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ひとすくいの白い粉

自分が死んだら、葬いは、山や海やに散骨して欲しい。

いつの間にか、同世代の友達が病気で早逝したり、本人元気でも親の世代のお墓問題に巻き込まれたりという話を聞く年代になってしまって。いつの間にか、そう思うようになっている自分がいることに気がついた。

そんなわたしに朗報!

散骨って違法ではないらしい。昨日、教会の礼拝のあとのお話しランチ会で、思いがけず、それを望む親のためにしかるべき角に問い合わせて散骨を実行した方のお話を聞けたのだ。

そのままの形だと後からゴロッと出てきた時に人が驚いてしまうからだめだけど、ちゃんと粉にして、自分の家の庭とか、弁えた場所に撒くなら構わないらしい。焼却して残った骨を粉にしたら、人は手のひらいっぱいほどの真っ白な粉になるんだって。

ひとすくいの白い粉になって、人知れず撒かれ、雨風にさらわれて土に還るなんて、まさに理想の葬られ方!

そもそも死後の自分のボディのために(何しろその時わたし自身は滅してしまって本当にもういないから関係ないとはいえ)、可愛いヨーヨーやあーちゃんに、立派な墓石や戒名を買うためにお金を積んで欲しくはないと思う。本人ではなく残された誰かが偲ぶために形が欲しいなら、気の済むまで、私の粉を一部持ってようと食べてしまおうと構わない。でも、引出の奥に重くしまっておくよりは、旅先の海にぽいしたほうがすっきりするんじゃありません?

古代のエジプトのファラオや中国の皇帝が聞いたら目を剥いて卒倒しそうな葬観だけど、大きな資産を手にしても墓石はそんなに欲しくない。愛する者に対しては、形式なんてなくても、my heart will go on、なんて思っちゃう。

今のわたしははっきりそう言い切れるけれど。三途の川が前方に見える年頃になったら、考えが変わるのかな?

そもそもこの意識は世代的なものなのかな?

こんなことを人と語り合う機会がそうそうあるわけでもないから、実は同世代に限らず、他の誰が自分の死をめぐる形式を重んじていて、誰がリベラルなのかは知らないわけで、もしかしてわたしは変わり者なのだろうか。

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