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仮免3回落ちた話


永遠と一瞬

あのとき、あの場所で、あの絶望は永遠だった。辛いとき、人は今を永遠のように感じる。あれは嘘ではないらしい。そう、僕は仮免に3回落ちた。今日はその話をしよう。確か大学2年の夏。胸躍らせて迎えた免許合宿。楽しく始まるはずだった。

教習所に降り立って

某自動車学校に降り立った時から直感的に理解した。ここには何もない。あるのは車と建物だけ。関西の大都市からバスに揺られて2、3時間、まさかここまでのド田舎とは思っていなかった。下調べは何事においても大事だが、殊免許合宿においても重要であると伝えたい。通学ならまだしも2週間も過ごす場所を適当に決めていいわけがない。あの頃の自分に言ってやることができるならきっとこう言う。「自分の宿泊先のことくらいもっと調べような。」と。移動手段は徒歩のみ。それもそのはず、交通手段を得るための合宿なのだから当たり前だ。自転車の手段もあったのだが、貸し出し自転車はどれも錆び付いていた。しかも借りるには千円を預けなければならない。自転車が壊れたら千円は返してくれないという。こんなド田舎で、小銭稼ぎをしようとは自動車学校も大したものだ。免許合宿に貯金をぶっ込んだ大学生がなけなしの千円をドブに捨てる訳がない。自転車はやめておいた。唯一のエンターテインメントが徒歩圏内では図書館のみ。その時だけは読書の習慣があった自分を褒めてやりたいと思った。本だけで世界が広がるような童心に帰っていたのも束の間、この時はまだ気づいていなかった。これが悲劇の始まりだと。

宿泊所にて

初日の簡単な説明を終えると、早速荷物を預けるために移動した。てっきり教習所に併設している宿泊所だと思っていたら女子専用らしく入れてもらえず。田舎にも関わらずさらに山奥に飛ばされ、寂れた刑務所さながらの建物に行き着いた。まさかとは思ったが、この廃墟が僕らの生活空間らしい。WiFiは予想通り部屋にまで届いていない。免許合宿を申し込むときに、WiFiを条件にするかしないかで揉めたのはなんだったのか。そのときから不穏な空気が漂い始めていた。

食堂にて

教習所に来て初めての朝。初めての朝ごはん。なんとゆで卵と千切りキャベツとロールパン。まさかこれが毎日続くわけがないだろうと真面目に思っていた。だが毎日続いた。教習所から帰ってきた今となってはあのとき僕たちは収監されていたのだと本気で思っている。娑婆に戻ってからの飯は最高に美味かった。皆日々にもっと感謝しような。話戻って、その刑務所食堂の名はニューヨーク。見たところNewYorkの要素は一つもなかった。食堂の要素しかない。三角巾を被ってエプロンをした口うるさいおばちゃんと格好を同じくした優しいおばちゃん。おばちゃんだけでアメとムチを使い分けるのも大概にしてほしい。

いよいよ始まった教習所での日々

いよいよ待ちに待った免許合宿の始まり。経験のある方は免許合宿について既知だと思うので、詳細について割愛させていただく。要するに運転について机上と実技で学ぶというわけだ。机上学習はなんてことなかった。おっさんではなく、教習所の先生の話を黙って聞いてテストに受かればいいだけの話。かくいう僕は最終筆記試験に落ちている。名誉のためにどうか秘密にしていただきたい。話は脱線したが、問題は筆記ではなく実技。運転免許を取るための合宿なのだから実技があるのは当たり前だ。僕はどうも実技が苦手らしい。つまり運転に向いていなかった。何を隠そう免許を獲得した今、晴れてペーパードライバーである。一応原付には乗るよ?運転はできるよ?運転させたくないとか言わないで?ドライバー雇ってドライブいこ?話はまたも脱輪したが実際に合宿で運転をしていたころの話をしよう。

車という閉鎖空間の中の地獄

そもそもの話、僕は運転が苦手だった。僕の中で運転が苦手なのはそれなりにショックだったけれど、運転していれば慣れるだろうと楽観的な心持ちでいた。だが事態は深刻だった。運転に慣れる前に心が叫んでいた。別に叫びたがってるわけじゃない。当時練習していたのはMT。クラッチの動作がどうにも掴めず、苦戦。それに間違えると罵倒に近い言葉を吐かれるので焦ってさらにできなくなる。運転する。できない。怒られる。焦ってやる。できない。怒られる。これの繰り返し。悪循環である。

