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自分の背骨を推すこと

## Disclaimer
この文章には、特定の作品の「ネタバレ」に類するものが含まれます。その内容も、個人の想像や雑感を記すものであり、まるで正しさを主張するものではありません。上記ご承知おきの上で、お楽しみ頂けると幸いです。

背骨は、二足歩行の脊椎動物「ヒト」の力学的な支柱である。緩やかなカーブを持ち、重たい体を支える軸となる。

或いは比喩的に、動物としての本能だけでない精神性を持ち、それ故の不安定さも内包する「人間」の、心理的な支えでもある。

この「背骨」がどのように育まれ、いかにその身を支え、どのように砕かれてしまいうるのか。さらに重要な問いとして、「背骨」が失われた人は、その後、どのようにして生きてゆけばよいのだろうか。

*背*
*の*
*骨*

『推し、燃ゆ』は、女子高生の生々しい生活の描写を通して、そんなことを問いかけた。読む前の想定とはまるで違っていた。まさか推しが炎上する話だとは。なんて今っぽい設定だろうか。

ここでは小説の内容に分析を加えるというよりは、そこで取り扱われた感情や問いかけに自分も浸りつ、考えてみたいと思う。

「推し」とは何か

蛇足であるが、簡単に「推し」を説明しておきたい。僕自身もまるでピンときてなかったので。ただ、「推し」の対象や、推しに対する活動である「推し活」にも、千差万別のバラエティがあることにはご注意あられたい。

この小説では、とあるアイドルグループの一人が、主人公の「推し」である。

彼女にとって、「推しを推すこと」は、大げさでなく生きることそのものだ。学校では友人と「推し」の話で盛り上がり、それが終われば「推し」の出るライブチケットやグッズの購入の為、アルバイトに身を粉にする。家に帰っても、せっせと「推し」にまつわるあらゆる情報をチェックして、考察をブログに発信する。

そんな風に、彼女の日常は、朝目覚ましが鳴る瞬間から、夜の眠りに落ちるまで、優しい素材で包まれたかのように、推しが寄り添う。

実際のところは、彼女自らが積極的に「推しを纏っている」に近いけれど、そこには「推し」を纏うことが、まるで服を着ることと同じかそれ以上に、生きる上で重要な機能を果たしている点は見逃せない。

「推し」とは、彼女の世界に差し込む感情の彩りであり、他の人とつながるテーマでもある。ひたむきに悟りを求める修行僧のように、彼女は全てを投げうって、推しを推すことに集中する。

そこでは自らの好きに対して、迷いなく一体化していることによる安心と充足があるようにも見えた。

彼女は「推し」を、自らの「背骨」と捉えた。

推しがいない?

個人的には「推し」がどうのこうの、というのは耳学問に近い内容であった。

ファンとは何が違うのだろう?と思っていたし、「今日も推しが尊い」とか「推しがいる幸せ」などは、ずっと謎の発言であり、ちょっと奇妙なものを眺めるような気持ちで、スルーしていた文字面であった。

どうやら「推し」とは、神様みたいに超常的で畏怖すべき存在というより、もう少し身近で不完全さのあるもので、かわいくていじらしくって、自分と不可分に感じられるような大切な対象のようだ。同時代を生きる「推し」に対して自分の感情を重ねて、嬉しくて楽しくて悲しくてつらくて………尊い。さぁ今日も頑張ろう。そんな存在。

なるほど、と我が身を振り返る。

いない、、、「推し」がいない。

どうやら僕は、特にこれといって関係のない人に、そこまでの思い入れを持ったことがない。自分自身の人生やアイデンティティを溶かして、一緒に喜び一緒に泣くほどのシンクロをしたことがない。すごい人を見たらすごいなと思う。本物に触れて泣かされることもあるけど、それは断続的な接点であって、日々触れるようなものではなかった。

背骨ならどうか?

自己を投影して一喜一憂するような「推し」はいない。それならば、最も「惜しい」ものは何か探してみる。ダジャレである。

すると、なんと自分であった。17~8歳の頃の自分。本人としては真面目に頑張っているつもりだけど、あまり上手にできないから、いつもどこか不満そうなあの子である。記憶の中、彼の表情を思い浮かべて、がっかりしてたらごめんなと思うし、ええやんみたいな感じならよかったなと思う。

あの子の機嫌は、僕には重要に思われる。尊いとまでは言わないけど、なるべく健やかであって欲しい気持ちにはなる。ただあるがままで、今後どうなるかも知れない可能性の種のような彼に、育ちて樹となれと願う。

そういうことであってますか?

しかし、昔の自分が「推し」だなんて聞いたことがありますか。大丈夫か。それは何かが違うんじゃないか。風邪気味か? 健康か。そうか。

とすれば、もう少しハードルを下げて、時に「背骨」っぽい働きをするものを考える。精神的・心理的な支えになっているもの。

これであれば「同胞」を挙げられそうだ。

同じ時代を生き、人生のどこかのタイミングで触れて感じた、いいヤツや、いい人達。えこ贔屓だけど、この人達にはうまくいって貰いたいなと思う。彼ら彼女らのことになると、自分の感情もつられる感じがある。立派だなぁ4割、元気かな6割で思う。日々に接点があるわけではないから。

偶然だけが、アイデンティティに影響を与える。偶然の出会いだけが、偶然であるがゆえの「何かしら特別な意味」を感じさせる。たまたまの人生で、たまたま出会って、たまたま気の通じた「同胞」に対しては、自らのアイデンティティの溶け出しがあって、自己の延長を感じるのだろう。

時折の同胞の知らせは、僕を元気づける。

自分の背骨を推す

多少の飛躍を承知でまとめると、

「私とは、私と私の環境である」という言葉があった気がするが、これをパラフレーズすると、「私の背骨は、私自身のあるがままの可能性と、私が偶然に出会った同胞達である」ということになる。

この背骨が失われてしまわぬように、だんだん空疎になることに抗うこと。少しづつでも骨密度を高めて、丈夫になってゆけること。それが、人間としての不安定さを抱えつつも、生きてゆくために大事なのかと思った。

曰く、自分の背骨を推すということ。

(以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。