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『追悼・小澤征爾さん』

 小澤さんの訃報が届いた。
僕が最初に小澤さんの棒(指揮)でラッパ(trumpet)を吹いたのは
桐朋の学生でAオケの練習の時だった。
もう、50年ほども昔のことだ。
あの時はR.シュトラウスのドンキホーテの練習だった。
チェロは堤剛さん、ビオラは後にベルリンフィルのコンマスにもなった安永徹だ。

当時、桐朋のオケではバイオリン弾きは曲によってパートが変わっていた。
最初の曲は1st.バイオリンの席で、二曲目は2nd.バイオリン、
そしてもう一曲はビオラのパートを弾く、と言った具合だ。
だから、安永のようなバイオリン弾きでもビオラを弾いていたのだ。

桐朋のAオケは毎週金曜日6時から402(号室)で練習をしていた。
むろん1秒でも遅刻など大厳禁だ。
6時前にはチューニングも完了して
斎藤先生(仲間内ではトーサイと呼んでました)が
ドアを開けて登場するのを待つこととなる。
これが桐朋オケの常識だった。
(後に小澤さんが遅刻魔だったと聞いて驚いたが。)

あの日はが斎藤先生が小澤征爾さんを呼んで練習に参加させたのだ。
そりゃあ、オケのみんなは盛り上がるさ。
先輩とはいえすでに国際的にも有名になっていた
小澤さんが練習指揮をしてくれるのだ。
練習場には尾高忠明(chu~)、井上道義(mikkie)、小松一彦、
堤俊作、山本七雄など指揮科の連中も
目をキラキラさせて座っていたはずだ。

小澤さんはサッと指揮台にのぼると
みんなの顔ををゆっくりと見まわしてから
両手をゆったりと上げて指揮棒を構えた。
オケ全員がスッと構えた小澤さんに集中する。
演奏モードに入った瞬間、
えいっ、とばかり指揮棒が振り下ろされる。

ババ〜〜ん、

「あ、違う違う」
小澤さん、そうじゃなくて
ちょっと指揮棒貸して。
な、なんと、ダ、ダメ出しだ。
トーサイ(斎藤先生)が指揮台に登り
うう〜ん!!と振る。
オケがぴったりと揃う。
トーサイ(斎藤先生)がニヤリとして
指揮棒を小澤さんに返す。

そりゃそうだよな。
俺たちはトーサイ(斎藤先生)の指揮には慣れてるわけだから
アインザッツ(合奏)がピタッと合うのは当たり前だ。

でも、あの時は全員がのけぞって驚いたな。
桐朋だとみんなの前でも世界の小澤さんがダメ出しされちゃうのかと。
トーサイ(斎藤秀雄先生)が恐かったなあ。

その後、
俺はN響や新日フィルなどで
プロのオケの仕事をするようになる。

そんな1974年の時だ。
桐朋の弦楽オケと新日本フィルが
海外ツアーをすることなになった。
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ。
10月半ばから11月頭までだった。

指揮者は小澤征爾さんと秋山和慶さんたち。
プログラムにノベンバーステップスもあったので
武満徹さんも同行していた。
ニューヨークでは国連やカーネギーホールで、
ケルン(当時は西ドイツ)では今は無くなってしまった
ギュルツニッヒホールでベートーベンの5番「運命」や
ベルリオーズなど小澤さんが得意で派手な曲目を演奏した。
僕はこのケルンでのコンサートがきっかけで
翌年にケルンへ行くことになる。

この時、
小澤さんはまだ30代の若者で
前年にボストンの指揮者になったばかりだった。
僕もまだ20代。
今から思えばあの時の新日フィルって
平均年齢は30代くらいなんじゃなかろうか。
まるで青少年オーケストラだな。

どの会場でも拍手喝采スタンディングオベーションだった。
そりゃそうだろうな。
東洋から来た日本の若者ばかりのオーケストラが
あれだけの演奏をするのだから。

ニューヨークの国連本部での演奏は
確か斉藤先生が招待されたのではなかったろうか。
その斎藤先生は夏のBオケの志賀高原での合宿最終日に
モーツアルトのディベルティメントを
車椅子に座ったまま指揮したのが最後の演奏となった。
あの時は桐朋のOBでN響トランペットの祖堅さんが
「うめもと 行くぞ」
というので一緒に車を飛ばして志賀高原まで行ったのだった。
演奏している者も聴いている者も誰もが泣いていた。

