ファー・フロム・ドバイあるいは南越谷駅徒歩15分

東武スカイツリーラインの間断ない振動がふいに止んだ。宇宙空間に放り出されたような浮遊感。いま私は荒川の上にいるんだろう。各停、次は小菅。東京拘置所で有名な、それ以外になんにもない小菅。東京拘置所では今この瞬間にも死刑に処される日をただ待ち続けている囚人が何人もいる。私はそれを羨ましいと思う。

ふと窓のほうに目をやるとやつれきった自分の顔が映っていた。何かが確定している状態というのはその何かが何であれ安心する。少なくとも、何も決まっていないよりは…

目の端を拭っていると眠たげなアナウンスが最寄駅の名前を読み上げた。

私はため息を吐き出しながらゆっくりと立ち上がった。



午後2時。二日酔いによるものなのかストレスによるものなのか、何にせよ頭が重い。鉄板を巻かれているみたいに。枕元のロキソニンに手を伸ばしたがどれも空だった。寝返りを打ちながらLINEをチェックする。トークの一番上に「☆ギャラ飲み情報共有(※流出厳禁!)」というグループ。未読件数1。タップしてみる。

【案件】有名お笑い芸人と飲める!【六本木】
急な連絡でごめんなさい!ラウンジ友達から回ってきたので共有します!
日時:3月30日(今日です!!!)22:00〜たぶん朝まで
場所:グランメゾン六本木28階1012号室(H・Mさんの別宅です)
条件:18〜28歳、Dカップ以上、カワイイ系の子だとなおよしとのことです!
報酬:1h/10000円(その場で現金手渡し)
定員は10人くらいなので早い者勝ちになります!興味ある方は私まで連絡ください!

芸能人の金払いの悪さには毎度ながら反吐が出る、と思いつつも「条件読んで気になったのでラインしました〜スペックこんな感じです」と反射的に打ち込んでしまっているあたり私って本質的にこういう仕事向いてないよね。これしかできないんだけど。

「枠確保しました!今日はよろしくお願いします!」

薬局でロキソニンを買い込んでいると返信が来た。私はフリック入力で「こちらこそよろしくお願いいたします!」と打ち込んだ。

「あの、袋いるんですか」

50代くらいの男の店員がやや語気強めに尋ねてきた。たぶん私は今、彼の問いかけを何度か無視していたんだろう。私は咄嗟に「あ、いいです」と答えたが、店員は明らかに気分を害したようでそれ以上口を開こうとしなかった。

会計が終わると店員は精算済みのロキソニンの山に目をやった。ロキソニンは明らかに手ぶらで持ち帰るには多すぎる量だった。でもお前いらないっつったよな?とでも言いたげな店員はロキソニンに視線を落としたまま直立不動だった。いまさら袋くださいとも言えないので私は着ていたニットをバスケット代わりにしてどうにかその場を去った。両手が塞がっていたのでタクシーを呼ぶのに難儀した。

自宅のエレベーターボタンを肘で押そうとするとロキソニンの箱がバラバラと床に落ちた。エレベーターから降りてきた大学生くらいの男女が「えー何事」と笑いながら通り過ぎていった。

私は床に散らばったロキソニンを一つも拾わないでエレベーターに乗り込んだ。迷わず最上階の「10F」を押す。そして10階で降り、9階の自室まで階段で戻る。恵比寿のくだらないデザイナーズよりも背が低く、おまけに南越谷駅徒歩15分のこのマンションのことが、私は心の底から嫌いだった。

「ですがまあ、その要望値でその予算感ですとね…」

不動産屋が苦笑していたことを私は思い出した。



六本木駅地下改札から地上に躍り出たときの高揚感をいまだに私は否定できない。森ビル、麻布台ヒルズ、東京タワー。峨々と聳える高層建築は私の幼年期の鮮やかな憧れそのものだった。

それらの機械的な稜線の先にはたぶん、ドバイの近未来的な街並みが続いているに違いない。そんなことはないとわかった今でも私は心のどこかでそう信じてしまっている。

指定の住所まで徒歩で向かうと巨大なタワーマンションが姿を現した。エントランスを抜けると仕立てのいいジャケットのコンシェルジュが近寄ってきて、帳簿に記名を促してきた。ヴィヴロス、という芸名めいた名前にコンシェルジュは一瞬眉を顰めたが、私の耳と尻尾を一瞥して得心がいったようだった。

