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おとうと

第38話

真面目に通勤していたのはどのくらいだったろうか。
働くようになった。
給料をいただくようになった。
学校から解放されて自由になった。

これらの事実がどれほど弟の心理に影響したのか
今なら分かるけれど。
当時は「なんか付き合い難くなってきたなぁ」と
刺が出てきた弟に困惑するようになった。
素直で優しい面もある。それが弟だ。
素直さと優しさが欠けるなら。
あいつの魅力って何なんだ。

人間関係でかなり衝突を起こすようだった。

話しかけたのに返事をしてくれなかった。
仕事の指示で嘘を吐かれた(相手のただの勘違い)
会話の最後、口調が気に入らなかった。

そんな理由で相手を謗る。
相手だけでなく周囲にそれと知られるような。
仕事終わり、シフトが合うようなら
弟の勤め先に寄って一緒に帰るなどしていた。
その際に目に付く傍若無人ぶり。
自分より年上の従業員にけんもほろろ。
相手はバックがない。
弟には別部署で責任者やってる母がいる。

こいつこんなことするんだ。

呆れるような情けなく思うような。
ツンケンされた相手の動揺が
見ている私にさえ伝わってくる。
とても嫌な面を感情の赴くままに
露にしていた。

あれはいかん。

弟に釘をさす帰り道。
本人はのらりくらり
そんなことどうでもいいよと言わんばかりで
別の話題をこちらに振ってくる。
2度ほど窘めて、それでも本人が聞く耳もっていなければ
私も弟が提供する話題に乗ってしまう。
母も弟の勤務態度を歓迎していないようだったが、
弟が所属していた部署の責任者は
母ととても仲良しだったそうで
強い注意はまだしていないようだと伝え聞いた。

「ガツンと言われた時点で終わりだね、あいつ」

私の素っ気ない感想に母は「そうね」と
短く答える。
優しいヤツなのに。そういう性質こそ
職場で発揮すればいいのに。
そんなことを考えた。

働き始めて1年も経たない頃
管轄のナンバー2が転勤することになった。
まだ若いのにそのポジションに就く、大変なエリートだ。
母曰く、見た目可愛らしいが
鬼神のような仕事ぶりで出世街道驀進中の幹部候補。
そういう人が上層部とされる人になって
社会を回していくんだろうと、ぼんやり思った。

その人の送別会前日。
私の部屋に1通の手紙が置いてあった。
正確にいうと机の上に置かれてた。
当時1本で14色書ける太いボールペンを持っていて
筆まめだった弟はそのペンを借りるため
私の部屋によく入っていた。
私の机で手紙を書き封に入れて糊付けして。
PHSが通信手段の主流だった時代。
まだまだ手紙のニーズは高かった。

弟はたまに私にも手紙をくれたのだが
私宛のそれは便箋を綺麗に折りたたんだもので
封筒には入れていない。
その日机にあったのは封筒に入ったもの。
だが封をしていない。
机に1通の手紙。使ったペンは筆立てに入っている。

え?これ私宛?

いつにない封筒入りに少々戸惑いつつ
けれど封もしていないし弟は不在だしで、
多分私宛に書いたものだろうと判断して
封筒から便箋を取り出した。
薄いピンクの便箋は大小取り取りのハートで
埋め尽くされていた。
女の子が好んで使いそうなデザインのそれに
同じくピンク色のペンで綴られていたのは
ナンバー2に対する熱い思い。

「好きです」
「男の子が〇〇さんを好きって、気持ち悪いと思いますか?」
「こんな男の子がいたということを忘れないでください」

一瞬で頭が真っ白になる。
確かにそれっぽいとは思っていたが。
いや、それは別にいい。
そうではなくて。
職場の上司にこんなもん。
母の口ききで入ったんやぞ、あの会社に。
ダメだろダメだろこれは。

2度読み直して自分の理解に誤りがないことを確認して、
さてどうするかと暫し悩む。
黙っているわけにはいくまい。
こんな手紙渡されたら母の面目丸つぶれ。
弟が隠さなくなりつつあった刺に
こんなところで遭遇してしまったことに、
時が過ぎるごとに混乱を深めた。

弟はその日「友達」とカラオケに行っていた。
仕事から帰った母に手紙の存在を打ち明ける。
一瞬で眉を顰め

「どこにあるの!」

と叫ぶ。
慌てて母に手紙を渡す。
一読して顔色をなくした母は、
その便箋を生ごみ用のポリバケツに突っ込んだ。
怒りを必死に堪えているのが伝わってくる。
自分さえよければ周囲がどんなに困惑しても意に介さない。
そんな気質をよろしくないことと、
母はいつも窘めていた。弟は
「うん」
といつも頷いていた。それなのに。

弟帰宅後嵐が吹き荒れた。

「ああいうもん、人の部屋に置きっぱなしにしないでよ」

戸惑う私の言葉を煩わしそうに払う。
気まずい気持ちもあったろうがそれより、
母がいなければ入職できない職場において
こんな不埒な真似をしたことに衝撃を受けた。

「人を好きになる気持ちを否定することはないけど、
状況は考えなきゃダメだろ。お母さんも会社に
いられなくなっちゃうよ」

弟が落ち着いた頃声をかけた。
「うん」と答えた。
理解してくれたと思っていた。

誤解していたと気付くのは、この2年後だ。


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