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釈尊の本当に伝えたかったこと

4月13日の土曜日のこども食堂では、灌仏会のお話を尼僧さんにお願いしていたのですが、急遽難しくなったということで、僕の方から、簡単に「釈尊の伝えたかったこと」をこども食堂に参加しているお子さんやそのお父さん、お母さん宛に話をすることになっちゃいました。

キリスト教学を専門としますが、それでも、ふつうの方よりは仏教全般を学んでいますし、サンスクリット語も少しはかじっていましたので、釈尊の話をさせていただきましたので、少しだけ記録として残しておきます。

釈尊は、王族の跡継ぎとして生を受け、何不自由のない暮らしが約束されていたにも関わらず、真実(法)を求めて王城を去りました。

釈尊の求めていたことは、どうすれば私たちは幸せになれるのかということ。

幸せになるために、私たちは、お金が欲しい、恋人が欲しいと思い、七転八倒したり、他人を謗ったり、罵ったりするという相反する矛盾に苦しめられてしまうのですが、その消息を観測すると、どうやら物事に執着することが人間を不幸にする。そして、本当に大切にしなければならないこと(それが幸せになること)を置き去りにしてしまうのじゃないかと悟ります。

生きていくために、何らかの執着・欲望は不可欠です。しかしその追求が目的になってしまうと人間は不幸になってしまう。だとすれば、まずはそこから自由になることが大切なのかもしれませんよね。

そのうえで、大切なことを確立することが大切だと悟った釈尊は、ブッダへと成道します。

人間にとって大切なこととはいったい、何でしょうか。

それは一人ひとりのかけがえのない尊厳性、それを仏教では「仏性」と呼び、それを確立することが大切であると説きます。

誰のなかにも、そしてあらゆる生命に潜在する尊厳性の自覚とその尊重こそ、自分が自分らしく生きていく、そして同じような他者を尊重し、協調しながら生きていくことが可能になるとブッダは説きました。

もちろん、ブッダは様々な教えを説き、それがインドから日本へ伝わる段階での「伝言ゲーム」でブッダの肉声とは似て非なるものへと変容したのは、事実ですが、自分の外にあるように思える錯覚としての大切なように見えるものへの執着から自由になり、それよりも大切な自身の尊厳性の自覚と、その確立が大切なんじゃないのかなと説いたところが僕はえらいなあと理解しています。

自分自身のなかに存在する大切なものに目覚め、それを鍛え上げながら、他者を尊敬していくことができれば、四苦八苦から少しだけ自由になり、快適に暮らしていくことができるはずですよね。

そんな教えをといた釈尊の誕生日を日本や中国では、灌仏会や花まつりとしてお祝いしています。

自分自身を大切に、そして相手を大切にしていく生き方というものをみにつけたいですよね。

そんな話をさせていただきました。

当日は、3分ぐらいでもっとわかりやすく話しましたが、いかがでしょうか。

キリスト教学者かく語りき(汗

というかもう少し噛み砕いた方がよかったかなあ(書き言葉としても)、

氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。