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人類学者・磯野真穂 オンライン授業「他者と関わる」第二回講義

今回は一番身近な他者である「家族」のおはなし。
わたしは家族が一番苦手というか、一番うまく関われない(甘えたり、ほったらかしたり、意外と深い話をできなかったり)ので、序盤からクライマックスが来た、、、とプルプル震えました。

家族をとらえるときには「構造面」からとらえる方法(誰がいるのかを考える方法)と、「機能面」からとらえる方法(なにをしているのかを考える方法)があって、文化人類学では「機能面」から家族を定義している。
※ちなみに法律では「構造面」から定義している。
「家族とは本人、配偶者、父母、子である。」のように。

文化人類学のオーソドックスな考え方として、
「自然」と「文化」を対立させる考え方がある。
この対立項において、個人は自然に、集団や社会は文化に分類され、家族は、その中間を媒介する集団として位置づけられる。
「自然」はなにもしない状態で、「文化」はありのままを整えた状態。
そこで、家族は子ども(個人)を社会化(自然から文化へ移行)させる機能を担っている。

文化人類学辞典の「家族」の項には、次のような説明がされている。
「人間の生活は定義によって、自然に介入し、規制し、そこから作り上げた文化である。 社会は外的自然(自然環境)のみならず、うちなる自然(身体)をも排除し、規制しなければならない」

また、社会化するとは、身体性のルールが変わってくることでもある。
(例えば子どもが上半身はだか+オムツ姿で走り回ってたり、誰彼構わず抱っこを求めたりすることは、よくある光景だけど、それを大人がすると事案になる、みたいな)
そのため、家族は身体に関する事柄を扱う場にもなる。衣食住、介護や看護、育児、性や再生産に関わる活動などのケアに関わること。

個人は身体なしに存在することはできない。
その身体に近しいことは「親密性」を生む。
家族であることとは、親密であることとも言える。

ちなみに自然と文化をどんどん乖離させ、家族が担っていたケアを経済活動に置き換えていったのが資本主義。資本主義の持つ空虚感ってここにも要因がある気がする。これはこれでしっかり考えたいこと。

また、家族は身体を扱う場であるが故に暴力の場に転じやすいし、医療や介護現場(風俗もだな)は家族しかできないはずのケアを他人が行うため、やはり暴力的になり得る。
→ 身体を扱うことの困難さを痛感する。暴力ってなんだろう。社会においては権力の発露ともなるし、自分で自分に対しても暴力的だと思うときがある。

ここへ来て、初めに思った「他者とうまく関われない。仲を深めていくのが苦手。(つまり親密になれない)」ことと、「親密性を持つ家族とうまく関われない。」がしっかりリンクしたことに気付いて、より一層プルプル震えています。
身体性と親密性。。。
そのキーワードだけだと、まだよくわからない。
親密性ってどうやって生まれるんだろう。


家族とケアに関しては、コロナ禍における問題提起としていくつか挙げられてた話も興味深かったです。

コロナ禍においてはより顕著となったが、例えば、医療現場ではケアの優先順位が入れ替わってしまう。(医療従事者 ⇄ 家族)
まだ、「文化」に移行した人間が死んで「自然」に回帰するという考え方は日本的な遺体観だが、コロナ禍においては死体を「文化」が回収してしまっている。(亡くなっても遺体と対面できず、火葬した後に自宅へ届けられるなど)
さらに本来は安全安心な場を生む親密性がコロナによって危険を孕むものに変わってしまっている。
→ 疫病であるコロナに対して、衛生面からの対策を打っているものの、人間の根本を支える思想に大きな影響をもたらしていることには全然気を遣っていないような政府に恐怖を感じる。
生活様式が変わるということは、価値観も大きく変わっていくということ。どんなふうに変わっていくのか、今の自分をどこかに記しときたい気持ち。

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