための行動を取らない。そんなルルーシュが許されるためには、許す側の譲歩に寄るしかない。
釈明や謝罪がろくにない状態で許すには、「ルルーシュのことが好きだから許してやりたい」という動機付けになる(人の好意に依存していると言い換えてもいい)。
好きな人を憎み続けるのは疲れるからだ。

ルルーシュは常に自分が正しいと思ってるから、許されたい(=自分の過ちを認める)とも思ってないだろう。
けれど、そんな身勝手独善自己完結野郎を「ルルーシュだから仕方ないな」と皆が許してやれるのは、キャラ造形が抜群に優秀だからだ。
ルルーシュは頭が良くて弁が立つ。よく喋る方が絶対に周囲の理解を得やすいから、賛同者を得やすい。自罰意識で口が重すぎるスザクが孤独でいるのとは対照的に。
独善的なのは逆に言えば目的意識が明確で実行力もあるということだ。そこが迷っている人間には眩しく見えて、強い求心力を発揮する。

だから誰もルルーシュを憎みきれず、好意を捨てきれず、生き返ったルルーシュを受け入れる。その筆頭がスザクだった。

スザクの与える許し

スザクはルルーシュが本当に生き返ったのかと戸惑い、肌に触れて一瞬の喜びが湧き上がるもすぐさま霧散し、殴りかかる。そして、「君が生きていてよかった」と言う。
すべての人間関係がちぎれてしまった死人のスザクには、ルルーシュしか残されていない。ユフィからもらった騎士章さえ置いてきてしまったスザクに残されたものは、その身ひとつと、罪と罰を共有していたルルーシュだけだ。

だから、スザクはルルーシュを許す。さんざん殴っておきながら、「君が生きていてよかった」「君がいない世界は思ったより孤独だった」と穏やかに言う。確執の何もかもを過去にして、今を生きるルルーシュを受け入れる。扇とヴィレッタの結婚式の動画を見ながら、自分は仮面を被り続けながら、周囲の人間を祝福し続ける。
自分には永遠に訪れない幸福を。一度はユフィと共に掴みかけ、ユフィと共に葬り去った幸せを。

スザクはずっと、心の底ではルルーシュを許そうとしてきた。
「許せない人がいる」と、ルルーシュを許せないとシャーリーに言ったのは、そう言わないと許してしまうからだ。
初めての、そして唯一の友達だから許してやりたくて、でも許してしまえばユフィへの忠節に背くことになる。ユフィを殺した人間を、ユフィに汚名を着せた人間を、スザクだけは許してはならなかった。その板挟みでスザクは苦しみ続けてきた。
叛道のラスト、ユフィの肖像画の前で彼女の声を反芻しながらルルーシュを憎みきれずにいたように。

ルルーシュが許されるための布石は、総集編三部作の時点から打たれていた。
叛道でスザクは「記憶のないルルーシュに罪はない」と言う。これは『土の味』でルルーシュの頭を踏む前の時点だ。
正直に言えば、この台詞はあまりにもルルーシュにとって都合がいいので、「言わされた」台詞のように感じていた。でも、その後の展開を考えると、スザクはルルーシュのことを信じたくてたまらなくて、「罪のないルルーシュ」を探していたのかもしれない。

ずっと昔、仲良く笑っていた頃の、妹思いの優しいルルーシュの姿を、スザクは忘れることができなかった。
(同様に、ルルーシュもただ一人「人間」として認めたスザクをずっと大切に思ってきたから、スザク本人の意思で賛同してほしくて、ギアスで言うことを聞かせることができなかった)

物語開始時点から、スザクは孤独だった。
彼にルルーシュ以外の友達がいた描写はない。何不自由なく過ごせた幼少期でさえ、スザクは家や父の名によって孤独であり、母は亡く、父は息子に無関心で愛情深いとはとても呼べない。
だから、ルルーシュにとって初めての友達がスザクであったように、スザクにとってもまた、ルルーシュが唯一の友達だった。

