【雑記】鬼火が燃えるか?

 論文執筆をしていると違う系統の文章が書きたくなる。論文は8割くらい書けたのでこの辺で発散しとこ。

 沼ソング。で一世を風靡している大沼晶保が、「さくらひなたロッチの伸びしろラジオ」(NHKラジオ第1、2021/10/18放送)で詠んだ一首がこれである。

マッチ箱 火がついたとて 鬼火が燃えるか? 命は強い 弱いは気持ち

 当番組の共演者で歌人・作家の錦見映理子がTwitterで、「大沼さんが大胆な字余りなのにそれをあまり感じさせずに仕上げていたのはかなりすごいと思います」(2021/10/18投稿)と。一見して、この字面でなければならない必然性を感じてしまう、強いリズムが脈打っているように思う。

 さて、この一首であるが、当日のラジオをリアルタイムで聴いていたわけではなく、Twitterで流れてきたのを見たのが最初である。まずはラジオの聴き逃し配信を聴かずに、どういう一首なのかを考えた。反射的に考えさせられたと言うべきか。

 こう思った。用途通りのマッチ1本ではなく、燃やされるのはマッチ箱でなければならない。スリリングな(ちょっと不道徳な?)マッチ箱燃やしても鬼火は燃えやしない。(強い)命だからこそ燃える鬼火なのに、死後も不気味に輝く命を抱えるのに、現実の私の気持ちは弱い。不完全燃焼の私。

 作者自身が語る一首の背景としては、この読みは完全に外れた。聴き逃し配信を聴いた結果、以下のようなことが詩の背景にあったようだ。

 マッチ燃やすぐらいで死なない(鬼火は燃えない)と。なのに極度の心配をしてしまう、現実のマッチに!これが命は強いのに、気持ちは弱い。

 あのマッチに対するそんな強い感度を考えられなかった。穂村弘の言う入力型の詩人であろう。やや脱線して紹介すると、穂村弘『短歌という爆弾』(小学館文庫)第三章「構造図」―「液体糊がすきとおり立つ――入力と出力」には、以下のように説明される。

表現行為としての歌づくりには、入力と出力の二つの面がある。入力と出力の二つ面がある。入力とは外界を感受することであり、出力とは感受したものを実際に言葉で表現することである。詠うべき対象をどのように捉えるかが入力面でのポイントであり、捉えた対象をどのように詠うかが出力面のポイントということになる。
(※章題は、「春あさき郵便局に来てみれば液体糊がすきとおり立つ」〔大滝和子〕から)入力型の歌においては言葉の扱いに多少強引な部分があっても、作者と対象物との生命的な結びつきの強さがそれを感じさせないことがある。一首めの「すきとおり立つ」のどこか舌足らずな言い回しなど、待ち伏せをするような「液体糊」の奇妙な生命感を伝えて逆に効果をあげている。見つけ出した〈導火線〉に迷いなく火をつけるように、感受したものをストレートに言葉に移し替えれば、それは詩として成立してしまうのである。

 歩く導火線・大沼晶保。

 さて、先ほどの一首が何も添削なしの元作品である。これに対して種々のアドバイスがあり、完成したのが、「マッチの火 ついたとて 鬼火が燃えるか? 弱いは気持ち 命は強い」である。反射的には、用途通りマッチを1本燃やすよりも、マッチ箱を燃やしてしまう方に魅力を感じたが、一首の背景としては「マッチの火」が適当なのであろう。

 ここで気になるのが、結論的にわかりやすくする意図があるのであろうが、最後に「命は強い」をもってきたことである。確かに、大沼本人がそのような話し方をしていたので、このような修正となるのもわかる。しかし、こちらの感情が揺らぐのは元作品の「命は強い 弱いは気持ち」だと感じる。そんなに不安にならなくてよいのに不安になる、というこの状態は、強い命から距離があり、乖離している状態だとも言えよう。私が強い命とは別個になると考えてはいないであろうが、歌の背景としては、強い命とは反する弱い気持ちの方が前面に出ていることは確かだと思う。

 命は強いのだろうが、それにも関わらず、世界を支配してしまうような、弱い気持ち。その人にとっての世界の秘密はむしろこっちにあるのではないだろうか。その人の固有性と言ってもよいこの秘密に、違う世界の秘密に触れたとき、当たり前に私の目の前にあった世界も霞んでくる。

――「鬼火は燃えるか?」、あれ以来、マッチに対する狂信的な感度を無視できていない自分がいる。そう、燃えるかもしれないのだから。

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