番号式のセキュリティを3度経て私はようやくH・Mという芸人の部屋の前(別宅らしいけど)に辿り着いた。インターホンを押すなり扉が開き、クロエの真っ黒なドレスに身を包んだ20歳くらいの女が私を出迎えた。

「こんばんは〜!えと、お名前は…」

「あ、こんばんは〜!私ヴィブロスです!」

「あ〜わかりました〜!どうぞ入ってください!てかウマ娘ちゃんだったんだ〜」

「募集要項にウマ娘はダメって書いてなかったから。大丈夫なんだよね?」

「あ、うん、全然大丈夫!てかむしろウマ娘のほうがいいっていう人も割と多いからここ」

部屋の奥から笑い声が聞こえた。私はJIMMY CHOOのハイヒールを脱ぎ、クロエの女に手を引かれるまま部屋の中に入った。

部屋は高校の教室くらいの広さで、床は白い大理石でできていた。革張りのソファや手入れの行き届いた観葉植物が整然と配置されており、中央のテーブルにはオードブルや菓子が大量に積まれていた。各席には一人ずつ男性芸人が座っていて、そこへ女が2、3人あてがわれていた。突き当たりの壁は丸ごとガラス張りになっていて、そこからは東京の夜が一望できた。しかし誰も外の景色を見ようとはしなかった。

「ヴィブロスちゃん、挨拶して!」

クロエの女が小声で私にそう促した。

「どもです〜!私ウマ娘のヴィブロスです〜!よろしくお願いしまぁ〜す」

男たちは私のことをまじまじと見た。精密機械が商品をつぶさに検品するように。

「おー、ウマ娘やん」

「やっぱスタイルはええなあウマ娘」

一番奥のソファに座り込んでいた男が「姉ちゃん何飲む?」と言った。彼がH・Mという大物芸人だった。

「じゃあハイボールでお願いしま〜す」

H・Mは対角線上に座っていた若手芸人Xに「おいお前、早よ出したりや」と顎で合図を出した。Xはちょっと前のM-1で優秀な成績を収めた売れっ子だった。彼は「はい!」と言って勢いよく立ち上がり、テーブルの上のシーバスリーガルで手早くハイボールを作った。

「はいお待たせ。ちょうど僕んとこ空いてるからおいでよ」

私はXの手招きに応じて彼の隣に座った。彼を挟んで右隣には既に女が座っていた。いかにも今をときめく会員制ラウンジ嬢といった風貌の彼女は「よろしくね〜」と私に向かって軽く会釈した。

泡だらけのハイボールをちびちび飲みながら、私はXの話をそれとなく聞いていた。M-1の裏裏側がどうだの、週刊誌のやり口がどうだの、グラビアアイドルのセフレがどうだの、そういった類の聞き飽きたゴシップ。やがて持ちネタが尽きたのか、Xは私に話を振ってきた。

「てかさヴィブロスちゃんはどこ在籍なん?」

「銀座のカヴァッロ〜」

「カヴァッロかぁ〜」とXは腕を組んだ。「あそこあんまええ評判聞かんのやけど、実際どうなん?待遇とか」

「う〜ん、正直あんまり。派遣のほうが全然マシかな。でもウマ娘雇ってくれるとこがそもそもあんまりないから」

「マジか。こんなにスタイルええのに勿体ないなぁ」

「勿体ない」のが私を採用しないラウンジ業界の方針のことなのか、あるいは私がウマ娘であることそれ自体なのか、私は敢えて聞かなかった。

「いうてボチボチ稼いではおんねやろ?」

Xの視線は明らかに私の首にかかったヴァンクリのアルハンブラに注がれていた。

「こういうの買ってばっかだからお金無いんだってば〜!」

それは事実だった。30手前にもなっていまだに浪費癖が治らない。しかしそこには学園にいた頃のような無邪気な上昇志向はもうない。ひたすら消費を繰り返すことで後方から忍び寄る現実の足音をかき消そうとしているだけだ。足音は次第に速く大きくなっている。それと反比例するように富を生産する商品としての私の市場価値は下降線を辿っている。期限が迫っている、という漠然とした焦燥。

