月と船は夜空に浮かぶ。

彼女はいつもそこにいた。
12月の冷たい潮風を全身に浴びながら、震える指をなんとかこらえてカバンから取り出した今の時代にはなんとも懐かしい鉛筆を手に持つ。
どこにでも売ってそうな鉛筆を片手に、彼女は膝の上に両手で持てるほどのキャンパスを広げて、物悲しそうな顔をして目の前に停泊している船を題材に筆を走らせる。
どうしてそんな悲しそうな顔をして絵を描いているのか、僕は彼女に問いたかった。
だけど、そんな事をすれば、僕はもう彼女の事を見れなくなってしまいそうで怖かった。
だからそっと離れたこの場所で君がその絵を書き終わるのを待ってみようと思う。
話しかけるのはきっと、そこからでも遅くはないはずだ。

11月。僕は大学が休みの日には決まってフリマアプリで購入した中古の小型バイクにまたがって、行き先も決めず、ただ気まぐれに走るのが唯一の楽しみになっていた。
ちょうどこの日も、朝からバイクに跨ってきまぐれに走っていた。
前日が雨だったこともあり、明日は走れるか心配だったが、朝になってみれば空は雲ひとつない晴天。冬に着々と近づいている秋晴れの空が心地良い。
つい1ヶ月前まで10月なのにまだ夏みたいに暑いといって半袖を着て、部屋ではクーラーをガンガンにつけていて、バイクで山道を走ると、マイナスイオンと苔の濡れた青っぽい匂いが涼しさを運んでくれていたが、今では長袖の上に薄めのアウターを着ないと寒くて仕方がないぐらいになった。
最近の異常気象とはここまで急激に変わるものなのかと身を持って実感している。
「あ~さむっ」
風や寒さから装甲によって守られている車とは違って、バイクは自分自身の守りを固めないと寒さとは戦えない。
手軽に乗れるのはバイクの良さでもあるが、手軽さゆえに大変なこともあるため、気温が下がり、頬を撫でる風が冷たさを孕んできたこの時期だけは、どうしても車が羨ましくなる。
それでも一度バイクに腰を下ろすと、乗り心地と楽しさからマイナスな事も忘れてしまう僕はもう、バイクの魅力に取りつかれているのかもしれない。
今日はどこに行こうか…。
いつなのだが、気まぐれに行き先も決めずに走っているために目的地の設定をいつも悩んでしまう。
行きたい場所に行けばいいじゃないか。
大学の同じバイク乗りの友達からもそう言われたが、行きたい場所と改めて言われると困ってしまう。
食べ物なのか、遊びなのか、はたまた買い物なのか…。
いざ考え出すと、これといって行きたい場所も食べ物も買い物もない。
ただこのバイクを走らせている時間が隙なだけではだめなのか?と思考のぬかるみにはまってしまうのだ。
大学での勉強、講義後に入るバイト、それらの柵から抜け出して心のリフレッシュをする。
バイクを走らせる目的がそんな単純なものでも良いではないかと、僕はいつも思う。
動画配信で県を何県もまたいでツーリングしているのを夕飯を食べながら見ているが、そういうのは動画で見るだけでお腹いっぱい。
一度はしてみたいと考えるも、ガソリン代や自分が方向音痴で地図アプリを頼りに走っても迷ってしまった経験を踏まえるとなかなかそれも出来ない。
だから僕は地元を着の身着のまま走るぐらいがちょうどいいんだ。
そんな事を考えつつも、場所は山道を抜け、民家や飲食店も立ち並ぶ通りに入った。
ここまでくれば何かあるだろう。
僕は一旦車が多く通る表の道から離れて、地元民や近道をしたい人しか走らないであろう裏の道から目的地を探すことにした。
裏の通りはチェーン店が連なる表と違い、個人経営の居酒屋などの飲食店や古き良き古民家など、まだ大学生で人生も20年ちょっとしか生きていないはずなのに風景に懐かしさを感じる。後ろからやって来る車の姿も見えないからか、自然とバイクの速度も遅くなり、移動から景色や雰囲気を楽しむ走りへと変わる。
「この道は何度か通ったことあるけど、いつも夜だったからな…。まだ日が明るい時に来るとこんな感じだったんだな」
見慣れた景色でも、見方を変えればまた違った景色が見えてくる。
たまたま付けたテレビやっていたお散歩系番組に出ていたタレントが言ったこの言葉がずっと頭に残っている。
初めて聞いたときはそんな事あるのか?と思っていたが、今になってようやく言葉の意味が分かった。
「これが、見方を変えた時に見える景色ってやつか」
大学を卒業したらいよいよ就職が待っているが、もうそんな事も忘れて全国を巡る旅にでも出るのも悪くないと考えが過る。
きっとそんな事をすればいい経験にはなるが親には怒鳴られるどころの話ではないな…。
そんな事を考えながら走っていると、ヘルメットの隙間を通って鼻をつく食欲を刺激する匂い。
そういえば朝から何も食べていない。普段は大学の中にある売店で朝ごはんを買って、講義が始まる前に食べて食欲を満たすが、休みの日は何かと朝食を抜きがちだ。
時間も昼過ぎと良い時間になっていることもあり、美味しそうな香りのする食堂で腹を満たすことにした。
中に入ると作業服を着たおじさんやいかにもなOLさんなどが静かに定食を食べている。
雰囲気からすれば一見さんは入りづらいだろうが、僕はそんな事は一切気にしない。
むしろそういったところの方が、意外と美味しいご飯にありつけることを知っているからである。
メニューは紙に書いたものを壁に貼り付けているテレビなんかでよく見るスタイル。
色々と書いてあるが食べるものは店に入ったときから決まっている。ヘルメット越しでも僕の嗅覚を刺激してきたあの匂いは、生姜焼き!
