過去と現在の狭間



1. インターネットが発達した現代の先進国において、各人は膨大なデータへアクセスすることができる。特に、SNSに代表されるサービスは、多くがその当時性を重視する。いわば、リアルタイムなデータほどデータ表示優先度に関連する重みが増す。この現象は、リアルタイム情報過多を招き、リアルタイム情報バイアスを生じさせる可能性がある。このバイアスによって、過去の情報が過小評価されて現在と切り離され、いわば離散化されてしまうが、実際のアナログな感覚は時間において連続している。ここに認識の歪みが生じる。


2. in silicoに載せられない情報も多く存在する。例えば、ここの今、私たちが生きている"状態"そのものや、私たちのそばにいる人の"雰囲気"、確かに存在しているであろう私たちの周囲にある自然のような"場"、等が挙げられる。 言語にできない、動画でも再現できない、、、何か時系列において離散化しえないような不可思議な連続的感覚の多くがそれである。それは、1秒後の私と1秒前の私が同じである、かといって同じでない、といった感覚である。ここでは過去が現在と溶解し、未来へドライブしていくような気分を持つことができる。溶解した"数"は離散化できない。コンピュータは必ず答えを出したがるが、答えがないものは計算できない。果たして、溶解した"1秒前後の自分"に答えがあるだろうか。過去と現在の狭間に答えがあるだろうか。私たちの解釈は途方もなく非線形である。


3. 一方で、ここの今から過去を振り返ることはできる。例えば昨日の晩御飯に何を食べたか、を思い出すことができる(できない場合もある)。確かに食べたはずのものは経験命題となり、真偽判定が可能となる。もしも真か偽かだけではなく、より次元の大きい可算的対象を認識する場合はどうだろうか。例としては、脱出ゲームダンジョンにおける自分の位置確認がそれにあたる。もしも脱出ゲームにおいて、そのダンジョンをクリアした後に詳細な地図が渡された場合、脱出ゲーム中はもちろん自分の位置を確認できないが、脱出ゲーム後に地図を以って過去を振り返ることで、正確に自分の位置を把握することができる。これらを日常の生活に一般化した場合、"何が起きたか"を現在の様式で平滑化することによって、その当時の状況を正確に把握できる可能性があることを示唆している。少なくとも過去の情報の一部は、現代の視点からでしか語り得ないだろう。


4. 過去を振り返る上で、その記憶は離散化しているだろうか。in silicoに載せられない情報は過去の状態をより正確に把握できる可能性を秘めているだろうか。私たちはデータにならない情報を頭の中に保持しているだろうか。もし保持していた場合、それは私たちの何を規定しているだろうか。もしも"データにならない情報"が過去を正確に把握する上で必要な場合、私たちは、人間というアナログな情報媒体を通してエモーショナルかつ連続的に時代の様式に合わせながら、次世代へ伝える必要があるだろう。



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