何事にも期限がある、というのはここ数年で私が得た最も役に立つ知見だ。あれだけ私に目をかけてくれた親も、あれだけ慈愛を注いでくれた姉たちも、今や私という不良債権を持て余し、できる限り穏当な形での処分を試みている。

「甘え上手」「末っ子体質」といった青春時代の私の性質は三十路にさしかかった今ではほとんど効力を失いかけている。私が誰かに甘えることができたのは、甘えさせてくれる誰かがいたから。誰も甘えさせてくれないのは、今の私に甘えさせるだけの価値がないから。

室内のソファを転々と漂流し、毒にも薬にもならない会話で時間が溶けていくのを待っていると、差し向かいに座っていた中堅芸人が「あっ!」と唐突に声を上げた。

「Mさん、ちょっとリモコン借りますわ」

そう言うと中堅芸人は壁にかけられた巨大な液晶テレビの電源を点けた。画面がパッと映し出された瞬間、私は電撃が走ったような感覚に襲われた。

「おお〜やっとるやっとる」

ドバイターフ。私は咄嗟にiPhoneで今日の日付を確認した。3月31日(日)午前0時過ぎ。そうか、もうそんな時期なのか。画面の向こうに広がるターフ。私はそこを一歩一歩踏み抜いた感覚まで今でも克明に思い出すことができる。思い出せてしまうからこそ無理やり遠ざけていた。私は十数年前のこの時間、確かにあそこに立っていて、そして確かに栄光を掴んだのだ。

「ちょうどええわ、今から皆さんでゲームしましょう」

中堅芸人はテーブルに自分の財布を叩きつけた。

「どれが一着になるか賭けましょうや」

酔いも回ってか、周囲の芸人や嬢たちはそれに賛同した。そのとき私の隣に座っていた芸人も大仰に手を叩いて喜んでいた。テーブルの上にはみるみるうちに札が積み上げられていき、ちょっとした山を形成していた。隣の芸人が「君もどうや?」と持ちかけてきた。私は「今カードしか持ってなくて」とやんわり断ったが、彼は「俺が出したるから」と言って一万円札をテーブルに叩きつけた。

いよいよ出走という段になって、私は猛烈な吐き気に襲われた。「お手洗いに」と言って席を立ち、そのまま靴を履いて部屋の外に出た。

玄関ドアを開けると、ドア横で腕を組んだ40代くらいのサラリーマン風の男と目が合った。さっきのメンツの中に彼がいたような気がしたが、確信は持てなかった。私が何も言えずに固まっていると、男が口を開いた。

「最悪だと思いませんか」

二の句を次げずに黙り込んでいる私を見かねてか、男が自分で注釈を加えた。

「賭け事は別にいいんですよ。でも、あなたのような当事者がいるところでああいうことを平然とやれてしまう無神経さには反吐が出る」

「そうですね、えっと、確かに」

ようやく思考が正常に回り出し、私は姿勢を整えた。ドアがガチャリと閉まった。

「あの、お兄さんのお名前は?」私は彼に尋ねた。「私、芸人の人にあんまり詳しくなくて」

男は口元に指を添えてそっと笑みを浮かべた。

「私は芸人ではないんですよ。知人ってことでH・Mさんに呼ばれちゃっただけで。私はただのしがない商社マンです。東谷と申します」

ただのしがない商社マンがこんな場所にお呼ばれするはずもないのだが、かといって「どちらにお勤めなんですか?」と尋ねるのが憚られる気品を感じたので私は再び黙り込んでしまった。

「ヴィブロスさんは…」東谷さんが言った。「私の記憶が確かなら、ドバイターフを制覇された大変有名なウマ娘ですよね?」

「え、よくご存知ですね。今はこの通り、もう、全然ですけど…」

「実は私、長らく中東で駐在員をやっておりまして。あなたが出場された年のドバイターフはどちらも生で観戦させていただきました」

ドア越しに聞こえてくる喧騒とはあまりにも不釣り合いな男の語り口に私は唖然としていた。魅了されていた、と形容してもいいかもしれない。東谷さんはドバイ滞在中のできごとについてあれこれ私に語り聞かせてくれた。意外にも食事が安いこと、アラビア語訛りの英語がとても聞き取りにくいこと、ラクダの背中のコブに水が入っているというのはデマだということ。

