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折坂悠太らいど2023730/指宿 薩摩伝承館

木の濃い茶色が厳かな空気をかもす建物の中に、いくつも並んだきらびやかな白薩摩。
その間から、男はやって来た。

少し猫背ですたすたと歩き、ステージの真ん中に着いたところで顔をあげた。
客を向いた顔を目にした時、私は、あ、緊張するんだ、と思った。
何となく緊張しない人だろうと、勝手な想像を描いていた自分に気づいた。

ギターの前奏に続いて歌がはじまった。
私の身体中、穴という穴から汗が吹き出るのを感じた。
体の中で行き場をなくし、私を悲しい気分にさせるネガティブや汚れが、いっさいがっさい外に出ていく感じだった。
額から、喉元から汗をかきながら、両手の指先がしびれていた。
びりびりと電気が流れているような感覚だった。

本当は今日、ここに来るのが怖かった。
楽しみは半分で、残りは不安だった。
この人は、怖い人なんじゃないかと思っていた。
この人の歌を生で聴いて私は大丈夫なんだろうか。
受けとめられるんだろうか、壊れたりしないだろうか。不安だった。
けれど最近どうしても惹かれてしまうこの人が、私の暮らす九州の果てにたった一人でギターを抱えてやって来る。
見て見ぬふりはできなかった。
人生の折り返しを迎え、転機の最中にいるとしか思えない今の私が、めぐる時の中で彼の音楽と対面し何を感じるのか、見てみたかった。
彼がここまでやって来る、気概にも応えたかった。

目の前には、たったひとつの体で命がけで歌う男がいた。
爆発するエネルギーを前に私は全身の神経を集中させ、わずかさえ逃すまい、そっちがそう来るならこっちも命がけ、そんな気持ちでただひたすらに歌を浴びた。

途中からは、目を閉じて耳だけで感じた。
声の輪郭は丸みを帯びてやわらかく、あたたかで、混じり気のない美しさだった。
歌が、言葉が、眼差しが、すべてが優しかった。
鬼気迫る言葉を放つ時も、ギターの音程を確認しながら語る時も、高らかにファルセットを響かせる時も、目の奥には優しさと明るい光があった。
美しい瞳をしていた。馬のようだな、と思った。

ああ、この人とはつながれる。
大丈夫。
怖さはすでに無くなっていた。



終演後、サイン会が開かれた。
対面することに躊躇しかけた私の背中を、一緒に来た友人が押してくれた。

二人で行列に並んだ。
少し離れた机に向かい、ペンを動かす横顔。その佇まいに、友人が「文豪だね」と言った。
こんなピュアな人が現実に生きているんだと、私は不思議な気持ちになった。
左手にペンを握りサインをして、ひとりひとりに笑顔を向ける。それがとてもにこやかで、緊張した。私もあの顔を向けられるのか。

順番が近づく。

なんて言おう。
なんて言えばいいの。
この感動を、心のふるえを、満たされた喜びを、私が持っているどうしようもないさびしさを、どう言えばあなたに伝わるのか。
高ぶる感情とは裏腹に、見合う言葉が自分の中に見当たらず、焦った。

先に行って、と私は友人に頼んだ。
「××、良かったです」
明るい声で素直に、ストレートに物言う友人がうらやましい。
ああもう、だよね、それでいいんだよね、と思いながら、私はまだ言葉がまとまらない。

友人の前で彼の左手が動きを終えた。

私は一歩進み、彼の前に本を差し出した。
彼は著書を開き、書こうとするページに視線を落とした。
手に握るポスターカラーの銀色が目に入った。
「銀色、書けますか」
これから書くページの一面のグレーが気になり、思わず発した。
「書けますよ」
そう言って、ゆっくりと彼の左手が動き出した。

ああ、ほら、なんて言うの。
なだらかに線が動く。
ああ、ほら、どうしよう。
時間はあっという間に過ぎる。

さあいよいよ終わる、というその時、
「愛をいっぱいもらいました」
と、口から出た。
感想なのか告白なのか、独りよがりなのか何なのか、よく分からない言葉だった。

ああ違う。違わないけど、違う。
私が言いたかったのはこんな簡単な言葉じゃない。
今の自分の気持ちに一番近くてもっと的確な、詩的な彼に似合う、美しい言葉を言いたいはずなのに。

すると、彼は言った。
「愛をあげました」

それはもう本当に優しい笑顔で。澄き通った瞳で。
彼の中にあるユーモアがにじみ出た、まっすぐな言葉だった。
打算的でなく下品にもならない、スマートで明るい彼の、素直な言葉だった。

あっ、そうか。
やっぱり。
愛か。
それでいいんだ。

彼の歌の中には愛という言葉が出てこないな、と感じていた。
愛という言葉を避けているのかな、と思ったこともあった。
でも、それはすべてが愛だからなのではないか。
この人の存在も、作る歌も、生きる目的も、命の源も、終わりの時も、すべてが愛。
だから私は彼の歌を聴いて涙を流し、命をたぎらせる。そして生きたいと願う。もっともっと、と願う。

今までも今夜も、愛をもらってきた。もらっているのは愛で間違いなかった。
本人がそう認めたんだ。間違いなかった。

私から溢れる感情を、もっと外に出したい。もっと伝えたい。
彼の音楽を伝えたい。声や歌に乗る人間のすごみを、生き様を、尊さを、もっと伝えたい。
言葉をもっと得たい。言葉という道具と、それを使いこなす技を得たい。
磨きたい。自分を、言葉を、感性を磨きたい。
溢れる感情を表現できるように、もっと心や思いにぴったりと寄り添った言葉で、私が感じるすべてを発したい。

私はもっと笑おう。泣こう。怒ろう。歩こう。働こう。そして、許そう。
もっと生きて生きて、生きるのだ。
彼の表現にふさわしい表現ができる私になるのだ。


帰りの車の中、隣に居てくれる友人に感謝が止まらなかった。
ひとりでは抱えられなかったかもしれない。
この夜に起こった出来事と、私から溢れる感情を、共に味わい温かく包み込んでくれる友人の大きさがありがたかった。
「もう、どうしよう。愛をあげたって、言われちゃった。ドキドキだあー」とか言いながら熱く夢を語る私を受けとめてくれる友人もまた、愛だった。

開演前の少し暗めの照明の下で待つ間、「寝そう」と言っていた自分を思い出した。それがおかしくて心の中で笑った。
うれしくて、幸せで、この夜がずっと続けばいいのにと思った。


(↓そして、はじまった道のり。2024年追記)

あなたの幸せがわたしの幸せ☺️💗一緒に幸せを紡ぎましょう✨