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謝らなければ死ぬ人はいます

現代の我が国には、「謝ったら死ぬ病」と言う言葉があります。
これは、さも、謝罪をしてしまえば死んでしまうと思い込んでいるかの如く見える、頑なに過ちを認めない人を揶揄する言葉として近年頻繁に利用される言葉です。

とは言え、謝ったら死ぬなんて人は存在しません。

しかし、逆に「謝らないと、その結果として命を奪われる人」と言うのは存在します。

どう言うことか、遠回りしながら考えてみましょう。

まず、何故人は謝りたがらないのか。
それは単純に己の過ちを認めること自体、極めて不快なことだから、と言うのが事実です。
そして、「その責任を負わされるから」と言うのも重要です。
そしてそれが何故恐ろしいかと言うと、「具体的にどんなケジメをつければいいのかが分からない」からです。
コロナ禍でも皆さん思い知らされたでしょうが、人々を恐怖させるのは、実は「具体化されたリスク」ではなく、「未知と言う事実そのもの」です。
だから、人々はその評価し得ない未知のリスクを何より恐れるのです。
評価し得ない以上、比較すらできません。

そしてそんな思考になるのは、実は非常に真面目だから、と言えると思います(ただし、その真面目さとは一面的なものです)。

この真面目さとは、「正しくなければならない」「間違ってはならない」と言う思い込みです。

この思考にハマってしまうと、人は間違いを認めることができなくなり、そして間違いを認められないとなると、是正することができなくなります。

さてここでコロナ禍の日本を振り返ってみましょう。

コロナ感染対策、これだけが絶対唯一の正義であり、これに歯向かうこと自体が悪とされてきました。
その結果、対策による犠牲は全て黙認されることとなりました。

自殺するのも、会社を畳むのも、解雇されるのも、
対策のリスクとして実質的に許容されてきました。

勿論、彼等は公にはそんなことを認める筈はありません。
しかし、実際にそれ等の犠牲が惜しまれた形跡はありません。
誰かが言及した時に、取ってつけたような悲しむ素振りを見せるだけです。

寧ろそんなことより、コロナにならないこと、移さないこと、そちらにばかり気を配ることとなります。
彼等にとっての責任は、そこにしかないものと、認識上はなっているからです。

そしてそれは「仕方がない」と言う論理により全肯定されてしまいます。思考停止です。

こうなれば、本来想定される様々なリスクも無意識のまま許容されていきます。

例え教育が崩壊しても、経済が崩壊しても、あらゆることが成り立たなくなるまで、突き進むのです。

これが日本が戦前から陥っている病です。

これを防ぐ方法は実はあったのです。
それが「両論併記」であり、「与野党の対立」なのです。
戦前の反省から、これ等は活かされるものと、極々一部では思われていただろうと想像しますが、人間とは驚く程学習能力や判断力を欠く生き物だったようで、
戦前を否定する者達が率先して戦前的態度をとり、また他者に強要してきました。

例え自分の考えがどれ程正しいと言う確信とともにあったとしても、反論を受け入れる度量と、それに向き合う誠実性がなければ、それは悲惨な結果しか産まないでしょう。

そしてその悲惨な結果と言うのが玉砕です。
これは、責任から人々が逃れた結果としての当然の報いなのです。

人々がその責任を負いさえすれば、玉砕は防げるのです。

我々はコロナを無くす責任なんてものは負っていません

負っているのは、社会を健全に維持発展させる責任です。
例えば未来の為に子供を育てる責任であり、
経済を豊かにする責任であり、
文化を豊かにする責任であり、
技術を開発、拡充する責任であり、
様々な綻びを修繕する責任であり、
精神を豊かにする責任なのです。

これ等の責任を放棄して、コロナにだけ固執すると言うのは、この上ない無責任なのです。

この無責任が、死ななくていい人々を殺すのです。

我々はここまで明白に分かっているのです。未来の為にも、世界の為にも、そして自分達の為にも、この過ちを認め、是正を始めていきましょう。

これが遅れれば遅れるだけダメージは広く、深くなり、立ち直るのが遅くなるだけです。


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