気がつけばあれだけ酷かった吐き気は嘘のように消え去り、私たちは裏路地の静かなバーに入っていた。

「あの、これはささやかな提案なのですが」

東谷さんはメーカーズマークを傾けながら言った。

「ヴィブロスさんは今もまだドバイに興味がおありですか?」

私は初めてドバイ国際空港に降り立った幼年期、あるいは初めてメイダン競技場の芝を踏んだ青春期の高揚感が今再び自分の内側に満ちていくのを感じていた。

グラスの中の氷球がカラン、と心地よい音を立てた。



1ヶ月後、私はドバイ国際空港のロビーにいた。東谷さんの提案はざっくり言えば「ドバイの富豪が所有する競技場で開催されるレースに参加してほしい」というものだった。私はきっちりと企画書類に目を通してからそれを承諾した。

キャリーケースを引きずりながら遠方に見えるドバイのビル群を眺めていると、向こうから黒いスーツに身を包んだ東洋人の男がやってきた。

「ヴィブロスさんですね?」

男は簡単なIDチェックを済ませると私をエントランス横に停めてあった真っ白なベントレーの後部座席に乗車させた。男は運転手に英語で何事かを耳打ちした後で私の隣に座った。私がシートベルトをするのに難儀していると、男は私にこう言った。

「失礼ですが、滞在中はパスポート及びスマートフォンのSIMカードや海外用Wi-Fiなどのネットワーク接続用機器は没収させていただきます」

「え、それっていうのは、帰るまでずっとスマホ触れないってこと?ですか」

「いえ、これから向かう先で特殊なWi-Fi環境をご用意しております」

まあそういうこともあるか、と私はCHANELのミニポーチの中からWi-Fiを取り出し、iPhoneと一緒に手渡した。男は慣れた手つきでiPhoneからSIMカードを抜き取り、抜け殻を私に返した。

それから彼は「目的地に到着するまではこちらの装着もお願いいたします」と言ってアイマスクを差し出してきた。

おそらく今から私が世話になる富豪はあまり自分の素性を知られたくないのだろうと思う。私はおとなしくアイマスクを着用した。

セレブ特有の生活の不透明さ。私はそういうところが好きだ。現実を完全に遊離している感じ。六本木や銀座に腐るほど転がっている整形顔の女を誰彼構わず自宅に呼びつける日本の「有名人」とはそもそも格が違う。

少し眠っていた。肩をトントンと叩かれアイマスクを外すと、巨大な門扉が私を出迎えた。

扉を開けるとき、黒スーツの男は「裏口で申し訳ありませんが」と私に謝った。裏口?これが?私の高揚感はいよいよ最高潮に達しつつあった。

案内された部屋に入ると、いかにも中東の富豪といった趣の内装が目に飛び込んできた。絢爛豪華な色彩の中を進んでいくと扉のない大広間の前で黒スーツの男は踵を返した。

「指示があるまでこちらの部屋でお寛ぎくださいませ。荷物は寝室にお運びいたします」

巨大なペルシャ絨毯が敷かれた大広間には、既に幾人ものウマ娘が待機していた。読書をする者、スマホをいじる者、ソファの上で寝ている者、他のウマ娘と歓談している者。さまざまなウマ娘がいた。私は近くの座椅子に腰掛けると、自分の人生に句読点を打つように大きく深呼吸した。ここから人生が変わるかもしれない、という確かな感覚があった。

特にやることもないので私はiPhoneを大広間のWi-Fiに接続した。しかしウマッターを開こうとしてみたら、変なアラビア語の警告表示が出て接続できなかった。ほどなく画面が再読み込みされ、英語のポータルサイトのようなものが開いた。BREAKING NEWSだのTODAYS WEATHERだのRECOMENDED RESTAURANTSだのといった明らかに観光客向けの項目が並んでいる。検索バーはない。どうやらここではこのサイトを通じてしか情報を知ることができないようだ。強いて言えばNetflixが見られるくらい。

