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シン・仮面ライダーに感じた困惑と心地よさと



シン・ゴジラがスクリーンで唸り声を上げたのが2016年の夏、あれから約7年、遠くに来たものだと思わずにはいられない。今や仮面ライダーが50周年、ウルトラマンが55周年、ゴジラは来年には70周年である

シン・ゴジラが多くの人をひきつけ、シン・ウルトラマンもこの作品をきっかけにウルトラシリーズに触れ始めたという人も散見された。そしてシン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバースなる、夢か幻かと疑いたくなるような企画まで発表され、10年後に振り返って日本の特撮コンテンツは今が一番脂が乗っている時期なのではないかと熱狂の渦にいる最中でも思わずにはいられない。

さて、そんな「シン・シリーズ」最後の作品、そして2021年の仮面ライダー生誕50周年の記念作品として、アニメ風都探偵、仮面ライダーBLACK SUNと続く最後の目玉として発表された「シン・仮面ライダー」が先日公開された


このプロモーション映像初めて見た時は「バカ!!!(誉め言葉)」と思ったものだが、これはギャグでも記念に作った小ネタでも何でもない、ただただ真実であり嘘偽りがまるで無かったのである。
そうシン・仮面ライダーとは『仮面ライダー』だったのである。
何を言っているか分からないと思う人もいるだろうが

仮面ライダー、本郷猛は改造人間である
彼を改造したショッカーは世界征服を企む悪の秘密結社である。仮面ライダーは人間の自由の為、ショッカーと戦うのだ。

という有名なナレーション通りストーリーが至って真摯に描かれていたのだった。

ショッカーのアジトを逃走するバイク。
チェイスの末SHOCKERのクモオーグ(怪人は本作ではオーグと名付けられている)
捕らえられた本作のヒロイン、緑川ルリ子。
すんでのところで崖の上に立つ仮面ライダー!
改造されたことを伝えられる本郷猛。自分自身の力に自分で恐れる本郷
殺される緑川博士!
再び拘束され攫われるルリ子
バイクを駆り追う本郷。変形するサイクロン。
本郷の姿が変わっていき仮面ライダーとなる。

そう、奇をてらわない、初代仮面ライダーの物語をいたって真摯に現代に蘇らせたのだ。原点で観たようことあるカット、お馴染みのあの台詞などを挟みつつ物語は進んでいく。
クモオーグ、コウモリオーグ、サソリオーグ、ハチオーグら旧1号編の敵がリファインされ登場する

素直な感想を言うと、「マジでかっこいい……」である。
アクションや旧1号を2023年風にリファインされた仮面ライダーのデザインなどもあるが何よりこれまでのシン・作品であったようにオリジナルにあった要素に独自の解釈を盛り込んでいく

仮面ライダーを構成する要素
ベルトにはプラーナ(作中における生体エネルギー、魂のようなもの)の圧縮装置としての役割を
マスクには生存本能を高め、襲いかかる敵を滅ぼす忌避感を消し去る、という要素を
バイクはベルトに連動する役目を
ルリ子により巻かれたマフラーには"改造人間バッタオーグ"という洗脳から解き放った象徴として(一文字隼人こと仮面ライダー2号初登場時はマフラーが巻かれていなかったのだが、マフラーが巻かれないとかくも無機質感が漂い、こうも『あ、こいつは敵だ』と思わせる)

池松壮亮さんの演じる本郷猛は、今でも時折演じ、果ては息子である藤岡真威人くんまでが演じることとなった藤岡弘、氏の強すぎるイメージによる本郷猛感をアップデートしてくれる、頭が良いが繊細で社会で生きていけない(作中でコミュ症と言われたのはやや首を傾げざるを得なかったが)若者を演じた。

