その表現にムードはあるだろうか

さて、水曜日は「リトルまさまさのこなくそ日記」です。
このマガジンでは、イマ・ココの思索の旅をテーマに、生煮えであろうと、ひょいひょいと可憐なアイディアを書いていきます。

こちら、定型文です。お世話になっております、と同じです。

さて、本日は「アメリカ東海岸設定」での水曜日更新です。ニューヨークに滞在してる体でお送りします。

どうやら僕の愛する鳥貴族も2022年に来てくれるみたいで、楽しみです。

(さてさて)

では早速いきましょう。
まずは、これまでの内容をざっくりまとめるところから、

先行きの見えない道をゆくのなら、計画的であるよりは、もっと探索的に、まずは店員を呼び、自転車操業でもって、牛歩牛歩を続けよう。未知先案内には、巨人の肩乗せ屋を味方につけつつ、シブロクの現状把握と、戦略的な習慣でもって臨みたい。それでも焦る時はフィボナッチ数列を眺めて、ごきげんを保つのさ。

こうなります。

この「寿限無寿限無五劫の擦り切れ」パートでもって、まず初めてフラっと読みに来てくれた、大変ありがたい一見さんを追い返してしまいたい。不本意ながら…。

もしご興味が失せぬとあらば、「オフロ理論」「フィボナッチ戦略」あたりがオススメですが、よく考えたら何を読まずとも、この記事は読めます!!

これまで、何かしらを上達していく流れ、何かを上手にやってゆけるような「有り得べきプロセス」を、ああかなこうかな、検討してきた。

その検証の結果を、上記の「オフロ理論」やら「フィボナッチ戦略」やらの奇説でもって構築してきたのだけれど、いかんせんまだ答えきれていない問いがある。

その一つが「現在地」である。やってることが、願った方向に進んでいるのか、以前と比べての位置変化である。それが今回のテーマになった。

こんな風に、自分が「今知りたいこと」を考えて、生煮えのアイディアを、ひょいひょいご開陳する芸風になっております。

前兆を見逃さないこと、良いサインに気付くこと

僕の好きな小説に「アルケミスト」がある。

ストーリーはシンプルで、サンチャゴという羊飼いの少年が、夢で見たことを信じ、宝物を探す旅の物語である。その旅を通じて、サンチャゴは様々な出会いに揺れ動きながらも、自分の心に描いた「夢の世界」を信じて、現実をひた進むが…。

そんな人生という未知なる旅の羅針盤たるメッセージに溢れた小説で、読み返すたびに、新たな発見がある。

そこで語られる重要なことの一つに「前兆に従う」がある。
ここにヒントを求めたい。

彼は混乱と確信の間を揺れながら進む。その選択の隘路には「前兆」が現れ、サンチャゴの進むべき道に示唆が与えられる。

「あなたはなぜこのようなことを僕に話すのですか?」
「それは、お前が運命を実現しようとしているからだよ。それに、今、もう少しですべてをあきらめようとしているからだ」

ーちょっと待った。多分、わかってない。

その「示唆」は耳をすませば聞こえるのだろうか。心の声に耳を澄まれば、聞こえるのか? 本当か? 信仰の問題か? スピリチュアルか!

ここらを考えるところから、始める。

「前兆に従う」を言い換えれば「悪い予感に耳を貸さない」になるだろう。これならわかる。なぜなら「思考は現実化する」傾向があるからだろう。

悪い予感は自己成就してしまう。殊更、正解のない「確率の高くない勝負」をするのなら、失敗に賭ける方が、悲しいかな「賭けとしての勝ち」を引くことに繋がる。その結果、賭けには勝って、勝負に負けるのだろう。

それは、つらい。

極端な例で言うと、ダイエットを上手に出来ない人が「水を飲んでも太る」と語るのと似た構造だろう。それを言い続けることで、精神が肉体に憑依して、水を飲んでもきちんと太るように、他でカロリーを摂取して帳尻を合わせてしまう。

その結果「水を飲んでも太ること」が叶い、ダイエットは叶わない。

嫌過ぎる。水を飲んで太るわけがないのだから、この場合は特に良くない。根も葉もない「悪い予感」が、信じたことによって現実化してしまうのだ。

この逆から考えれば、わかるかもしれない。

「前兆に従う」というのは「いい予感」を信じることか。

・こうしたら、もっと上手にできるんじゃないだろうか
・あれだんだん、よくなってきたのではないだろうか

そんな「さりげないサイン」を捕まえよう、ということか。では、どうやって? というのが問いになる。それはただの勘違いではなくて?

直感です!センスです!