だいたいにして、10歳の時に一年くらい仲良くした子と7年間も音信不通だったにしては、お互いに近すぎるだろう。
環境に翻弄される者同士、親しい間柄になれる人は少なかったせいで、互いに過去を美化している節はあったように思う。
(その歪みが出ているのがマオの一件だろう。ルルーシュはスザクの父殺しを知った時、踏み込めなかった。すっかり変わってしまったスザクに、ずっと自分に黙っていた事実に戸惑い、どこか恐れてもいたのだと思う)
たぶん、ルルーシュと過ごした幼少期の思い出は大事に記憶の宝箱に仕舞い込んで、実家を出奔した後、孤独に耐えかねた時にはそっと取り出して眺めていたのではないかとさえ思う。

ルルーシュのかけた「生きろ」というギアスが健在だったのはとても悲しくて、そして同時にとても美しい友情の残骸だ。
スザクの人間関係はルルーシュ一人に収束する。彼の得たものはことごとく失われ、残ったのはルルーシュだけだった。そのルルーシュを殺してしまえば、後にはルルーシュがかけた願いであり呪いであるギアスだけになってしまう。

ある意味で、ルルーシュの最大の被害者はスザクだった。だからこそ、スザクはルルーシュを許す。
最もルルーシュを憎んでいた頃である『亡国のアキト』の時でさえ、首を絞めて本気で殺そうとしたくせに、殺しきれなかった。殺せる力があるのに、思い切ることができなかった。
悲しいほどに自分を顧みることのないスザクの、途方もない優しさだった。

世界と直結するルルーシュ、世界から隔絶するスザク

バッドエンドを迎えた物語をハッピーエンドに持っていくために発生したいろんな皺寄せがスザク一人に向かっている、それを許容できるか否かがこの映画に対する評価の分かれ目の一つではないかと思っている。

『復活のルルーシュ』は見終わった直後、「みんな幸せそうでよかったね」と「スザクだけ幸せになれないのにハッピーエンド面するな!」という相反する感情に引き裂かれてなかなかにつらかった。
ルルーシュはスザクを始めとして皆から許しを得た。ではスザクはどうしているかと言えば、彼は何も変わらないからだ。
ゼロレクイエム後から変わらなかったのではない。スザクは、ストーリー開始時から何も変わっていない。

ルルーシュ-スザクという対の終焉

ブリタニア人でありながら日本独立のために戦うルルーシュ(ゼロ)と、日本人でありながらブリタニア側に立ってレジスタンスの日本人と戦うスザク。ブリタニアを憎むブリタニア人、日本人のくせにブリタニア側について戦う裏切り者。
ブリタニアの皇子であったルルーシュは廃嫡され、地位を失ってアッシュフォード家にかくまわれている。日本有数の名家であり、旧支配者層に属していた枢木家の嫡男スザクは、日本敗戦とともに被差別階級へ転落する。
無力だった二人は、片や超常の力・ギアスを手に入れ、片や最新鋭ナイトメアフレームのパイロットに見出される。
父を殺そうとするルルーシュ、父を殺したスザク。
この二人は立場のねじれた対として描かれてきた。

けれども、ルルーシュはC.C.の手を取って、表舞台から去った。
つまり、スザクと成していた対は、この物語で完全に消え失せた。

かつてルルーシュの対として置かれていたスザクは、ゼロレクイエム後には孤独の象徴と化している。隣には誰も立てない。だから、復活したルルーシュはスザクではなくC.C.の隣に立つ。
ルルーシュが必要としたのは、スザクではなくC.C.だった。
そうして対を失ったスザクは、ストーリーの中心から外れる。

スザクが脇へそっと引いてしまったから、ユフィの話はメインストーリーから切り離されてしまう。スザクは何の確執もなく、ただただ純粋にルルーシュの生き返りを祝福する。すべてを失いながらもルルーシュを捨てられなかったスザクは、やっぱりルルーシュを唯一の友達としたままだった。