僕は迷わずお姉さんを呼んで生姜焼きを注文した。
数分待ってやってきたできたての生姜焼きの魅力といえばなんたるや…。
思わず喉を鳴らし、空腹に耐えられなく鳴ったお腹の虫の鳴き声を合図に一気にご飯と共に生姜焼きをかきこむ。
気づけばご飯を二回もおかわりし、完全に空腹は満たされた。
空腹で暴走仕掛けていたお腹の虫も、ようやくそれが満たされて落ち着きを取り戻した。
テーブルの上に置かれた飲み放題の水を飲みながら一息ついていると、目の前のカウンター席に座る2人のおじさんのとある話が僕のさらなる好奇心を掻き立てる。
「お前、かぐや伝説っての知ってるか?」
「なんだ、そりゃ。俺より歳いってるくせにそんなどこぞの売れない漫画みたいなファンタジーの話信じてるのか?馬鹿かよ」
かぐや伝説?かぐやってあの昔ばなしのかぐや姫の事か?確かかぐや姫の話の発祥の地は別だったはず…。この街にしか伝わっていない別で独自のかぐや姫の伝説でもあるのか?
たまたま入った定食屋で悪気はないが盗み聞きしてしまった内容に僕の興味は一気に注がれた。
すでに自分の定食は食べ終わっていて、目の前のかぐや伝説の話をしているおじさん2人はまだ食べている最中。
まだ続きを聞きたいところだが、食べ終わった手前これ以上長居するわけにはいかない。こういう定食は回転率が命。食べ終わった客には早く帰ってほしいと思っている店主がほとんど。
続きを聞きたい気持ちと店を出なければいけない気持ちの板挟みに遭い苦しい。
しかし、このままの気持ちで店を出て、再び目的もなくバイクを走らせたらきっと後悔する。
「あ、あの!突然話しかけちゃってすみません。お二人の話がどうしても気になっちゃって…そのかぐや伝説って一体どんな話なんですか?」
「え、なんだい兄ちゃん。知らないのかい?」
「この街には昔から、満月の夜になるとどこからか絶世の美女が現れるらしい。まぁ俺も良くはわかってないし、そんな話信じてないんだけどよ」
満月の夜に現れる美女…。まぁ伝説と言うには内容が弱いし、昔からの言い伝えだからか信憑性も薄い。興味を持って自分から聞いておいてなんだが拍子抜けだったな。
「そうなんですね、いや~そんな美女なら僕も見てみたいものですね。すみません、ご飯を食べている最中なのに。ありがとうございました!」
これ以上2人の食事を止めてまで話を聞いてもオチが見えないと判断し、お礼を言ってテーブルの上に代金ちょうどを置き、店を出た。
「そうだ兄ちゃん!満月の夜は海には近づくなよ~!連れていかれるからな~」
店を出る寸前、話を聞いたおじさんの一人が去りゆく僕の後ろ姿めがけて叫んでいた。
はっきりとは聞き取れなかったが、一度は言葉を交わした仲。多分顔は苦笑いをしてたかもしれないが、もう一度お礼を言って駐車場に止めていたバイクの息吹を上げて、今日はもう帰りながら気になったものを見ていくことにした。
「かぐや伝説か…。まぁ多少の話のネタぐらいにはなるかな?」
しばらくバイクを走らせ、風景も今までの山道を過ぎて見慣れた市街地に出た。 
結局昼食を食べるために立ち寄った定食屋以外どこかスポットに止まること無く戻ってきてしまった。
いつもならその日一日の思い出を振り返りながら帰路につくが、今日はその思い出も定食屋で聞いたかぐや伝説という単なる美女が現れるだけの誰得な都市伝説の話だけ。
おじさんがそんなファンタジーな内容の話をしていただけに印象には残っているが、途中トイレのためにコンビニに寄って伝説について検索をかけてみるも情報は何もなく、本当に地域限定の都市伝説のようだ。
しかし、トイレ以外ノンストップで走り続けたせいか腰が痛いし、疲れもきている。
なにかこの辺で一度休みたいところだが…
そう思いながらバイクを走らせていると、ちょうど日が沈みかけてオレンジ色のきれいな夕日が見える海辺の大きな公園が目に入った。
その公園は地元でもかなり有名で敷地面積が公園というにはあまりに広く、敷地内には保険会社があったり、海を見ながら食事ができる通りがあったり、近くには観光スポットである離島にいくための船を停泊しているターミナルもある。
しかも、元々有名だったその場所を更に有名にしたのは日本屈指の豪華客船の経由地に選ばれたのも要因の一つだろう。
「久しぶりに寄ってみるか!」
立ち止まるのに理由なんていらない。
ただ自分の気持ちに正直に行動していれば、たとえぱっとしない一日だったとしても良い日だったと思えることだろう。
僕の好きな言葉の一つ。本でこの言葉を見たときは、人はどんなに落ち込んでいても根はポジティブであるべきだと思い知らされた。