なにかとハラスメントがあれば声高に叫ばれるこの時代に、壮絶なパワハラが田舎の教習所には根強く残っていた。教官と二人。ひとたび教習が始まれば罵声を浴びせられる。運転ができないというだけでどうして人格まで否定されなければいけないのか。教習所の卒業と同時に教官をぶん殴ろうとかは思わなかったけれど、教官を運転できるだけの能無しと心の中で毒づいていた。

補足すると、今冷静に考えると人格まで否定されていなかっただろうと思う。ただ山陽地方の方言が非常に悪い方向に働いたといった方がいい。地方に関する明言は避けるが、聞くところによるとどうやら教官は怒っているわけではないらしい。ただ言い方がきついだけだと。その言い方をなんとかしてほしいと思ってもなんとかなるはずもなく。こちらは運転に必死で教官の方言にとやかくいう余裕もない。車内という小さな空間で地獄が繰り広げられることになろうとは。

もう鬼教官の話はこの辺にして仮免の話をしようか。いやその前に言っておかなければいけないことがある。宿泊所の様子についても話しておきたい。

DQNの生態(番外編)

宿泊所の話、要するに生息する人種の話。免許合宿所が田舎にあるということは、そうDQNがいる。DQNとは何かという野暮なことを言わないでいただきたい。DQNはDQNである。それ以上でもそれ以下でもない。

DQNの生態について詳しく話そう。DQNは基本室内ではパンイチである。これは疑いようのない事実。季節は夏だったのでそれも必然だろう。僕が泊まっていた宿泊所にはお風呂が大浴場しかなく、それも20人が入れたら十分だろうという大きさだった。浴槽は2つ。そのうちの1つはDQNのものだった。誰もその1つには近づかない。DQNに近づいたら何をされるか分からないからそれもそのはずである。そして大渋滞の風呂は夜にはなかなか入ることができないので、僕と、共にきていた友人は朝に入ることにしていた。するとある朝風呂の戸を開けるとなんと、DQNがいた。こいつは朝も夜も風呂に入っている。風呂が相当好きなんだろう。結論DQNは風呂が好き。

最後に、DQNは家族にしっかり連絡するということ。大声で携帯電話で話していれば、嫌でも耳に入ってくる。「明後日にはかえれると思う〜!」しっかりと報告するのはとても良いことだ。ただし声が大きい。冗談はこの辺にして本筋に戻るとする。

仮免最初の挑戦

仮免を挑戦と呼んでいる時点で未来が見えていると思うだろうが、このときの僕は1ミリも未来が見えていなかった。もちろん今も未来は見えてない。当時は現実も見えていなかった。

苦手なりに運転は徐々にできるようになり、迎えた仮免。坂で止まってまた動き出し始めるという場面。ゆっくり坂を下っていき、結果「逆行」という減点項目により不合格。調べたところ、「逆行」という項目では一発検定中止になるようなことはなかった。節々に細かい減点があったのだろう。坂道を登り切っていたらそのまま受かっていただろうと思うのだが、この後さらに2回も仮免に落ちる人が何を言っても説得力はなかろう。この時僕は何事も結果が大事だと思った。次受かっていたら、前回の不合格はたまたまだったと言えたのだから。

どうにもこうにも仮免の落ち方がわからないという方は世の中には色んな人間がいることを思い出して、できる限りあたたかい気持ちを持って読んでほしい。

二回目の挑戦

仮免に落ちると何がめんどくさいかというと、見極めを再度しなければならない。また教官の当たり外れによって、次に対する意気込みも変わってくる。もう見極めをしてくれた教官の顔など今覚えているはずもない。それほどまでに教習とは人生において影響を与えない。後は免許停止を防ぐだけだ。気を付けたい。教習なんて二度と御免だ。