スザクがルルーシュを許すにはユフィの汚名が雪がれたかどうかが重要だと思っていた。でも、そこには何も言及されなかった。
かつてルルーシュがスザクを逆上させた台詞のように、彼らの間に横たわる事象の数々は「すべては過去、終わったこと」に成り果てている。虐殺皇女ユーフェミア・リ・ブリタニアと裏切りの騎士・枢木スザクは、過去のものとなった。その汚名が雪がれる時は、きっと来ない。そして、スザクはそれを完全に受け入れてしまっている。
それがわたしはとても寂しかった(カットしないと話がまとまらないのはわかるが……)。

ユフィの件はもう解決する術が皆無だから、ストーリーから切り離すしかない。だから、『復活のルルーシュ』はなんとなくふんわりしたハッピーエンドという印象だった。
ユフィの汚名を雪ぐにはギアスについて明らかにする必要がある。しかし、それをやるとゼロの求心力が落ちるどころか悪に転落して、せっかく手に入れた平和が台無しになる。だから、もうどうしようもない。

嘘を吐いていようがなんだろうが、平和は平和だ。世界の真実など知らなくとも、平穏な日常は送れる。むしろ真実が平和を脅かすなら、何も知らない方がいい――盲いた幸福だろうが、上から与えた幸福だろうが、その他多くの人々には関係ないし、関心もないだろう。
その幸福の在り方も、平和を維持するために汚名を被り続けることも否定しないけれども、物語を外から俯瞰する立場から見れば、ずっとしこりが残り続けている。

『復活のルルーシュ』はルルーシュが生き返ることを軸として組まれている。彼がどうして生き返ったのかは重要ではない。動機も仕組みも、簡単な説明で済まされる。
『コードギアス』の世界観の一部を成していたオカルト的要素は、完全に舞台装置と化している。『亡国のアキト』で登場した時空の管理者は、まるでなかったことにされている。
ルルーシュが生き返ってどうするのか、それがこの物語の主題だからだ。

仕方のないこととはいえ、ゼロレクイエムは肯定され受け入れられてほしくなかった。誰か一人くらい、ルルーシュを許さなくてもよかった。
追い詰められて思い詰めた少年たちが馬鹿げた策と知りながらそれしかないと悲壮な決意を固めて実行したものを、決して肯定してはいけなかった。
ナナリーにはもっと詰ってほしかった。物分かりよくルルーシュを肯定しないでほしかった。ルルーシュを愛しているからこそ、自分を置いていく身勝手さを責めてほしかった。私の幸せにはお兄様が必要なのだと、勝手に私の幸せを決めないで、勝手に世界を決めつけないで、と。

「世界」とルルーシュ

『反逆のルルーシュ』はセカイ系の一種だったのではないかと思う。世界を舞台にしているくせに、モブの存在感が希薄だからだ。

名誉ブリタニア人部隊は何を思って同胞殺しに加担するのか、スザクでさえ十分には語られず(この命題は『亡国のアキト』に持ち越された)、租界内で差別される名誉ブリタニア人たちや租界の外の圧倒的多数派のイレヴンたちの描写は常に不足していた。
ルルーシュが関心を持たない要素は描写をカットされる方針で、物語は作られていた。

これは、個人間の争いが国家間に拡大した物語だからではないだろうか。
国家にとってモブ(一般市民)は庇護の対象だが、個人にとっては赤の他人だから簡単に無視できる。
ルルーシュは身内にはひどく甘く、他人には冷酷だったから、どうでもいいと思う他者に時間を割くことはない。

『復活のルルーシュ』では、よりセカイ系的に見えた。
徹底的に、死んでいった民衆の姿は隠される。ルルーシュが殺してきた数多の人々が蘇ったルルーシュの姿を見ることはなく、もちろん恨みを募らせて殺しに来ることもない。