・・・・・・・

国連の会場に入ったチェロ奏者の連中は大興奮していた。
それは1971年に同じ場所でカザルスが数十年ぶりに
『鳥の歌』を弾き平和へのスピーチをした場所だからだ。

チェロ奏者たちにとってカザルスは神だったのだ。
皆、カザルスの演奏した場所に交代で座って感動していた。
出来れば『鳥の歌』も演奏したかったろうな。

このツアーではカーネギーホールでも
小澤さんの棒で斎藤先生への追悼演奏も行われた。

小澤さんの棒(指揮)は
明快で分かりやすく演奏もしやすかった。
曲の作り方もダイナミックなので
派手な曲は得意としていた。
例えばベルリオーズ「幻想交響曲」とか
「運命」とか「海」とかだ。
フォルテシッシモなどはもうこれ以上は出ない
という時でも
「もっと、もっと〜!!」
と興奮して要求するのでコンサートが終わった時は
ほんとうに重労働でした。という感じがしていた。

新日フィルでは山本直純さんが
「オーケストラがやって来た」のようなテレビ収録や
「寅さん」の映画音楽など軽妙なポップス系の音楽を。
そして、
小澤さんがクラシック系のプログラムを指揮していた。

この二人の個性的な指揮者のいた新日フィルは
ボストンシンフォニーとボストンポップスのような感じであった。
どちらの指揮者との演奏もそれは楽しい時間ばかりだった。

懐かしいな。

その後、
僕はドイツ(ケルン)へ行ってしまい。
オペラや教会のコンサートで演奏するようになった。
現代音楽ではジョンケージやシュトックハウゼンともコンサートをした。
そんなドイツでの演奏がストレスなく出来たのもトーサイ(斎藤先生)や
小澤さん達から教えてもらった音楽の基礎が役立っていたに違いない。

小澤さんの訃報には
世界中で溢れんばかりの愛情と
感謝でいっぱいの追悼文が寄せられている。

僕も本当に素晴らしい人に出会えたことに
感謝でいっぱいである。

小澤さん

 向こうでもまた人気者になるでしょうね。
 本当にありがとうございました

 安らかに。。。。。

  うめもと 。  2024.feb.


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アメリカ・ヨーロッパツアー1974

ツアー日程は10月14日~11月3日の3週間(指揮者は、尾高忠明、国分誠、久志本涼、秋山和慶、小沢征爾の各氏)。
イェール大学・ウーズレイ・ホール(10月16日)、国連会議場(10月23日)、ボストン・ニュー・イングランド音楽院(10月25日)、ニュー・ヨーク・カーネギー・ホール(10月31日)などアメリカ東海岸の主要都市で演奏会おこなう。
イェール大学では、小沢征爾氏もボストンから駆けつけ、斉藤教授の追悼演奏を行い、イェール大学から斉藤教授に名誉あるサン・フォード賞が贈られた。
また、カーネギー・ホールでの演奏会ではアメリカ音楽会の大御所アイザック・スターン氏自らの申し出で、斉藤教授とロシアの大ヴァイオリニスト・ダヴィッド・オイストラフ(やはり1974年に亡くなった)の追悼ためにハイドンの『ヴァイオリン協奏曲第2楽章』を桐朋学園弦楽合奏団と共に演奏してくれた。
この演奏旅行の反響は大きく、これを機に世界的にも第一級のユースオーケストラとして認められた。
1991年に再度カーネギー・ホール100周年の記念企画で『ユース・オーケストラの祭典』に桐朋学園弦楽オーケストラ(高関健指揮)が招待されたときは、予想をはるかに上回る堂々たる演奏で他を圧し、その実力を世界に示した。
このとき、いろいろと支援してくれたニューヨークのジュリアード音楽院を表敬訪問した際、ヨーゼフ・W・ポリ―シ院長が「1974年にイェール大学で聴いた桐朋学園弦楽オーケストラの演奏は忘れることができないすばらしいものだった」という言葉をかけられて感動した。
(2013.02.06)ネットより転載。

Boston symphony orchestra 
追悼演奏
https://www.youtube.com/watch?v=XNEnHZoul6s

https://www.facebook.com/bostonsymphony/

タングルウッドにあるセイジ オザワHALL



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