なぜ教官によって次の意気込みが変わるのかというと、教官の態度が二極化するからだ。仮免で落ちたことにより明らかに見下したような横柄な態度を取る人と、赤ちゃんを見るような優しい笑みを浮かべる人の大きく分けてこのふたグループになる。どちらかが精神的に堪えるか。前者である。後者はより丁寧に運転の仕方を教えてくれるが、前者は投げやりだ。「次受かるか分からんけど、やったらええんちゃう。」って言われた時は、心の中で本当に「うそやん。」と呟いた。教官の仕事放棄を目の当たりにしたからである。この時はまだ毒づく余裕があった。いくら手が付けられないからとはいえその態度はなんだ。こうして子供は大人の理不尽を知るのだ。と弱冠20歳は思った。

二回目の挑戦は、初回の坂道をクリアし合格できるように思われた。特に注意されることもなく、最後の交差点に差し掛かった。交差点に入るまでにかなりスピードが出ていたことを実感していた。(仮免やから出ても2,30kmとか言うのやめようね)信号が青から黄色に変わったのが交差点直前だったので「いける!」とアクセルを踏み込んだら普通にブレーキを踏まれた。一発アウト。あの時の教官はなんと言ったのか覚えていない。「それはあかん。」とでも言っていたろうか。僕は「2回落ちるとかあるんや。」と思いながら、いやないないと自分で自分にツッこんで大人しく帰った。

三回目の挑戦

もう三回目の見極めともなると特に何を言われることもなく、教官の顔に二つの表情が浮かぶ。諦めと戸惑い。このどちらかだと断言する。

まず「諦め」側の教官は適当に指示をして窓の向こうを見つめている。なぜ運転をしているのに教官の方を見ているんだ、運転に集中しろ。確かにその通りだ。しかし言い訳をしたい。ごくたまに急に叱責してくるタイプの教官がいる。本当に突然なので、方言も相まって何に怒られているか分からず、驚きと焦りと怖さで足が震える。だから定期的に確認しなくてはならない。「諦め」側の教官の怒りスイッチはいつ入るか分からないのである。

次に「戸惑い」側の教官は比較的若い方に多く、どう教えようか試行錯誤してくれるので大変心強い。精神的にいじめられないことがこれほどまでに運転を左右するとは思いもしなかった。メンタルブレイクしている時に運転してはいけないのは本当らしい。この時点で既に2回落ちている人が言うのだから間違いない。運転できているような気にさせてくれるのも一つの能力だと思う。まだ経験も浅いようで運転技術の教え方は言葉足らずな点もあったが、1ステップずつ丁寧に教えてくれるというのはそれだけで落ちこぼれ組には価値がある。教えるのがうまいとはどれだけ相手の立場に立てるかである。運転を教わる学校で運転以外のことを教わった気がした。

三回目の挑戦。記憶が確かでないが、これに落ちると延泊確定だった。絶対に落ちられない三回目仮免。結果不合格。減点項目は「指示違反」で、三度ほど減点されアウト。極度の不安と緊張から教官の言葉は右から左へ流れていったが、僕は数ある車の海に左へ流れることができなかった。もう絶望である。三回目ともなると茫然自失だった。さらに教官は追い討ちをかける。「そりゃ、こんだけ落ちるわな。」車から降りて、トイレに行って個室で泣いた。

その後

四度目の正直で、仮免に受かり路上に出てからも色々あった。もうこのくらいにしておこう。無事免許を取ることができたので良しとする。

仮免のその後について少しだけ。実のところ確定した延泊をせずに、春に戻ってくる約束から執行猶予付きで仮釈放されていた。春に戻ってきた際にいきなり路上教習から始まったのだが、夜で視界も悪く緊張していると教官に話しかけられた。「見ない顔だね、通いかな?」「いや通いじゃないです。」教官は教習シートを見て言う。「え、前回は9月と……9月!?」

たった2週間あまりの合宿について軽いレポートほど書けるとは思ってもいなかった。大学生の時分にあれほど苦労したレポート字数を優に超えた。経験とはこれほどまでに多くを語ることができるのか。読書で知識を身に付けることも大事だが、実際に経験することも大切であると自動車学校でまたも他の知見を得た。皆さん良い経験をしてほしいと思う。

余談だが僕は免許合宿が中盤に差し掛かっていたある夜、夢精をした。「何もかも濃い日々だった。」と締めて、あの頃の自分を成仏させてあげたい。




*ここまで読んでくださった方。本当にありがとうございます。この文章は完全に個人の見解であり、特定の人物、団体を誹謗中傷するものではありません。




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