浜辺美波演じる緑川ルリ子は、原点から大きく変わりSHOCKERが作りだした人工子宮から生まれた生体演算機であるという設定と変わり、同じ監督なだけあり綾波レイを思い出さずにはいられなかったし
柄本佑さんの一文字隼人は、50年に渡り続き、今や概念と化しつつある2号ライダーの始祖に恥じることのない、主人公と敵対しているがどこか軽いが確かな筋を感じる青年を見た。

そう、確かに新しいものはあった。
ただ忠実その通り過ぎて、若干の物足りなさを感じてしまった、というのもまた事実であった。

たしかに変形するマスクも、ブーストがかかり空を駆けるバイクも、かっこいい。SHOCKERが悪の首領ではなく、世界最高の人工知能で一方的に絶望を抱いた人を救済し、肉体改造を行っている。そのため多数の派閥があり、全く一枚岩ではない、というのも新しい。ショッカーライダーを群生バッタに見立てたのも面白い。だが、おそらくとっておきの隠し玉であったであろう、仮面ライダー0号ですら、「あぁ、そういうの、来ちゃうよねぇ~~」となってしまったのだ。悔しいことに。(再三言うがかっこいいとは感じていた。)

例えばシン・ウルトラマンにおいてはウルトラマンの本来の肉体は別の次元に置かれている。ベータカプセルはベータシステムの点火装置であり、それを起動させることで別の次元から肉体を呼び出す(その際、神永のカラダを掴むように手が伸び、有名な登場ポーズとなる)
のような「それは思いつかなかったあああああああ!!!!!!」というのが無かった。と感じてしまった。


なぜこう思ってしまったのか。
仮面ライダーは色んなことをやりすぎた、というのが大きいのかもしれない。もちろんウルトラマンにも『ULTRAMAN』のように原点回帰的作品はあるが、仮面ライダーは擦り倒しすぎというのがある。
『仮面ライダーThe First』や『真・仮面ライダー序章』のように原点のリメイクや再構成も、『仮面ライダー1号』のように今に生きる1号のその後を描くことも。『スーパーヒーロー戦記』のようにメタ的に石ノ森章太郎を物語に組み込むですら。ルール無用がルールとでも言ってもいいくらいに仮面ライダーが描く裾野は広がった。

仮面ライダー1号という存在と本郷猛を切り離すことが出来ないという問題もある。こればかりは他2作と比較するとどうしても出てくる点だろう。
シン・ゴジラは現代の日本に現れたという設定であり、矢口ら人間側には1954年版にあたるようなキャラクターは感じられなかった。
ウルトラマンはオリジナルではウルトラマンと一体化するのはハヤタ・シンではあったが、『シン・ウルトラマン』では神永伸二という人間である。

シン・シリーズに慣れすぎた、というのもあるかもしれない。たらればの話はなってしまうが、もし、シン・ウルトラマンとシン・仮面ライダーの公開順が逆であったならば、もっと「それは!!!」と思えるものがあったかもしれない。
ちなみに本作で私がもっとも衝撃を受けたシーンは『政府の男』こと竹野内豊と『情報局の男』こと斎藤工が名前を名乗ったシーンである。すっかり彼らのインパクトにカモフラージュされ、その可能性にまったく思い当たらなかったのである。特に竹野内豊の名前は実写シン・シリーズ皆勤賞なだけあり、納得しかない配役であった。(斎藤工もそうなのだが)

だが

と、このように困惑に近いもの感じたのだが、しかし同時に心の奥底で心地よさを覚えたのもまた事実であった。それはかっこいいから、というだけではない何かがあった。

原風景と言うものがある。心の奥底に眠る懐かしさを伴う風景。
私にとってのヒーローの原風景というものがあるならば世代的に平成3部作のウルトラマン、平成ライダーがまさにそれにあたるので、本来初代仮面ライダーはそこにリーチしないはずなのだが、庵野監督の心の原風景をシン・仮面ライダーに見、写し鏡のように私の原風景が映し出されたのである。

観よ。サイクロン号で駆け抜ける仮面ライダーの姿を……
……いや速すぎないか?


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