スザクを含む皆の矢印は常にルルーシュに向かい、世界はルルーシュを中心に回り続け、すべての因果がルルーシュに集中している。ルルーシュ抜きで維持された平和の話は語られない。
ゆえに、ルルーシュが許され、受け入れられれば、世界に対して犯した罪は償われる。ゼロレクイエムはナナリーという戦後秩序の代表に肯定されることで、意味を転換させる。

あまりに潔い構図だろう。だからこそ、スザクを物語の中心から遠ざけなければならなかった。

物語の中心から降りるスザク

歴史の表舞台から退場するのはルルーシュだが、一方で、物語の中心から退場したのはスザクの方だった。

『反逆のルルーシュ』はルルーシュ視点で描かれる。スザクを初めとして他キャラクターにモノローグの機会はほとんど与えられない。そういう意味では、『復活のルルーシュ』は『反逆のルルーシュ』の紛れもない後継だ。
(ルルーシュとスザクは対だったと思っているが、さすがにW主人公とは呼べまい)

スザクが永遠に救われないことに異論はない。むしろスザクとユフィの関係性の正しい形とさえ思っている。
スザクを救えるのはユフィだけだった。過去のスザクから逃れられず、現在のスザクに戸惑っていたルルーシュではなく、今の自罰意識でがんじがらめで他者からの好意をゆるやかに拒絶するスザクに強引に好意を押しつけるユフィでなければ救えなかった。
(ユフィはルルーシュのことも救おうとしたけれど、たぶん、ユフィに救われたスザクでなければルルーシュは救えなかっただろう。ルルーシュはスザクを救えず、スザクはユフィを救えず、ユフィはルルーシュを救えなかった)

スピンオフ小説のセシル視点で描かれた戦後処理とナイトメア博物館の話が、わたしはとりわけ好きだった。
この話は、誰もいない博物館に現れたゼロがユフィの騎士章をランスロット・アルビオンの前に置いてくるシーンで幕が引かれる。
とてもむごたらしくて美しい、孤独の完成形だ。地の文でさえ彼の名前を呼ばない。仮面の下の個は死んだので。
だから、スザクに救いを期待したことはないのだ。それが彼の選んだ生き様だから。

けれど、そうしてスザクが物語の中心から降りたせいで、ユフィの代わりにはならなくともせめて彼に理解者は現れないのか、という可能性も消えたのがひたすらに悲しい。
スザクが救われて欲しいとは微塵も思っていない。ただただ、物語が彼を映さなくなったことにわたしは落胆した。
(カレンもR2では戦闘要員・お色気要員としての側面が強くなっていたので、スザク-カレンの対比としてはおあいこなのかもしれない)

皆が享受する幸福の出所に対して、あまりにも無関心ではないのか? 人間一人を象徴に徹させていることへの責任感を誰も感じていないのか? ゼロ=スザクの献身は誰になら認めてもらえるのか? 仮面の下には一人の人間がいることを忘れていやしないだろうか?
スザクは自分のおかげとは決して思わないから、誰かが代わりに感謝を示してやらないのか?
ユフィの代わりはいなくとも、誰か、ほんの少しだけでも、許さなくていいから、スザクの努力を認めてやってはくれないのか?

一瞬の死と続く生で何故釣り合うかといえば、死が不可逆だからだ。そこを『復活のルルーシュ』は覆してしまった。
死は断絶であり、終焉だ。生は変化し続けることだ。なのに、スザクだけが何も変わらない。
自分に力があると、父を殺せる力があると知った日から、「この力を自分のために使わない」と決めた日から、正しさの拠り所を失ったまま生き続けている。
焼け野原と化した土の上を、焼けた家の残骸と死体の転がる中を、死臭を嗅ぎながら子どもたちだけで歩いていたあの夏の日の、泣き出して歩みを止めてしまったあの日のまま。
正しさを外注せざるを得なくなり、ブリタニアの「悪法」に従って征服者の走狗に成り下がっていた時と同じように、ルルーシュの敷いた正しさのレールの上で、スザクはゼロを演じ続ける。