なんてことでは到底納得出来やしない。「勘違い」と「確信」の間にある、グラデーションを見つめたい。

暗闇の中の現在地を感じるセンサー

「芸術性」には憧れども、僕はあまり物事を「感覚的」に理解することが、得意でない気がするので、なるべく「再現性」のある格好で、複雑な物事を理解できるような、枠組みが欲しい。

というわけで、複雑なものに対しては、まずは単純なモデル化を試みたい。そのモデルで説明がつく限りにおいては、それは信用に足るし、駄目な部分があれば直していけばいいじゃない。

そして、このモデルでもってして、前述の「勘違い」なり「確信」の間のグラデーションを、もう少し「感覚的ではなく」感じられるセンサーを見つけたいというのが狙いである。

表現の構造

「物事を習熟してゆく」具体例として、文章表現を考えたい。コレは別になんであってもいいのだけれど、僕の今の興味が専らそこにあるためです。

文章表現の肝は「ストーリー」と「ストラクチャー」に宿ると考える。いわば「ソフト」と「ハード」の腕前である。この2つの腕前でもって「これが言いたい」という「メッセージ」を言い切る。

これが文章の構造である(仮説)

要素還元的なアプローチでは見落とす恐れのある、「組み合わせの魔法」のようなものは、後ほど検証することにして、と。

わかりにくいので、イラストにしてみる。

画像1

「ストーリー」と「ストラクチャー」の2大要素(山)に支えられて、「メッセージ」という(気球)が立ち上っているというお茶目イラストです!

また、この「ストーリー」と「ストラクチャー」に必要な構成要素を考えると「感情」と「事実」と「論理」になろうか。「事実」は両方の要素にオーバーラップされる。

ー感情と、事実と、論理。

基本的には「事実」がきっかけになって、それに対して、どう考えるか、どう感じるか、そういったことが互いに影響を与えあいつつ、ひとつの「真的なこと、善的なこと、美的なこと」を明るみに照らし出せる可能性がある。

ああ、自分はこういうことが言いたかったんだな、という「メッセージ」に昇華される瞬間がある。それが、アルキメデスが、興奮して裸で叫びながら走り回ったという「ユリイカ!(エウレカ)」であり、書くという行為の、一番の果実であると思う。(※ ユリイカ=わかったぞ!の意)

そんな自分にとって意味のある、面白い世界が、チラとでも見えたら、ああ素晴らしい文章になったと、言えるのではないだろうか。

次の章で、このモデルに基づいた「センサー」を検討したい

熱量、具体性、納得性で測る

「前兆に従って進む」こと。
・こうしたら、もっと上手にできるんじゃないだろうか
・あれだんだん、よくなってきたのではないだろうか

そんな「いいサイン」を、勘違いと確信の間で感じるために。暗闇の中での現在地を把握するために、まずは、前述のモデル化をした。

最終ステップは、ここにセンサーを仕込むことである。

画像2

・「感情」が籠もっているかは「熱量」で、
・「事実」に基づいているかは「具体性」で、
・「論理」が通っているかは「納得性」で、

そんなセンサーで測れようか。勿論最終的に、それが「感覚的」なものに過ぎないとしても、比較の中で「ちょこっと前の自分と比べる」ことは出来そうだ。

さらに、そんなセンサーをもう一段階、ブレイクダウンすれば、こういうところは上手になってきたかも、なんて気が付きやすくなるに違いない。

このブレイクダウンはまだ検討が浅いので、また上手に整理できたら、お披露目したいと思う。

最終的な、質問はひとつだけ

少し長くなったが、前述した細かなサインを捉えることを、もっと直感的にすることも出来るかも、と総じて幕としたい。

「片付けの魔法」で、物を捨てるかどうか迷った時に、それを手にした時に、ときめくかどうか?を基準にすれば判断出来る、といったことが書いてあった。

文章に関しても、同じような質問を投げかけることで、直感的にわかるところもあるだろう。

自分の身に起こった具体的な出来事がきちんと描写され、己の感情と論理の網目の中で、もんどりうって意味を求めた結果、何かしらの新しい世界観を見せてくれた時、その文章には「ムード」が立ち上ってくると思う。

小説等では特に「つまりこういうこと」というのは、全体を持ってしてしか表現され得ないことも多い。一言では言い切れないから、それまでの全てがあるのだと。つまり伝えられるのは、膨大なる事実と、論理と、感情によって立ち上った「ムードだけ」というような。

であれば逆に、こう問いかければいいのではないか?

「その表現に、ムードはあるだろうか?」と。

(以上)

よくぞここに辿り着き、最後までお読み下さいました。 またどこかでお目にかかれますように。