私はiPhoneを放り出し、ガラスでできた壁の向こうに広がる広大で真っ白な中庭に目をやった。すると後方から「ヴィブロスちゃん?」と声をかけられた。

「あ」私はその顔に見覚えがあった。愛嬌のある表情に短めの栗毛ツインテール。「スマート…ファルコンさん?」

「ファル子でいいよ」とスマートファルコンは言った。

久々の会話はぎこちなく始まった。限りなく遠ざかってしまった時間を取り戻すためにはそれ相応の努力が要る。

「え、じゃあまだアイドル続けてるってこと?」

「アイドルじゃなくて、ウマドルだってば。そうだよ、まだ続けてるよ。ちっちゃなグループだけどね」

学園卒業と共に競争バを引退したスマートファルコンは北海道で細々とアイドル活動を続けていた。かつて共にアイドル活動を志したホッコータルマエは、地縁を活かし北海道電力株式会社に就職したという。

「私だけが取り残されちゃってさ」

「でもなんでドバイなんかに?」

「未練、てやつなのかな」スマートファルコンは表情を曇らせながら言った。「まだ走りたいって気持ちがどこかにあるんだと思う。私の最後のレースは…ほら、知ってるでしょ?」

知っている。ドバイワールドカップ10着。国内での輝かしい戦歴を鑑みればなんとも口惜しい幕切れだった。

「私はその未練に墓標を立てに来たの」

「墓標を立てて、その後は?ウマドル活動に本気出すってこと?」

「うーんどうだろ、私もわかんない。ウマドルは続けたいけど、それで食べていくのってやっぱり無理だもん。私今、セイコーマートでバイトしてるんだよ?もう30歳なのに」

スマートファルコンはそう言って笑った。30歳という数字のあまりにも剥き出しなグロテスクさに、私はうまく笑い返すことができなかった。

「要するに、人生の一切合切をここで精算しようって思ってるのかもしれないな。早く前向きたいもん」

その後も彼女との会話は続いた。しかし話題が現実に傾きかけるたびにそれとなく軌道修正を図っている自分自身を発見して、私は途方もなく自分のことが嫌になった。

結局その日のうちに指示が出されることはなく、私たちは大食堂で豪勢な食事を摂ってから寝室へ案内された。

午前2時半。強めのノックで私は目覚めた。指示があるのだという。私たちは寝ぼけ眼で大広間に集められた。

大広間の一番豪華な座椅子にTシャツを着た中東系の男がどっかりと座り込んでいた。同じような顔立ち、格好の男が他にもあと何人かいた。彼らは英語ではない言語(おそらくアラビア語)で何事かを喋っていたが、やがて立ち上がり、私たちに向かって笑顔で語りかけた。それを横にいた通訳の男が逐語訳した。

「皆さん、ドバイにようこそ」

そこで初めて私はこの家に集められたウマ娘が軒並み日本語話者であることを知った。ウマ娘たちの幾人かがおずおずと頭を下げた。

「皆さんでゲームをしましょう。簡単なトランプゲームです」

ゲーム?トランプゲーム?それは一体何の比喩なのだろうかと思案する暇もなく、側方から本物のトランプが載った盆を抱えた執事がやってきた。

それから私たちは文字通り大富豪の家で大富豪に興じた。これがドバイ流のアイスブレイクなのかと特に訝しむこともなく私もゲームに参加した。

朝日が昇ってきた頃、トランプじゃないほうの富豪たちは「そろそろお開きにしよう」と言ってどこかに去っていった。私たちは再び寝室に戻り、それから昼過ぎまで眠った。



ドバイに来て11ヶ月が経過した。朝と夜の境があべこべになっていて、経過したのが本当に11ヶ月なのかもよくわからなかった。富豪の男たちは好き勝手な時間にやってきて、私たちと遊びに興じた。初日のようにトランプゲームに興じることもあれば、私たちを高級クラブやナイトクルーザーといった娯楽施設に連れ出して(もちろん道中はアイマスクの装着が必須だ)放蕩の限りを尽くすこともあった。

「富豪が所有する競技場で開催されるレース」についてはいまだに一切のアナウンスがない。通訳や執事の男にかけあってみても「お待ちください」の一点張りで具体的な返答は得られなかった。

脱走を企てる者もいないわけではなかったが、札束の上に道路やビルが建っているようなこの街で金持ちのネットワークをすり抜けるのは至難の業だろうという結論に行き詰まった。