ゼロレクイエムの功罪がルルーシュ一人に移行したから、スザクの「罪」は消滅する。それに呼応した罰――すなわち「生き続ける」ことも透明化する。それに伴い、スザクが「許し」を得る機会も消滅してる。だって罪はないのだから。
だからスザクは、またもや得ることのない罰を求めて自分を捧げる構図を一人でやり直している。
果てのない贖罪を。父を殺した罪と罰を求めた時と同じように、今度はゼロレクイエムの罰を。ルルーシュが持っていったはずの罰を。

永遠の孤独の象徴・ゼロ

「王の力はお前を孤独にする」とC.C.はたびたび口にした。力を得た代償として、幸せな結末は訪れない――人の理を外れた力を得た者がただの人として生きることはできない。
この台詞は『亡国のアキト』でも使われた。それくらい、物語を象徴する印象深い台詞だった。
しかし実際には、ルルーシュにはC.C.がいて、シンにはジャンがいて、レイラにはアキトがいた。孤独になったのはスザクだけだった。

孤独で孤高な平和の象徴、平和を維持する機構の一部、世界秩序の体現、人の姿をした抑止力――ゼロとなったスザクに課される役割は、彼を人であってはならないものとした。
人の姿をしているのに人のように振る舞ってはならない。個人の幸福を放棄し、老衰で死ぬ瞬間まで世界に隷属・奉仕し続ける。
孤独に始まったスザクは、孤独に終わった。

ルルーシュは常に隣に誰かがいる。長らくそれは血を分けた妹、ナナリーであり、ナナリーに話せないことばかりになったゼロ=ルルーシュにはC.C.がいた。
でもスザクには誰もいない。誰も残らない。
ユフィは死んでしまった。ジノはスザクの方から手を離してしまった。ルルーシュを殺しておいてその実妹ナナリーと親しくできるほど、スザクは厚顔ではない。
(R2を見始めた頃はジノにスザクの友人ポジションを期待していたので、スザクが自分でジノの手を振り切ってしまったのはとてもショックだった)

永遠の孤独の象徴として孤高に君臨するゼロ=スザク、自分が築いた死体の山の上でユフィの遺影を胸に抱いて煉獄の炎に焼かれ続ける枢木スザクの亡霊、という造形自体はとても好きだった。
ランスロット・アルビオンの前にユフィからもらった騎士章を置いてきてしまうゼロも、とても残酷で好きだった。
ただ、『復活のルルーシュ』は皆がそれぞれの幸せの形を見つけているから、対比されるゼロ=スザクの悲惨さが際立ちすぎているきらいがある。

人間は社会性の生き物だ。誰かが隣で手を握っててくれる、それだけで困難を乗り越えられるし、誰も隣にいないことの悲惨さは数多の悲劇の中でも群を抜いている。
大切な人を失うこと、行動を誤解されたり裏目にでてしまう不運、そして己の意に反した行いを強要される悲劇よりも、寄り添って立つ理解者が一人もいない孤独こそが最も悲惨だ。
それをスザクは身をもって立証した。

ルルーシュを写し続ける物語の中で、ゼロになったスザクはストーリーの中心から外れてしまった。
だから、「せめて彼に理解者は現れるのだろうか?」「わずかばかりでも安寧の時は得られたのだろうか?」という問いに対する答えも出てこない。
この世すべての悪を背負って死んだルルーシュからこの世すべての業を引き取ったように、ゼロ=スザクだけが平和のために築かれた死体の山を覚えている。
死体の山の最後の一人だったルルーシュが去ってしまったから、ゼロ=スザクは墓守として、血塗られた平和を孤独に守り続けなければならない。

スザクがゼロの仮面を被ることで虐殺皇女を殺した「功績」まで引き受けることになってるのは作中でも屈指の可哀想さだと思う。
個人の幸せを投げ打つだけでなく(とっくに捨てているのでルルーシュに遺言として言われるまでもない)、唯一心を開いたユフィの仇を演じ続けないといけないのは、どんな心境なのだろう。
その心境が語られる機会を得られなかったことが、悲しくてたまらない。