今日は僕にとってぱっとしない一日だったが、あの綺麗な夕日を見れば気分も晴れるかもしれない。
駐輪場の格好いい大型バイクに目を奪われながら、その隣に自分のバイクを停めて、学校終わりの学生や家族連れが遊んでいるのを横目に気分転換の散歩。
潮風が冷たくも澄んでいて気持ちがいい。バイクに乗っていると問答無用で全身が冷たい風に包まれるが、こうして散歩しながら受ける風の方が今の時期は心地よく感じれる。
正直寒い時期の風には当たりたくないのが本音だけど、それもバイク乗りの性である。
高校生のカップルが芝生に2人くっついて寝転んで携帯を触っている横を、無邪気にも目の前をボールを追いかけて通り過ぎていく。
もう大人の仲間入りをしている僕は、ボールを追いかける子供が11月だというのに半袖半ズボンで遊んでいる姿を見て、僕にもあんな時代があったのかと昔を懐かしむ反面、これからはもう責任を求められる年齢になったのかとしみじみ思う。
今の時代に責任とかそういうのを考えると何もかも嫌になってくるが、そういうのを忘れるためにもこういう時間が必要なんだ。
芝生エリアを抜けて海沿いにやってきた。
この公園には海沿いの飲食店に魚を直接卸す漁船や離島の観光ツアーへ向かうための観光船などが停泊している。
だが小さい頃から、1番最近だと高校生の頃からここには遊びに来ているも一度たりともこの漁船が動いている場面に遭遇したことはないが、度々漁師さんっぽい人が船に乗ってなにか作業をしているのは見たことはある。
多分、朝から漁を行って、人がやってくる昼までには帰っているんだろう。
一度でもいいから漁をしているところをみてみたいものだ。
海を見れば船が何隻も浮かんでいるわけだが、ふと地上に視線を移せば、最近スポーツでも認知度が高まってきているスケートボードを乗り回す少年たちの姿があった。どこから持ってきたのか工事現場などにもある赤いコーンを2つ交差するように倒して地面に置き、それを飛び越えたり、ジャンプしてボードを回してみせたりと、僕には到底できそうにない技の練習をしている。
楽しそうにお互いの技についてアドバイスをし合っているが、この際、一応知らない人のために補足しておくと、この公園はスケートボードは安全性の観点から禁止されている。
これは僕が小学生の時から変わっていないはず。
しかし彼らのようなストリートで練習している人たちの中ではそういった禁止事項は知らない。というより、知っているが見て見ぬふりをしている方が正しい。
何度も近隣住民から警察に通報され、注意を受けたとしても気にしない。巡回の強度が緩くなればまた彼らの練習は再開される。
それの繰り返しだ。
今では注意しても時間の無駄だと思われたのか、はたまたスポーツとして認知されたことによって注意すること自体がナンセンスと思われるようになったのかはこの際知る由もない。
関わらなければいいだけの話だ。
僕は肌を撫でる冷たい潮風の心地よさと眼前に広がる高台で美しい海の情景が長時間の運転の疲れとストレスから解放してくれる。
「海には近づくなって言われたけど、どうせあの地域だけの都市伝説だろうから関係ないよな」
僕は引き寄せられるように海へと歩を進めた。
何故かその時の僕は、何者かに操られているような、それこそ目の前に広がる海の美しさに魅了され、引き寄せられるがままに歩いていたと思う。
「あ、危ない…!」
多分その声がなかったら、僕は暦と季節は冬に差し掛かろうとしている11月の海に真っ逆さまに落ちたことだろう。
しかも僕は自分でも自負しているが、超がつくほどのかなづちだ。
プールでさえまともに泳げない僕が海なんか落ちようもんなら…その末路は言うまでもない。
落ちる寸前のところで我に返り、声の主にも手を引っ張ってもらいなんとか踏みとどまれた。
「すみません…おかげで助かりました」
「いえ、またまたお兄さんの方向いてたから助けられましたけど、気をつけてください!今海に落ちられたらせっかくの綺麗な景色が台無しになるじゃないですか!」
あ、僕の命よりそっちなのね。
「助けてもらってありがとうございます。なんかお礼でもしたいんですけど…」
「良いです。私、今いいところなんで」
彼女はそういうと元いた石段に座りなおし、何かを紙に描いている様子だった。
もしかして絵描きなのか…?
真剣に何かを題材に絵を描く横顔がとても美しくみえた。
僕は突然目の前に現れた命の恩人の彼女に恋をした。
視界の端に見えた夕暮れのオレンジから黒く静かな夜空の境の空で淡く光る月は満月だった。


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