そのうち多くのウマ娘たちは考えるのをやめ、連日連夜の放蕩生活のほうにドバイ滞在の意味を見出すようになってきた。富豪と個人的に通じ合う者も現れ、BALENCIAGAのトラックジャケットを乱雑に脱ぎ捨てたりアルマンドを床にぶちまけたりするような光景が大広間の日常と化していった。

私もまた、それでいいのではないかと考えはじめていた。私は幼年期の私に語りかけてみた。ねえ、私今、ドバイで暮らしているんだよ。

幼年期の私はうんともすんとも言わないで記憶の襞の裏に隠れてしまった。

大丈夫、そのうちわかる日が来るよ。

「わかんないよ、全然わかんない」

夕方。スマートファルコンは今日も通訳に向かって激昂していた。

「だって私たちがここに来たのはレースをするためじゃん、ターフを走るためじゃん。変な味がする蟹を食べたりペルシャ湾に釣り竿を垂らしたりするためじゃないじゃん、絶対に」

「申し訳ありませんが、我々も本当に何も知らされていないものでして…」

「じゃあ訊けばいいじゃん!」

「本当に、なんと申し開きすればよろしいものか…」

「その気がないなら謝んないでよ!日本に帰してよ!」

「いえ、ですから、それは再三申し上げている通り…」

押し問答は堂々巡りの様相を呈し続け、本日もまたどこへも辿り着くことがなかった。スマートファルコンは苛立たしげに踵を返し、寝室のほうへ走り去っていった。中庭に目をやると白い砂利の上に無数の足跡が見事な円環を描き出していた。彼女は毎日朝6時に起床し、それから夕方までひたすらトレーニングに励み続けていた。私たちはそれを大広間のガラス越しに眺めているだけだった。

私が彼女と会話しなくなってからこれで何ヶ月になるだろうか。



その夜、寝室のドアがノックなしに開いた。

「ヴィブロスちゃん、起きてる?」

声の主はスマートファルコンだった。私は動揺を悟られまいと欠伸するふりをした。

「うん、起きてる」

「入ってもいい?」

「いいよ」

スマートファルコンはゆっくりと私のベッドに腰を下ろした。それから決然とこう言った。

「明日の明朝、私はここを出る」

「それは脱走するってこと?」

「そう」

私は彼女のあまりにもハキハキした言いぶりに苛立ちを覚えた。

「どうやって?この場所がどこかもわからないのに」

「わかるよ」と言いながら彼女は私に紙切れを見せてきた。そこにはこの邸宅の地図が記されていた。

「なんでそんなものが?」

「私たち、この前ドバイ市街にショッピングに連れて行かれたでしょ?」

「この前っていつ?」

「3月29日」

「日付で言われてもわかんないよ」

「ヴィブロスちゃんがわかんないわけないよ。3月最終週の土曜日だよ?」

それで私は得心がいった。ドバイワールドカップの開催日。どうして忘れていたんだろう。

「みんながショッピングしてる間に、私は走ってメイダン競技場まで走っていったの。スマホをモールの茂みに置いてったまま」

「何のために?」

「世界各国から精鋭のウマ娘が集まってくるわけじゃん。ってことはだよ、あの人が来ないわけがないじゃん?」

私はようやく彼女の言いたいことを理解した。

「秋川理事長…?」

スマートファルコンは指をパチンと鳴らした。

「そう、その通りっ☆」

スマートファルコンは競技場に着くなり関係者用ゲートの前で秋川理事長を捕まえ、事情を説明した。理事長はその場で何本かの電話をかけ、私たちが幽閉されている邸宅がドバイから南に20キロほど離れたところに位置していることを割り出した。

「そこからさらに20キロ南下したアブダビという街に日本領事館がある。私から領事館へ話は通しておくが、おそらく君たちのところへ直接救出に向かうことは難しい。そもそも君たちの現状を監禁状態と断定するにはあまりにも証拠が不足しているし、それに事を大きくしすぎると情報がどこから漏れるかわからない。だから20キロだけは君たちが頑張ってくれ。なるべく一週間以内に頼むよ。大丈夫だ、君もヴィブロスも学園きっての俊英なのだから」

ヴィブロスも?