頭脳はシュナイゼルが担っているから、ゼロの出番はない。争いがない平和な世界ではゼロは文字通り象徴であり、生きている人間であってはならない。
ゼロは平和を維持する機構の一部と成り果てた。つまり、ユフィと親しくなる前の機械になりたがっていたスザクの願いが叶ったことになる(これは結構ひどい構図だと思う)。

戦いたくないのに戦わなければならない――それなのに戦う力を持ち、戦いに向きすぎているスザクは、貧しい国土ゆえに傭兵稼業しか外貨獲得の手段がないジルクスタンとよく似ていた。
停止した時空でどこにも行かず、いずれ死んでやってくる弟を待ち続ける姉シャムナと同じように、スザクもどこにも行かない。進むべき道はとうに途絶えてしまったから。

職業軍人として殺人が合法化されていたにもかかわらず、スザクだけが罪の意識を抱えている。レジスタンス/黒の騎士団は、(視聴者の心情はともかくとして)非合法的に殺人を行ったが、日本の独立を成し得た今となっては、罪の意識は描写されない。
たった一人、スザクだけが、血塗られた平和の下に築かれた死体の山を覚えている。ルルーシュが罪を持って行こうとしているのに、それを拒否して、死体の山の上に座り続けている。

わたしは『復活のルルーシュ』を全く楽しめなかったのではない。
楽しめた部分も間違いなくあったからこそ、エンディングで皆が前を向いてそれぞれの幸せを見つける中で、ひとり佇むゼロの姿に心を掻きむしられるような気持ちになったのだ。

結婚式で酔っ払って手を取り合って踊るロイドとラクシャータも、ギアスを使いこなして生き生きしているシュナイゼルも、絡み合ったしがらみから解放されてみんなが一致団結してジルクスタンに立ち向かうドリームチーム的展開も、一人で立ち去ろうとしていたC.C.が追いかけてきたルルーシュに微笑むのも、とてもよかった。
ルルーシュとともに、一時であったとしても死人から生き返ったスザクが、かつて敵対し続けたカレンと肩を並べて戦う姿は嬉しかった。素顔をさらしてナナリーの車椅子を押すスザクに喜んだ(もしかしたら、ナナリーがスザクの顔をじかに見たのはこの時が初めてだったかもしれない)。

だからこそ、幸せの中に一点の影を落とすゼロ=スザクの姿が頭から離れない。
とても悲しくて、切なくて、涙が出る暇もないほどあっけなく、スザクは物語を降りた。

自罰意識のせいで口が重く、誰にも助けを求められず、助けを求めることが許されないと思い込んで、自縄自縛で勝手に地獄へ落ちてゆくスザクを引っ張り上げることができたのは、ユフィだけだった。

自分ではもう動けないスザクには、強引に手を引っ張ってやる人が必要だった。だから、ユフィもジノも強引にスザクの手を掴んだ。頑として地獄に留まろうとするスザクを。
でも、それは無意味だった。

スザクが救われてしまったなら、罪の意識から解放されてしまったなら、平和のために殺してきた数多の命は意味を失う。
そうならないために、誰か一人がその咎を背負い続けなければならない。

だけど、ルルーシュに許しが与えられるなら、罪を清算して第二の人生が許されるなら、その半分でもいいからスザクにも許しを与えてほしかった。唯一の救いになり得た女の子の遺影を抱いていつまでも自分を罰し続けるしかないスザクに、いつまでも他者からの好意を拒絶しているスザクに。
苦しみから救われることがなくとも、その苦しみに意味があることを、皆の生きる明日の礎となっていることを彼に伝えてほしかった。

だから、せめてわたしはスザクの維持した平和があったことを覚えていたいと思う。
生涯、孤独で孤高でいるゼロを――平和を象徴しながら、その下の数多の死体の墓守になったゼロを。仮面の下の個を。
それでも世界の美しさを――自分のいない明日の美しさを信じて生き続けている、枢木スザクの亡霊を。

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