「待って、私も一緒に行くってことになってるの?」

「うん、そうだよ」

スマートファルコンはさも当然かのように言った。

「なんで?」

「信じてるから」

「だからなんで」

「それに、ここはヴィブロスちゃんがいるべきところじゃない」

相変わらずの決然とした物言いに、遂に私は語気を荒げた。

「知ってると思うけど私は小さい頃からドバイが好きなの。ずっと憧れてたの。だから今のままでいいの」

私はそう言い切ったものの、放たれた言葉はまるで自分のものではないみたいに空回りした。

「ドバイを目指すこととドバイに居直ることは絶対に違う。自分で手に入れるからドバイなんでしょ?ヴィブロスちゃんが目指してたのはそういうドバイだったんじゃないの?誰かから与えられたもので満足できるならそこがドバイだろうがニューヨークだろうが東京だろうがどこだって同じじゃん、何にも意味ないじゃん」

私は何か言い返そうとしたが、スマートファルコンはそれを遮った。

「答えなくていいよ。私、部屋で待ってるから」

彼女は私に具体的な逃走ルートと手順を教えると、足早に部屋を出ていった。



時計の針は刻一刻と朝に向かって進み続けていた。私は決断を迫られていた。このままドバイに残り続けるか、決死の覚悟でアブダビまで走るか。

私の胸中にはさまざまな言い訳めいた感情が巻き起こっていた。しかしスマートファルコンの決然とした表情を思い出すや否やそれらはすべて砂のように瓦解し、アラブの広大な砂漠に呑み込まれていった。

私はふと自分が在籍していた銀座のラウンジのことを思い出した。おそらくとうの昔に私のライン宛てに何らかの連絡が入っていたに違いない。クビです、という旨の。

今思えばそれは私に残された唯一の現実世界との結節点だったはずだ。私は今、それすらも失ってしまったのだ。それは広い広い砂漠の真ん中に一人ぼっちで放り出されることとほとんど同じだった。

怖い。



朝4時。とはいっても外はまだ真っ暗だった。

「iPhoneはちゃんと自室に置いてきた?」

スマートファルコンが小声で尋ねた。私は静かに頷いた。

「監視カメラの位置は大体把握してる。私の後についてきて」

彼女は最小限の動きで廊下を歩き、中庭から屋根へ抜け、助走をつけて裏口付近の高い茂みを飛び越えた。私は初めて体験するそれらの過程をおそらく脳内で幾度となくシュミレーションを重ねてきたであろう彼女と同じ水準でこなす必要があった。しかし私にはその重圧がむしろ心地よかった。

外側から改めて見た邸宅は想像以上に巨大で、それ自体が一つの巨大な化物のようだった。

「じゃあ行こっか」

私からそう言った。化物が目を覚ます前に。

私とスマートファルコンは青い砂漠の上をひたすら南に向かって走り続けた。辺りは不気味なくらい静まり返っていて、それがかえって恐怖を加速させた。

それから先のことはあまり覚えていない。なにしろ私は走ることだけで精一杯だった。スマートファルコンとは違って私はこの一年、いやそれよりもっと前からまともに身体を動かしていなかった。10分も走ると脚の筋肉がピリピリと痛み出し、20分経った頃にはほとんど感覚が麻痺していた。最終的に私たちはどれだけ走り続けたんだろうか。

一つだけ克明に覚えていることがある。スマートファルコンは自分の少し後ろを走る私のことを一度たりとも振り返らなかったということ。振り返る必要がなかったのだ。彼女の言葉を借りるならば、信じてるから。

私が最後まで走り続けられたのは、たぶん、それが嬉しかったからなんだと思う。現実的な何かとつながっていること。

ゴオオオという轟音で私はハッと目を覚ました。記憶と記憶の間の空白が恐ろしくなり、私は辺りを見渡した。隣にはスマートファルコンがいた。私が目覚めたことに気がつき、彼女は優しく言った。

「あ、おはよ」

それでようやくものごとの全貌が掴めてきた。私たちは無事に日本領事館まで辿り着き、理事長が用意してくれたプライベートジェットで羽田空港に向かっているのだ。

安堵するや否や脚部に鈍痛がぶり返した。そこから全身に疲れが回り、私は再び目を閉じた。

「私もうやめた〜、世界征服やめたぁ〜」

隣から囁くような歌声が聞こえてきた。私はほとんど形にならない声で「それなんの歌」と尋ねた。

えっとね、相対性理論の…

そこから先は夢にかき消されてしまった。



羽田空港に着いたのは昼ごろだった。

「安堵ッ!よくぞ五体満足で戻ってきた!」

そう叫びながら秋川理事長は涙を流した。人の涙を見るのって何年ぶりだろ。

とりあえず私は東谷という男が女衒のように日本のウマ娘をドバイの富豪に売り飛ばしていることを彼女に教えた。

フライトルートがきわめて特殊だったこともあり、私とスマートファルコンは煩雑な手続きをいくつも経なければならなかった。

けっきょく私たちが完全に解放されたのは夜の8時を回った頃だった。スマートファルコンはこれから国内便で北海道に帰るのだという。

「なんか理事長が頑張ってくれたみたいで、私たちの自宅の家賃とか光熱費とか、当面はどうにかしてくれるらしいよ!ラッキー!」

社会システムへの根回しの上手さだけでいえば理事長もドバイの富豪も大差がないよな、と思いつつもどうにかなったならそれでいい。

別れ際、スマートファルコンは私に「ねえ」と言った。学園にいた頃のことなんだけどね。

「よく私がウマドル活動してるときに、ヴィブロスちゃんが手伝ってくれたことあったじゃん」

そんなことがあっただろうか。私にはまったく覚えがなかった。

「私今でも覚えてるなー、あのときヴィブロスちゃんが言ってたこと」

「私、なんて言ってた?」

「愛されたいなら愛するしかない、って」

「そんな気恥ずかしいこと…」

「甘やかされたいから甘えまくる私を見習え、って」

「あー、それなら言ったかも」

「でしょ」

本当だろうか?記憶の中の青春期の私に問いかけてみた。彼女は遠くのほうから私を見て悪戯っぽく微笑むばかりだった。

「それじゃあ、またね」と言い残すとスマートファルコンは国内便のゲートへ消えていった。

私も「じゃあ」と手を振った。それから小さな声で「またね」。



帰りの東武スカイツリーラインで、私はスマートファルコンが口ずさんでいたフレーズを口ずさんでいた。

「私もうやめた〜」

相対性なんとかの、何だっけ。

北千住を過ぎたあたりで車体の振動が止んだ。私は咄嗟に吊革を掴み直した。まじまじと窓の外を凝視すると、真っ黒な川面が半分しかない月の光をキラキラと反射させていた。

そうだ、世界征服は一旦やめだ。昨日から何も食べていない。

駅前薬局。私は理事長が餞別にと渡してくれた現金があったことを思い出し、ストックが尽きかけている(はずの)ロキソニンを買い込んだ。

レジを打つ中年女性を見ながらこういうのもアリかもな、と思っていたらまたもやレジ袋を貰い忘れた。

MARNIのニットをバスケット代わりにしながら徒歩で自宅へ帰る。ドバイとも六本木とも程遠い凡庸で平坦な街並みの中を、一歩一歩踏みしめながら。

道の片側にしかない電灯。

横に広がる歩きタバコの集団。

裏路地に行き詰まるタクシー。

豆腐のような公営団地から聞こえてくる赤ん坊の鳴き声。

ハクビシンか何かにはらわたをつつかれる猫の死体。

そういえばこんな街だった。

自宅付近の公園を過ぎたところで私は晩ご飯を買い忘れていることを思い出した。この先にコンビニはない。

これを置いたらもう一度買いに行く。私は自分の心に固く誓った。私は歩き続ける。靴紐がほどけてもバイクに轢かれても隕石に降られてもドバイがどれだけ遠く遠く遠く遠く遠ざかっても、私は歩き続ける。

ようやく自宅へと辿り着いた。私は肘でエレベーターの「9F」を押した。

エレベーターを待っているとふいに痺れが回って全身の力が抜けた。

ロキソニンの箱がバラバラと床に散らばった。

私はしゃがみ込んでロキソニンの箱を一つ一つ拾い集めた。

とめどなく涙がこぼれた。

わたしいま、南越谷に住んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?